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十 君、おもふ
「さて。旦那様がお出かけしましたが、今日は何をなさいますか」
「庭のお仕事も終わってしまったものね……また本でも読もうかしら」
一仕事が終わったがまだ午前中。麗華は葉室家の書庫から本を出し読んでいた。これをテイは不思議そうに見ていた。
「それにしても、麗華様は古い文字が読めるのですね」
「……私の祖父がいつも趣味で読んでいたので私も読めるようになったのよ」
「へえ。では、そこには何が書いてあるのですか」
手元の和紙にある草書の流れる続け字に眉を顰めるテイに、麗華は指をなぞって説明した。
「これはね。澁谷村の住民が、地主の葉室家に下水の工事をしてほしいという嘆願書ね」
「下水なんてどこに書いてあるのですか」
「……ここね、『水溢レ川氾濫シ、汚水流レアリ』よ」
指でなぞり説明する麗華に、テイはへえと感心した。
「そう書いてあるのですか、言われてもわからないですよ」
「葉室様は古くからこの一帯の地主さんのようだから、住民からの要望書が多いのよ」
興味津々な麗華にテイは少し呆れて他の古本を手にした。
「他にも新しい婦人雑誌もありますが、麗華様はこういう古いものがお好きなのですね」
「好き、とは思いませんが、面白いですよ」
若者向きの雑誌よりも古文書を読む麗華に、テイは思わず顔を上げた。
「麗華様はご実家で何をされていたのですか」
「私?ああ、そうね」
麗華は手を止めて、立ち上がり窓を開けた。
「私はこの腕に火傷痕があるから、お父様がその、とても気にしてしまって。子供の頃は祖父母がいる葉山で育ったの」
腕をまくって火傷痕を見せる麗華に、テイは恐れ多いと首を横に振った。
「お傷の方は、すみません、知っていました」
「良いのですよ。醜いので気分が悪いでしょう」
「そんなことありません!それよりも、傷みはないのですか」
「ええ」
心配してくれるテイに麗華は跡をしみじみ見た。
「痛みはないけれど。日焼けをするのはだめなのよ。それに、この腕は年中、冷たいの」
「だから長袖なのですね、わかりました。私も気を付けます」
「大丈夫よ。心配しないでね」
この話を笑顔で切り上げた麗華は、読書をまた再開させた。
そして昼食後。麗華に昼寝をさせたテイは、平坂に様子を告げた。
「お食事もたくさん召し上がるようになりましたし、ずいぶんと穏やかにしておいでです」
「そのようだな。旦那様が連れてきた時はどうしようかと思ったがな」
事務室でお茶を飲む二人は、思い出し笑いで湯呑を置いた。
「ところで。テイには話してあったが、麗華様の腕の傷だ」
「はい。今日はご自分で火傷痕だと話していました」
「ああ。だがそれは旦那様がずっと気にしているものだ。我々はお二人を支えばならないぞ」
「……その辺がよくわからないのですが」
テイは今後の二人の関係を正直に尋ねた。
「麗華様は婚約をして、ここにお嫁に来るんですよね」
「丞様はそのおつもりだが、麗華様は……」
平坂は麗華はひとまず二十歳までここにいる、という話をした。テイは頷きながら聞いていた。
「急な話で麗華様も戸惑っているのであろう、と旦那様がそう判断されたのだ。我々は見守るしかない」
「そういうことですか……でも、麗華様は旦那様を見ても、何も言わないですよね」
「どういう意味かね」
「ええとですね」
テイはクッキーをかじった。
「私達は旦那様の事を知っていますけれど、丞太郎様は一見、不機嫌そうで、不愛想じゃないですか。でも麗華様はそれについて気にしてないようですし」
「少しは気にしていただきたいのだが」
頭を抱える平坂にテイは違うと手を振った。
「違いますよ。今の旦那様のままで良いってことですから。これは十分可能性があります」
「そうかね。私としてもこのままお二人が結婚されるのが一番だと思うが」
「大丈夫です、何とかなりますって、では」
元気よくテイは部屋を去った。老齢の平坂は憂いの思いでまた机の中から資料を取り出した。
テイには詳細は伝えていないが、麗華の実情が記されていた。
……父親に疎まれ、母親に邪険にされ、妹に愚弄され……それなのになんと清らかなお心の持ち主だろう。
丞太郎の執事である平坂は、麗華の事をずっと気にしている丞太郎を案じていた。その彼が麗華を妻にしたいと聞いた時、それは同情によるものなので彼は反対した。しかし、今は丞太郎の様子を見て、恋をしていると思った。
……だが、これは慎重に進めねばなるまい。
爆発魔の事件は解決していないため、麗華はまだ保護対象であった。元将校である平坂は、二人の慎ましい恋に目を伏せていた。
◇◇◇
「万理華さん。今日はようこそ」
「はい。あの。真木也さんは?」
「あいにく仕事にでかけてしまいましたが。さあ、どうぞ」
笑顔の高園夫人に招かれた万理華は、この日も花嫁修業の話を延々と聞かされた。時折来る質問をなんとか誤魔化した万理華にやっと休憩時間がやってきた。
「ちょっと一人にしてしまいますが、待ってくださいね」
「いいえ、お待ちしております」
夫人が退室した後、万理華はどっと疲れて長椅子に座った。
……結婚したらこれが毎日続くのね……でも、あの方がいれば。
夫となる真木也は素敵な男性だった。万理華は見合いの席の彼を思い出した。涼しい目元でほほ笑む彼に万理華は一目ぼれをしていた。多忙な彼に会えないが、万理華は結婚すれば毎日会えると胸を躍らせていた。
「万理華さん、お待たせしました」
「は、はい」
「これを見てください」
笑顔の夫人は古い着物を持って来た。
「これはどうされたのですか」
「私の娘時代の着物よ。あなたにちょうどいいはずよ」
手にしていた着物は確かに豪華なつくりであるが、万理華には流行遅れに感じた。しかし夫人は生き生きと続けた。
「これは、いただき物のブローチよ。私には若すぎて、それに、あ、これが指輪ね」
「指輪」
「ええ。婚約指輪はこれでいいでしょう」
光る石は宝石かもしれないが、サイズが大きい指輪を夫人は万理華の薬指にはめた。万理華はただじっとしていた。
「ほら、お似合いよ。素敵よ、万理華さん」
「あの。こういうのは、真木也さんにいただくものでは」
「あの子はこういうものに疎いのよ。ね?私で我慢してね」
好意満載の夫人の話はどんどん続き、万理華は作り笑顔で耐えていた。結婚式の支度や新婚部屋などもすべて自分で考えている夫人に万理華は、恐る恐る話をはさんだ。
「奥様、あの、それは私の母も衣装は考えてくれておりますので」
「万理華さん、あなたは高園家に嫁ぐのですよ。うちに合わせて下さらないと困りますよ」
「でも、寝室などは私も少しは」
「大丈夫!任せて頂戴。あなたは私の言う通りにしていればいいから」
全く聞く耳のない夫人にむしろ恐怖を覚えた万理華であったが、帰る時、高園家に彼が帰って来た。
「真木也さん!」
「……あ、ああ来ていたんですね」
「はい。本日は奥様と結婚式の話をして」
「そう……母と仲良くしてくれて助かるよ」
「そ、そんな」
やっと自分をみてくれた真木也に万理華は頬を染めた。
「でも……私も自分の結婚なので。色々、その」
自分の意見も聞いてほしい万理華は未来の夫に訴えようとした。真木也は面倒そうに頭をかいた。
「母に任せておけば問題ありませんよ。それに。言いたいことがあれば母にどうぞ」
「え?あの、真木也さんは」
まるで他人事の彼に万理華は胸が痛んだ。
「私は母を信用しておりますので、では」
「え?あの、待ってください」
部屋の奥に去ろうとする彼を万理華は呼び止めた。
「お手紙の返事を待っているのですが」
「すみません、忙しくて。すぐに返事を書きますので」
「はい、お待ちしております……」
真木也は万理華を見送ることない屋敷に入ってしまった。
「万理華様、そろそろ車に」
「わかっているわよ!……」
久世家の運転手の心配顔の中、万理華は車に乗った。走り出した後部座席で彼女は爪を噛んだ。
……そうよ、今はお忙しいだけよ。結婚すれば真木也さんも私の事を。
優しくしてくれるはずと万理華は自分に言い聞かせた。夕暮れの帰り道、万理華の心は怒りと悲しみで燃えていた。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
麗華のお出迎えに帽子を取った丞太郎は、じっと彼女を見つめた。
「どうされましたか」
「いや、顔色がいいなと」
帽子を受け取った麗華は一緒に長い廊下を歩きながら話した。
「実は、夕食にシチューを作ったのですが、隠し味のワインで」
「飲んだのか」
「香りを嗅いだだけですが、お恥ずかしいです」
「大丈夫か?気分はどうだ」
「へ、平気です」
ワインの香りで少し酔ったという麗華が心配な彼はつい、麗華に迫った。
「本当か」
「はい。お水も飲みましたし」
丞太郎は風呂を済ませて食事にするというので、麗華は料理の手伝いをして待っていた。
「麗華様。旦那様が部屋に来ました」
「わかったわ。清二さん、このサラダはこれで完成です」
「はいっと」
今宵の葉室家の食卓は彩り良く並べられていた。
「これがシチューか。麗華がつくったのか」
「手伝っただけです。サラダは私がつくりました」
「どれ……うん、美味いな」
「良かった」
花が咲いたような笑顔に丞太郎は咳払いをした。こうして楽しい夕食を終えた二人は、いつもの部屋で食後の紅茶を飲んでいた。
「ところで。私達の婚約の件だが、現在君の家と結納について話を進めている」
「恐れ入ります。それで私がすることは何ですか」
保護のために葉室家にお世話になるつもりの麗華であるが、体裁のため婚約はするつもりであった。準備をしてくれている丞太郎に申し訳ない気持ちで麗華は手伝いを申し出た。
「そうだな……結納はこちらで用意するから。君はこの屋敷の自分の部屋を好きにしたらいいさ」
紅茶をくれた彼を麗華は見つめた。
「何もございませんよ。麗華はこのままで」
「だが、何か好きなものを部屋にそろえるだろう、普通は」
「本当に何もありませんもの。それに」
麗華は窓の外の夜の花を見た。
「丞様にこの服も買っていただきましたし、お庭の花も綺麗で本もたくさんあるし、お屋敷の方も皆さん優しくて、麗華はこれで十分です」
……本気で言っているのであろうな。しかし。
「いや。ありました」
「なんだ、言ってみろ」
「実家に置いてある裁縫箱です。あれで縫物をしたいです」
「わかった。他にはないのか」
久世家の実家からさらってきた状態の彼女に、彼は頭をかいた。
「遠慮はいらないぞ」
「そうですね」
麗華は首をかしげて思案した。
「本当にないのです……丞様がいつも話を聞いてくださるし……」
「う」
麗華から零れた本音に丞太郎は嬉しさで耳が真っ赤になった。
……俺が要ればそれで良いと言うのか。うう……なんと可愛い。
「だが、俺は聞いているだけぞ。君に何かをしているわけではない」
「いて下さるだけで良いのですもの。麗華はそれで十分です」
「そ、そうか……」
愛らしい麗華を彼は必死に抱きしめたいのを抑えた。
「その裁縫箱は私が手配する。おっと、そうだった」
「何ですか」
彼は仕事の鞄から何かを取り出した。
「これを、君に」
「リボンですか」
「ああ、仕事で洋品店に寄ったのでな」
恥ずかしそうな彼がくれのは薄い桃色のリボンだった。受けとった麗華は目を丸くした。
「これを丞様がお店で?」
無骨な彼がこれを買っているのを想像した麗華は、驚きで見てしまった。
「悪いか」
「いいえ、嬉しいです」
さらさらしている手触り思わず麗華は頬に寄せた。彼は恥ずかしそうに見ていた。ここで麗華は思い出した。
「そういえば。お見合いの時に藤色のドレスや靴をくださいましたけど、あれも丞様のお見立てですか」
「ああ。俺の趣味で申し訳なかったが」
「いいえ。そうですか、丞様が選んでくださったのですね」
他の誰かに頼んだのだと思っていた麗華は嬉しくなった。
「いつも素敵なものをありがとうございます。このリボンも気に入りました」
「良かった」
……あ、笑った。
彼の喜び顔を見つけた麗華は、にっこりした。これに彼は恥ずかしさのあまり背を向けていた。
「ふふふ」
「なんだ。そんなに嬉しいのか」
「はい。これは麗華の宝ものです」
微笑む彼女に丞太郎も頬を染めていた。宵の紅茶の時間は甘く優しく、想いが溶けていた。
「あ、平坂さん、何をしているのですか」
「し!あ、来るぞ」
二人がいた部屋の扉が開いたので、平坂とテイは必死に隠れた。二人は仲良く麗華の寝室へと去って行った。
「はあ……やれやれ」
「旦那様は本当に麗華様が好きなんですね」
「……これは婚約を早めないとな。私の身が持たないよ」
「私もですよ……あ。戸締りを確認していたんだっけ!」
テイは慌てて夜の廊下を進んだ。
葉室家の庭からカエルの鳴き声は夏の到来を告げていた。
完
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