八 夜会へ

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八 夜会へ

「平坂。麗華は何をしているのだ」 「葉室家の歴史を学びたいと申されて古文書を読んでいらっしゃいまして」 「それは知っている。私が聞いているのは、なぜ庭にいるのか、という事だ」 「ああ、虫干しですね」 古文書の他、古い本を読んでいる麗華は手入れのため天日干しをしていると平坂は説明した。部屋の窓から彼女の様子を見ていた丞太郎は頭をかいた。 「休んで居ればいいものを」 華奢な体の動きは俊敏であり、休まずもくもくと作業をする彼女を丞太郎は歯がゆく見ていた。 動くワンピースは彼女が選んだすみれ色であり、麦わら帽子は弾んでいたが、 麗華の体調を気にしていた。彼女の左腕の火傷痕は痛みと知っているが、今は食事の細さを彼は心配していた。 「食も細く、あれでよくやってこれたな」 「ですが、今朝は卵を食されましたし。屋敷に来た時よりも顔色は良いかと思います」 「……ちょっと行ってくる」 話の最中。麗華が気になってしょうがない丞太郎は思わず庭にでてきた。 「麗華。あまり無理をするな」 「大丈夫です、今日はこれだけですから」 芝生の上、新聞紙を引いた上に本を並べていた麗華のそばに彼がやってきたのではテイはそっと姿を消した。 晴天の下、麗華は額の汗を拭った。 「それにしても古い文献ですね」 「君はこんなものに興味があるのか」 「はい。色々書いてありますよ。この古文書がそうですが葉室様のご先祖で伊勢参りに行って来た人がいるようです」 そう言って麗華は屈むと古文書を一つ手にした。丞太郎は自然と肩を寄せた。 「ほう。私も知らないな」 「ここに書いてあります。道中の茶店(ちゃみせ)で食べたお菓子の事が書いてあって、今はそのお菓子が気になっています」 麗華が指す箇所に彼はなるほどと頷いた。 「……確かに気になるな。ぜひ後で教えてくれ」 「かしこまりました」 日差しをまぶしそうにしている麗華に気が付いた彼は、そっと自ら影を作った。 「ところで。まだここにいるのか」 「いえ、屋敷に戻ります」 「では参ろう」 ……あ、そうか。影を作ってくれているんだわ。 何も言わない優しい行為に麗華は胸を打たれていた。一緒に歩くその不機嫌そうな顔と大きな体、厚い胸、広い肩、大きな腕、手を麗華は見つめていた。 ……これは不機嫌ではないのね、まぶしい顔なのね。 彼の細かい心情が少しづつわかってきた麗華は、思わず見つめていた。 「さあ、入れ」 「ありがとうございます、私は部屋におります」 「ああ」 優しい彼の気遣いを胸に恥ずかしそうに廊下へ消えた彼女を彼は見ていた。 ……何かあったのだろうか。 思わず眉間に皺が寄る丞太郎であったが、書斎で仕事を進めた。 この日、彼の部屋に麗華とテイが昼食を運んできた。 「悪いな、この部屋で。ん。洋食か」 「はい」 「一緒に食べようか」 そんな二人はサンドイッチを食べた。 「美味いな」 「……」 「恐れ入ります。そちらは麗華様がおつくりになられました」 「そうなのか」 「はい」 「……これを、君が」 なぜか自慢げなテイの様子に丞太郎は思わず手元のかじりかけを見つめた。そんな彼に麗華は微笑んだ。 「お口に合いましたでしょうか」 「まあ、な」 つい憎まれ口の彼はすべて食べ終え、紅茶を飲み干した。食後の彼は麗華に話があると切り出した。 「実は今度、夜会がある。私は仕事と葉室家の関係でこのような集まりが多いのだが、今までは面倒なので断って来た。しかし、今度のはそうもいかぬ」 「何か、特別なのですか」 「小倉家は私の遠い親戚なのだが、君を連れて来いという御指名だ。なぜこうなのかわからないが」 ……お困りの用ね。でもこういうのは参加していかないと。 丞太郎の迷惑にならないよう婚約者としての務めは果たしたい麗華は、決意した。 「かしこまりました、私も参ります」 「ありがとう。ドレスなど支度するものがあれば、平坂に申せ」 「はい」 「以上だ」 「はい」 麗華は話が終わったので退室しようと背を向けた。 「あ、あの麗華」 「まだ何か」 ……くそ。まだ話をしたいのに。 麗華を前にすると思いが詰まり話ができない彼に、麗華は首をかしげていた。 「いや、なんでもない」 「はい、では支度をします」 ……早速、夜会のしたくをしなくちゃ。その前に虫干しも片づけないと。 真面目に任務の事に夢中な麗華は、丞太郎の思いも知らずに部屋を後にした。 閉じたドアの音に丞太郎はため息をついた。 ……私は何をしているのだ、一体。 十歳年下の麗華は美しく可憐な娘である。強引に婚約を進めているわりには、奥手の自分に丞太郎は椅子に座り直した。 ……それでも!今日は笑ってくれた!それに、サンドイッチはうまかったな。 一人にやにや笑う彼に、窓から日差しが降り注いでいた。 「テイ。私は夜会に出ることになりました」 「それは旦那様とですか」 「ええ」 「……やった」 「え」 「いえ?ハハハ」 丞太郎の激しい片思いを知っている彼女は、きょとんとしている麗華に笑みを見せた。 「いえいえ。では、お召し物ですね。さて、針子さんを手配しないと」 そして平坂も交えて相談を始めたが、夜会までにドレスが間に合うのか難しいという事がわかった。 「すみません。私が持っていないせいで」 「それは良いのですよ、麗華さま」 「そうです。針子を呼んで大至急縫ってもらいましょう」 「その前に相談ですが」 麗華は亡き丞太郎の母のドレスを着てみたいと話した。 「奥様のですか」 「はい。とても素敵なものなので、同じようなドレスがいいなと、でもあの、無理なら着ませんので」 「では、まず確認しておきましょうか」 テイは麗華に部屋に案内した。 「奥様のドレスはこちらになりますね。少し、整理されておりますが」 「……手の込んだ刺繍。それにこっちは綺麗な色で」 「麗華様は、その、古い物がお好きなのですか」 「というよりも。旦那様のお母さまの好みが好きです。花も本もとても興味あるものばかりで」 「奥様の」 「はい。ぜひお会いしたかったです。あ。これは手の込んだものですね」 そして麗華は一つのドレスを選び、着てみた。 「麗華様。失礼しますおお。これは」 「平坂さん。素晴らしいドレスですね」 「いやいや、これはこれは」 老齢の平坂は思わず目を細めた。 「良くお似合いです。そうだ、お気に召したのなら、お直しをしてそれにしますか」 「でも、貴重なものではありませんか」 「いやいや。旦那様も喜びますよ」 この夕刻、彼は出かけてしまったため麗華はドレスを見せることなく当日を迎えた。 「旦那様はまだか」 「お仕事でまだ帰ってきておりません」 「でももう出発しないと」 「私、一人で参りますよ」 屋敷で待っていた麗華はそう平坂とテイに告げた。 「丞様には現地でお待ちしているとお伝えください」 「ですが、お一人では」 「……それでも参ります。車を出してください」 ……せめてこれくらいは役に立ちたいわ。 麗華は意を決し平坂と供に会場にやってきた。本日の集まりは華族で企業をしている集まりであった。丞太郎は公の機関の仕事をしているが、親の代から資産運営や不動産経営をしている。麗華は詳しく知らないが、挨拶だけはしようとしていた。 やってきた帝国ホテルの駐車場に降りると麗華は平坂と一緒に進んだ。 平坂を横に麗華は静々と会場を進んでいった。その堂々とした様子に平坂は驚いた。 「あの、麗華様は、このような席は」 「初めてですよ。でも祖父母に聞いておりましたので」 「左様でございますか」 気品を溢れさせながら麗華は堂々と会場を進んでいった。 ……ええと、まずは主催の小倉様にご挨拶をするのよね。 麗華は参加者が挨拶をしている夫婦を発見した。顔も名前も知らないが、他の人たちが挨拶している会話を必死に聞いた。 ……うん。行ってみよう。 「奥様。初めまして、私、葉室様と婚約している久世麗華と申します。葉室様は所用で遅れておりまして申し訳ございません」 「まあ。麗華さん。いいのよ丞太郎さんはいなくても」 「そうだよ、君に会いたかったんだ。麗華さん、初めましてと言いたのだが、私たちは君がいた葉山の別荘に遊びに行った事があるのだよ」 嬉しそうに握手をしてくれた小倉夫婦に麗華は微笑んだ。 「そうでしたか。では、お爺様のお知り合いですか」 「知り合いなんて恐れ多いよ。私達は君のお爺さんに大変お世話になっているんだ」 「今の私達がいるのも久世様のおかげなのよ。だから麗華さんに会いたかったの」 夫人は涙を湛え麗華の手を握った。 「あの時のあなたはまだ痛々しい腕でしたけど、もう傷は痛まないの?」 「はい」 「……よかった。ずっと心配していたのよ」 「奥様」 優しい涙を拭った夫人は笑って見せた。 「ごめんなさいね。そんなあなたが丞太郎さんと婚約したと聞いて私達は気になってしまって」 「麗華さん。丞太郎は私の遠い親戚なんだ。どうか何でも相談して欲しい」 親身な夫婦に麗華は驚いた。 「はい。お心遣いありがとうございます」 「丞太郎に言いたいことがあればいつでも私に話しなさい。私達は君の味方だからね」 「そうよ麗華さん。今夜も無理しないでね」 「旦那様、奥様。ありがとうございます」 こうして挨拶を済ませた麗華に平坂はすっと声を掛けた。 「ご当主とは知り合いだったのですね」 「私も知りませんでしたが、向こうは私の事はご存じだったようです」 「そうですか」 そんな麗華はどんどん挨拶をしていった。 「奥様、初めまして。葉室様と婚約しております久世麗華と申します」 「私は七菱実業の妻です。まあ。なんて可愛らしい方でしょう。私はね。昔あなたのお婆様に生け花を教わったことがあるのよ」 麗華は知らない人ばかりの夜会であったが、相手は知っているという不思議な展開が広がっていた。主に祖父母の関係者であるがどの人も麗華に好意的で優しかった。 「あなた。葉室さんの婚約者の麗華さん?」 「はい、奥様。初めてお目にかかります。久世麗華と申します」 「まあ……私はね。高園と申します。あなたの妹さんはうちにお嫁に来るのですよ」 「万理華が?これは、お世話になります」 丁寧にお辞儀をした麗華を、高園夫人は目を細めていた。 「万理華さんとあまり似ていないのね」 「妹は母似で。私は祖母に似ていると言われております」 今夜はドレスを着ているが麗華はどこか古風で、万理華は洋装が似合う雰囲気であった。そんな麗華が着ているドレスは伝統的なデザインであり高園夫人はの目を引いた。 「それにしても。あなたのドレス素敵ね」 「ありがとうございます。これは」 麗華は丞太郎の亡き母親のドレスだと話した。 「思い出の品を丞太郎様も喜んでくださって」 「でも、せっかくだから新調してもらえばいいじゃないの」 「いいえ奥様。私はその前に、葉室様の婚約者として学ぶべきことがたくさんあります。まずはそこから始めておりますので新調なんてとても……」 謙虚な麗華に夫人は感心した。 「えらいわ。では今は何を勉強されているの」 「お屋敷の植物を観察したり、葉室家の歴史ですね。古文書がありますので」 「まあ、あなた古文書が読めるの?」 「祖父に習ったので少々」 「素晴らしいわ……」 健気に努める麗華を高園夫人は眺めていた。 「そうだわ、あなた。結納の時は来なかったわね」 「すみません。体調不良でお休みしました」 ……そうだったわ。あの時は顔を出すなと言われて。 醜い傷がある自分は顔を出すなと父親に言われたことを思い出した麗華は、話を終えることにした。 「それでは奥様、万理華をどうぞよろしくお願い申し上げます」 「え、ええ」 「失礼しました」 麗華はそう言うと品よく挨拶を終えこの場を去った。 ……あの娘さんが、本当はうちに来るはずだったのね。 古風で静な佇まい。一緒にいるだけで穏やかな温度を感じた夫人は、万理華を思い浮かべ比べていた。 多くの参加者から歓迎の挨拶をされている麗華を、夫人は複雑な思いで見つめていた。 つづく
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