八 夜会へ

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一通り挨拶を終え疲れた麗華はカーテンが揺れる窓辺で一息ついていた。ふと見ると、誰もいない小さなテーブルにチェスが置かれていた。 ……あら、これは並び方が違うわ。 駒の配置の間違いを発見した麗華は、正しい駒の配置に直した。 「あの。お姉さまはチェスができるのですか」 「はい。少々」 近くにいた少年は目を輝かせた。すると側にいた母親が麗華に頼んだ。 「よければこの子の相手をしていただけませんか?チェスができる人がいないもので」 「お願いします」 ……そうよね。ここにいる方が気が楽かもしれないわ。 一通り挨拶も終えた麗華は、少年に向かった。 「私で良ければ喜んで」 「ありがとうございます」 彼の母親は呼ばれて会話の中に入って行った。麗華は扇子を傍らに椅子に座り少年と静かにチェスを指していた。 「お姉さま、お願いします」 「こちらこそ、お願い申し上げます」 こうして麗華は少年と対戦していた。 「お姉さまは、どなたにチェスを習ったのですか」 「将棋好きの祖父です。将棋とチェスは違いますけれど」 「そう、ですか」 少年が駒を進めると、麗華は扇子越しに間髪入れず駒を置いた。少年は顔を上げた。 「ずいぶん早く指すのですね」 「そうですか?すみません。祖父にそう習ったので」 「良いのです。そうか。そこに置くのか」 麗華は祖父に教わった通りチェスを指していた。 優しい祖父の微笑を思い出しながらのんきに飾られた花など見ながらチェスをしていた。 麗華が素早く指すため、少年は考えてばかりの時間。気が付くと、周囲に人がたくさん集まって来た。 ……あまり注目を浴びるのはよくないかもしれないわ。 少年に勝たせてやろうとしたが、麗華は勝負を早めることを選んだ。 「チェックメイト」 「……うう。参りました」 すると周囲からおお、という声がした。ここに彼の母親が戻って来た。 「息子がお世話になりました。あら、お前」 「お母様。僕、負けました」 「え」 驚く母子に麗華は謙遜した。 「たまたまです。では、これで」 「いやいや。今度は私だ」 少年に代わり今度が違う紳士が席に座った。麗華は逃げられずチェスをすることになった。そんな麗華をやっと見つけた平坂は耳打ちをした。 「麗華様。少々お耳を」 「はい」 平坂の囁き情報は今宵の席に丞太郎は間に合わないというものだった。 「挨拶を済ませたら早々に帰るようにとのことです」 「わかりました」 ……では、終わらせないと。 ここで麗華は本気を出した。汗をかいている対戦相手に麗華は一気に迫った。 「チェックメイトです」 「あ。そこは」 「ではこれにて」 「……お嬢さん。もう一勝負を」 麗華は静かに頭を下げた。 「申し訳ございません。失礼します」 こうして麗華は小倉夫妻に挨拶をし夜会を後にした。夜会はまだ続いていたが、明るいホテルを背に麗華は葉室屋敷へと帰って行った。 翌朝になっても丞太郎は帰っていなかった。一人食事を済ませた麗華は、葉室家の歴史の本を読んで過ごしていた。 「麗華様。旦那様がお帰りになられました」 「今、参ります」 麗華が玄関で出迎えるとそこには、疲れ切った丞太郎がいた。 「お帰りなさいませ」 「すまなかった。昨日の夜会は」 「いいえ、それよりも」 ……ずいぶんお疲れのようだわ。 彼は寝不足なのか顔色も悪く、声もどこかかすれていた。麗華は上着を受け取りながら気になった。 「ところで麗華。夜会はどうであった」 「それよりも丞様。お着替えの後、お食事になさいますか。それともお風呂に、ああ……顔に傷が」 「麗華」 顔の傷を心配する麗華の手首を丞太郎はそっとつかんだ。 「こんな傷などどうでもよい。それよりも君のことだ」 「私は大丈夫です。それよりもお疲れのご様子で」 「うるさい」 「きゃ」 彼は忌々しいといわんばかりに麗華を抱き上げた。 「丞様?」 「私は疲れてなどおらぬ!」 「あの、下ろしてください」 丞太郎は麗華を抱いたまま長い廊下を歩きだした。 「さあ、話をしてもらおうか」 「話します。ですので下ろしてください」 「秘密は無しだぞ」 「はい」 やがてドアの前で彼は麗華を下ろした。しかし着替えと風呂を済ませろと言う平坂の言葉を受け、麗華は夕食を共にしようとした。すると平坂が申し訳なさそうに部屋に来た。 「麗華様、申し訳ありません。旦那様は急用でまたお仕事に向かわれてしまいました」 「え?またですか」 「はい。麗華様に申し訳ないと」 「……そうですか」 ……せっかくお帰りになったのに。お体は大丈夫なのかしら。 彼の身体の心配もあるが、彼に会い嬉しかったのも事実だった。麗華は寂しく食事を済ませ眠りについた。 ……重い。あ? 夜。目が覚めると、ベッドに黒い髪が見えた。それは丞太郎だった。 床に花が落ちているのを見つけた麗華は、彼がここで寝落ちしたと気が付いた。 ……寝かせてあげなきゃ。 彼の睡眠不足を知っている麗華は、ベッドの中央に彼を引き、布団を掛けようとした。 ここで彼は寝返りを打ち、麗華に抱き付いてきた。 ……ど、どうしよう。 しかし、丞太郎は熟睡していた。麗華は彼を起こさないようにそっと離れようとしたが、彼は抱き付いてきた。 「……上に行け。水が来る……」 寝ぼけている彼にほっとした麗華であるが、彼の寝言は続いた。 「落ちるな、しっかり掴まれ……」 ……そうか、私を木だと思っているのね。 川に流されないように木にしがみ付いているような彼の話に、麗華は思わずつき合った。 「大丈夫ですよ。ここなら安全です」 麗華が彼を抱きしめると彼もまた抱きしめた。 「水が……もっと上に」 「大丈夫。大丈夫ですよ」 頭を撫でた麗華の胸に彼はぎゅうと顔を埋め、そしてまた寝落ちした。 ……また寝てしまったわ。 本気でしがみつく力が結構強く、汗が出てきた麗華はゆっくりとほどき、そっとベッドを出た。廊下に出ると平坂が慌てていたので、自分のベッドに彼がいると告げた。 「では、麗華様はどちらで休みますか」 「私はソファでも平気ですよ」 「なりません!そうだ」 麗華は丞太郎の広いベッドで眠ることになった。 ……丞様の匂いがする。ふふふ。 まるで彼に包まれているような大きなベッドで眠る麗華は、ほほ笑んでいた。麗華の体には彼がしがみ付いた温もりが残っていた。そんな彼の優しい寝顔を想いながら麗華は瞼を閉じた。 夜が明けた麗華は杉田夫婦と一緒に朝食を完成させると、彼が起きてきた。 「おはよう……」 「おはようございます」 不機嫌なのか、恥ずかしいのか、丞太郎は頭をかいていた。 「すまない。君を追い出してしまって」 「構いません。それよりもお食事はいかがですか」 やっと会えた二人は、晴天の朝、仲良く緑が見えるテラスで食事をした。 「すまなかった。仕事が入ってしまって夜会に行けず」 「私は大丈夫です。旦那様こそ、お疲れではありませんか」 「それはどうでもよいのだ」 やっと麗華と過ごせると思っていた彼の言葉に彼女は微笑んだ。 「どうぞ、私といる時は気を遣わないでください」 「それは私も同じだよ。さて。夜会の話だ。君の話を聞かせてくれ」 ここで麗華は夜会の出来事を話した。 「やっぱり……チェスのクイーンがいた、とは君の事か」 「え」 額に手を置きうつむく丞太郎に、麗華は焦って身を乗り出した。 「夜会に出ていた関係者から聞いたのだ。君が倒したのは将棋の名人達だよ」 「そうだったのですか」 「その中に少年がいなかったか」 「いました。一番強かったです」 「彼は少年将棋の優勝者だ。彼にも勝ったのか」 ……道理で強いと思ったわ。 「……はい、余計な事をしましたね。私」 ここで彼はため息の麗華に気が付いた。 「い。いや?そうではない」 「でも」 「まずは食事だ」 「はい」 そして二人は食事を終えた。丞太郎は立ち上り麗華に紅茶を淹れ始めた。 「先ほどのチェスの件だが。私は君の強さに驚いただけだ」 「……でも。やはり勝たない方が良かったのでは」 「それはない。相手は本気だったのだ。手を抜く事は失礼にあたるぞ」 「でも。そんな評判になっているなんて」 彼はそっと麗華に紅茶を出した。 「すまない。私が行けなかったせいだ」 「そんなことはありません。私がしっかりしていなかったから」 俯く麗華の前に丞太郎は座った。」 「麗華。私は、今回のように君の側にいてやれない事が多い。やはり今後の集まりは断ろう」 ……ああ、私はまた旦那様を傷つけてしまったわ。 ただでさえ麗華の腕の跡を気にしている丞太郎に麗華は胸を締め付けられた。 ……麗華。しっかりするのよ。丞様をこれ以上、苦しめてはいけないわ。 この婚約は丞太郎の温情であり二十歳までの関係である。しかしその間、彼に迷惑を掛けることだけは、麗華は何としても避けたかった。 頭をかき心配している彼に麗華は決心した。 「いいえ。大丈夫です」 「無理せずとも好いぞ」 「本当に大丈夫です。婚約者としてできるだけの事をしたいです」 「そうか」 彼はそっと立ち上がり、自分で紅茶のお代わりを淹れた。麗華を苦しめるすべてのものから守りたい丞太郎であるが、屋敷に閉じ込めればまた彼女が逃亡することを案じていた。 ……これは様子を見るしかないな。 「わかった。そういうことなら私も全力で君を援護する。でもその前に、麗華」 「はい」 彼は恥ずかしそうに振り向いた。 ……どんなドレスを着たのか、なんて。やはり聞けない。 良く似合っていたというテイのセリフが流れる丞太郎は、純粋な麗華の前で今は、この思いを封印した。 「丞様?」 「今はそうだな……私の婚約者として、その紅茶を飲んでもらおうかな。これは新しい茶葉なのだ」 「やはりそうですか。いい香り……うん。これは好きです」 紅茶を受け取った麗華はその香りに目を細めた。彼女の言葉を抱きしめるように丞太郎も立ったまま紅茶を手にした。 「そうか。好きか、俺も……好きだぞ」 多忙で会う時間が少ない婚約者達は、互いを想う流れが漂っていた。緑鮮やかに輝く葉室家の庭が見えるテラスの二人の時は、甘い紅茶色に優しく染まっていた。 完
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