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32、孔雀石
* * *
桜は、闇を見ていた。
暗黒の中に、はらりはらりと淡紅色の桜の花弁が舞っている。しかしその花弁は、次々に闇に吸い込まれていき、やがて最後の一枚も消えた。
闇にも種類があるのだと、桜は気づかされる。「何」で構成されているかによって、性質も変わるらしい。
今目の前にしているそれは、中でも一等危険なものだ。
尽きることなく増幅し、全てを飲み込もうとしている「何か」。
冷たく頑なな闇は集合体で、かつては別の存在であった。しかしここまで変質し、一体化しているとその正体はわからない。
育まずに奪う。嘲笑って呪う。衰躯から尚も命をすすり、共に来いと誘い、引きずりこもうとする。
無数であり一つの、途方もない悪しき力。
絶望が身内で生まれて、闇に共鳴する。恐れて震えるためにうっかりゆるんだ扉の隙間から、それらはなだれ込む。
甘く囁いて狂わせ、自ら望んで服従させるのだ。強大な闇の一部になった自覚もないままに、支配されて破滅へと向かっていく。
魂は深淵に落ちて消滅する。
光が――足りない。
桜はもがいた。己が立っているのか、落ちていく最中なのかもわからない。
闇は光より強く世界を照らす。目に見えないゆえに、地獄は際限なく広がっていくのであった。
小さな桜はひらひら舞って、無限の悪意の中をさまよう――。
「桜公サクヤ。降参か?」
温かみのない、笑い混じりの声でサクヤは現実に引き戻された。
薄暗がりの中に見えるのは、ユウェル国第七王子の端整な顔だ。こちらをのぞきこんで目を細めている。
どうやら、また交わりの最中に気を失っていたらしい。
何度か達すると力つき、そのまま意識を手放してしまうことが増えてきた。
サクヤはやり方に特に注文をつけたことはなく、テクタイト王子に好きなようにさせている。中で吐き出す際は、大体魔力も同時に放出されていた。
これによる快感があまりに度が過ぎているため、体が耐えられないのだ。
夜通し嬌声をあげ続け、幾度も絶頂を迎えていれば、肉体に負担がかかるに決まっている。
着実にテクタイトから魔力を奪っていたサクヤだったが、それで疲労を回復するには至っていなかった。
花の子の場合、相手と心が通い合っていれば交わりの負担も減り、健やかになる。抱かれた後に周囲から美しさが増したと揶揄されるのはこういった理由もあった。
だがサクヤとテクタイトの場合、精神に完全な断絶があり、体を無理矢理合わせている状態だ。よってサクヤは消耗し続けている。
「私は……ひ弱なもので」
サクヤは力なく笑った。
生まれついての肉体の強度というのはどうにもならない。持久力のなさは昔からの悩みで、戦闘などは長引かせないように工夫して乗り切ってきた。
(……読み違えたのか、俺は)
体を起こす気力もなく天井を見つめていたサクヤは、白百合公リーリヤからの手紙を思い出していた。
鈴蘭族の若者が事件に巻き込まれたと知って宮殿を飛び出していった鈴蘭のキミカゲは、無事に若者達を連れて戻ってきた。その際、預かってきたというリーリヤの手紙を渡されたのだ。
思ったよりも内容は厳しい調子ではなく、どこか遠慮したような書き方ではあった。私が言えたことではないかもしれませんが、とあり、自分をもっと大事にするべきです、と綴られている。
いつものように彼の小言は大して心に響かなかったが、最後の方の言葉は少々胸に刺さった。
――あなたはそれでよかったとして、侍従のイチカはどうでしょうか。忠実なイチカは何も言わないでしょう。その胸の内を、少しでいいので察してあげてください。
言われるまでもなくわかっているが、あえて考えないようにしていたのだ。だからこの指摘は痛かった。
イチカは優秀な侍従長だ。身勝手な族長に進言もせず、粛々と従い続けている。口答えされないのが、かえってつらいくらいであった。
(ここらで、身を引くべきだろうか)
第七王子の力は、思っていた以上に「おかしい」。禍々しさもさることながら、性質が普通のものとは異なっているのだ。
奪っても奪っても充足感がなく、いくらでも貯められる。魔力の総量を一時的に拡張できる魔術を使っているのだが、際限なく貯められるはずはなかった。
体内の清水がどす黒い液体に汚されていくようで気分が悪い。どうしたって相容れない力なのだ。このまま続ければ、肉体か精神に無視できない不調が出てくるだろう。
そして、サクヤのやっていることは同胞への裏切りにもなり得る。テクタイトが力をつけたなら、それはサクヤの協力もあってのことなのだ。
危ない橋だというのは承知の上で渡り始めたが、予想以上にこちらの消耗が激しくて計算が狂ってきた。
本来であればもう少し、この男の中身についてさぐれるはずだったのだ。だが、どうにも手強すぎた。
いくら会話を重ねても、何もわからない。
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