七 雨の屋敷

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七 雨の屋敷

「真木也さん。それでどうなのです」 「どうとは」 「万理華さんですよ。手紙のやり取りは進んでいるのでしょうね」 夕食後。息子に詰めるよる母親に高園家の彼はつまらなそうにあくびをした。 「仕事でそれどころではありませんよ。それに、母上が彼女を気に入ったのですから。どうぞ母上が彼女に会って、我が高園家の事を教えてあげてください」 「でも、それは」 どこかためらう母に彼は続けた。 「母上は前から娘が欲しいといっていたではありませんか」 「それも……そうだけど、これは夫になる貴方がするべきでは」 「時間がないのです。そうだ、これをどうぞ」 彼は母親に観劇の切符を渡した。 「自分は時間がないので、ぜひ彼女と一緒に行ってください」 「わかったわ。万理華さんの教育係りは私に任せて頂戴ね」 「はい」 彼は笑顔で返事をし、自室に入った。 ……ふう。さて、仕事の書類を見ないと。 机に向かうと紙が落ちた。これを拾い彼は読んだ。久世万理華の覚書であった。 ……『書の腕前あり』、か。それに『レース編み』ね…… 見合いの席で麗華ではなく万理華と知った真木也は、その時点で万理華を愛する気は完全に消え失せていた。 高園真木也は優秀で美麗な容姿である。学友の丞太郎は腕が立つ実行派であるが、彼はどちらかというと頭脳派であり策略を練るのに長けていた。 独身の彼に言い寄ってくる女性は多く、その相手は良家のお嬢様で申し分ないはずだが、彼は優秀であるがゆえに常に相手の欠点が気になっていた。 多忙な自分を気にせず長話をする女。暑い日に熱い飲み物を勧める女。静かな場所で大きな音を立てて食事をする女。他者の話ばかりで自分の話がない女。親の言いなり女、真木也に依存する女、香水女、濃い化粧女。真木也の話を理解できない女、どれもうんざりであった。 一度、地方で出会った雨宿りをさせてくれた商屋の娘は頭の回転が速く、真木也の話を理解し、的確な返事をしてくれた。印象が残っている女はそんな程度の真木也は結婚に希望を一切抱いていなかった。 そんな中、丞太郎が案じていた麗華には興味があったが、そもそも彼にとってこれは家同士の繋がりを目的とした政略結婚である。相手の娘もそれを承知のはずだと彼は認識していた。 ……欺くような娘だ。どうでもいいさ。 真木也はこれを破り屑籠に捨て、何事も無かったように仕事に向かった。 「おはよう。万理華」 「お父様、おはようございます」 「どうした。元気がないな」 「……はあ、ちょっと疲れたわ」 久世家の曇り空の朝食時、元気のない娘を案じた貴仁は食後のお茶を別部屋で一緒にした。 「で、どうかな。高園さんの家は」 「奥様にはお茶会であったことがあるけれど、お綺麗な方でしょう」 父と母の前で万理華は俯いた。 「う、うううう」 両親の前で万理華は泣き出した。突然の事に彼らは驚き、広子がそっと肩を抱いた。 「何があったの、正直に話しなさい」 「……高園の奥様が、万理華には恐いの」 泣き止んだ万理華はぽつぽつと話し出した。それは高園家に嫁入りに関する心得についての勉強であった。 「高園家の勉強は結婚後で良い、と言っていたけれど。とても難しいし」 「万理華。華族ならどこの家でもある事よ」 「そうだ。無理せずゆっくりやればよいと、真木也君は言ってくれたんだろう」 「うん、でも奥様は違うの。今から少しずつやるように言うのよ。でも私にはできない……」 落ち込む万理華に両親は顔を見合わせた。 「どんな勉強があるんだい。言ってごらん」 「……高園家にある植物を覚えろとか、御先祖様のしたことをこれから覚えるとか」 俯く娘に広子は必死に励ました。 「私もこの久世家に来た時は勉強をしたのよ?あなただってできるわ」 「万理華。お前ならきっとできる。そうだ!今日は私と久しぶりに書道でもやろうか」 娘に自信を付けようと貴仁は自分の部屋に万理華を連れてきた。手紙を書くことが多い彼は、娘に自分の筆を貸した。 「そうだね。『高園』という文字を練習しよう。さあ、どうぞ」 「う、うん」 娘の真剣な様子を見て彼は頷いていたが、墨が滲む文字を見て心臓は冷たくなっていた。 ……なぜ、こんな文字しか書けないのだ? 書道が得意のはずの娘が必死に書いているが、彼の知っている文字ではなかった。しかし彼は娘を褒めた。 「うんいいぞ。後は部屋でやりなさい」 「はい。ちょっと自信がでました」 「ついでで悪いが広子を呼んでくれないか」 やがて部屋に広子がやってきた。貴仁は静かに側に呼んだ。 「これが万理華の書だ」 「……」 「広子よ。これは私の知っている文字ではない。私の知っている書はもっとたおやかで、もっと洗練されている字だ」 「今日は調子が悪いだけですよ」 「広子!本当の事を言うんだ!あの文字はもしかして」 何も言わず顔を背けた妻に貴仁は背中が寒くなった。 「まさか……麗華か?あの字は。お前、今まで私を騙していたのか」 「……こうでもしないと、万理華が」 「お前!高園さんに出した万理華の作品もそうなのか!」 「……」 「広子!言ってくれ」 「私だって……こんなこと……したくてしたわけじゃ。うううう」 泣き崩れた妻に彼は茫然とした。 「では。あのレース編みも、他の習い事も。全部、麗華のものなのか」 返事をせず泣き伏せる妻に彼は力を落としソファに座った。しばらく沈黙の時間が流れた中、貴仁はつぶやいた。 「広子……本当の事を言ってくれ。今まで麗華は何もできず、不器用でみじめな娘と言っていたが、それは嘘なのか」 「……麗華は亡くなったお義母様に似て、器用で何でもできます。万理華があんなにやっているのに……あまりにも不憫ではありませんか」 「そう、だったのか」 娘の教育を妻に任せていた彼は窓の外を眺めた。嵐がそこまで来ていた。 雨の葉室屋敷は丞太郎と麗華が一緒に窓の外を見ていた。 「今回の台風は雨が多いのですね」 「そうだが、この屋敷は高台だから平気だぞ」 小柄な麗華の背後に丞太郎は立ち、カーテンを抑えていた。麗華は彼に話した。 「今夜は満潮なので、海に近い人は心配ですね」 「……随分詳しいな」 頭の上の声に麗華は彼を見上げた。 「私は葉山の海辺で育ったので、台風はいつも気にしておりました」 「そうだったな。葉山では何をしていたのだ」 少し肌寒い部屋、丞太郎は麗華の肩を抱きソファに座らせ、自分は紅茶を淹れ出した。 「海辺の学校に通っていました。あと、釣りもしました」 「ほう。一番の大物は何だ?ちなみに俺はこーんな大きな鯛を釣ったことがあるぞ」 大きさを示す仕草がちょっと大げさに見えた麗華は真顔で答えた。 「クジラ」 「え」 「ふふふ、ふふふふ」 「おいおい……麗華、頼むよ」 恥ずかしそうに紅茶を淹れる彼に麗華は謝った。 「すみません。私も鯛です」 「君が冗談を言うとは……覚えておくよ」 丞太郎はそういってカップを麗華の前に置いた。その顔をふと見ると、彼の顔が真剣だった。 「それよりも麗華。先日は、義母達が迷惑を掛けて本当にすまなかった」 「いいえ?丞様のせいではありません」 「いや。俺のせいだ。すまない」 彼が頭を下げるので麗華は必死に制した。 「もういいのです。丞様、あの、私は」 「だからな。今からあの魔女達を成敗してくる」 「え」 顔を上げた彼は右手の握りこぶしを見つめた。 「ここで待っていてくれ。今すぐあいつらを……」 「待ってください」 立ち上った彼を麗華は思わず引き止めた。 「あの、そこまでしなくていいですから」 「いや。行く。許すわけには」 「ダメです、丞様!」 麗華は彼の腕に抱き付いた。 「丞様、行かないで!麗華は本当に」 「離せ」 「離しません!丞様、本当にあの」 「ふ」 「え」 「ふふふ、ハハハハ」 「まあ……騙したのですね」 「ハハハ。すまない、君があんまり、ハハハ」 涙を流して笑う丞太郎であるが、彼を本気で心配した麗華は、カチンと来て背を向けた。 「そ、そうでしたか」 「ん」 「……紅茶をいただきます」 ……なんだろう、涙がでてきた。 麗華は誤魔化すように紅茶を飲んだ。しかし、涙がじわじわ出てきた。 「れ、麗華」 「ごちそう様でした。麗華はこれで」 べそをかいた麗華は彼に背を向けて部屋を出て行ってしまった。静まり返った部屋でポツンと一人になった丞太郎は叫んだ。 「テイ!テイはどこだ」 「はいはい、どうされましたか」 丞太郎は今の出来事を説明した。既婚者のテイはあきれた。 「麗華様は本気で旦那様を心配されたんですよ。それなのに笑ったりするから」 「俺が悪いのか」 「当たり前ですよ。あ。もしかして、今ごろはまた出て行く支度をしているかも」 「謝ってくる」 ……そうか、本気で心配してくれたのか。 丞太郎は慌てて麗華の部屋をノックした。部屋の灯りは無く静まり返っていた。 「麗華……すまない、私が悪かった」 大雨の窓は施錠されていたため丞太郎はベッドの下を探していた。 「どこだ……」 しかし、麗華はいなかった。 「出てきておくれ。どこだ……ここか」 「そんな小さな箱の中にはいません」 「あ、いた、麗華!」 ドアの裏に立っていた麗華を彼は発見し、彼女の両肩を握った。 「良かった……出て行ったのかと思ったぞ」 まだ泣いていた麗華に彼は心を鷲掴みされた。 「すまなかった。悪ふざけが過ぎた」 「いいえ、麗華がクジラなんて言うから」 「いや、俺がすべて悪い……どうか、泣き止んでおくれ」 大きな体の彼が必死に謝る空気に麗華は冷静になった。 ……心配かけていけないわ。しっかりしなきゃ。 「く、苦しいです」 「おっと、すまない」 心配そうに見つめる彼を麗華も見つめていた。 「私こそ、すみませんでした。取り乱してしまって、もう大丈夫です」 「そうか、では一緒に部屋に戻ろう」 彼はそういうと優しく麗華を部屋から出し、廊下を歩いた。 「本当に済まなかったな」 「もういいのです」 そして戻った部屋にはテイがお茶菓子を運んでくれていた。麗華はソファに座り、丞太郎は椅子に腰かけ書類を広げた。 「麗華、良ければ一緒にこの部屋で本でも読んでくれ。私は溜まっている書類を読んでいるから」 「私はお邪魔ではないですか」 「邪魔ではない、いてくれた方がいい」 「では、そのように」 広い部屋で別の事を始めた二人はふと見ればそこに相手の姿があった。 ……そういえば、さっき笑ったわ。素敵な笑顔で。 いつもは不機嫌顔であるが、笑うとあんなに可愛いのだと麗華は思い返していた。 ……それに。あんな小箱を開けて探すなんて。 大きな体で必死に自分を探した彼を思うと、麗華もおかしくなった。 「ふ……」 「どうした。麗華」 軍服の時の彼は冷酷で厳しい顔つきであるが、屋敷の中のでの振る舞いはどこか子供っぽく、そそっかしいところがあり麗華を和ませた。 「いいえ。何でもありません」 「紅茶はどうだ」 目がまだ気にしている彼に麗華は立ち上がった。 「今度は麗華が淹れます。待ってくださいね」 「ああ」 外は雨、強い風は窓を打っていた。葉室屋敷の婚約者の二人は雨音の調べに、優しい紅茶を飲んでいた。 完
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