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十一 こころ咲く
初夏の日差し眩しい朝、麗華は葉室家の庭で汗をかいていた。早朝の空気は清々しく彼女を包んでいた。
「麗華さん。ダリヤはもうすぐ咲きますよ」
「大きな蕾……楽しみです」
「あなた様が手入れをしたのですから。きっと綺麗な花が咲きますよ」
「まあ、お花というのはみんな綺麗じゃないですか」
帽子を被った麗華は庭師に白い歯を見せた。屋敷にやってきた時よりも健康的になってきた麗華に庭師も笑みを見せた。
「さて、私は南の庭を見てきます。麗華様はそろそろ朝食のお支度では」
「もうそんな時間ですか。はい、そうします」
庭仕事の恰好から普段着に取り換えた麗華は台所にやってきた。そこには料理人の清二がお玉を持って悩んでいた。
「おはようございます。どうされたの」
「おはようございます。なんかこう、一味足りないって」
「私も味見をします」
小さなお皿にスープを取った麗華は、一口含み目を閉じた。清二は彼女を見つめた。
「何かが足りないんだけど、その何かが俺にはわかんねえ」
「……塩味は効いていますね」
鶏肉が入った卵スープに二人は首をひねった。
「ネギ……いやコショウか、これは」
「待ってください。ショウガじゃないかしら」
「ショウガ!ショウガか。よし」
早速、清二は千切りにしたショウガをスープに入れた。そして再び味見をした。
「うん……でもまだ何か、こう」
「そうかな。これでいいと思うけど。あ」
「何がどうしたの。どれどれ、おっとこれは」
味見をしたテイは何も言わずにごま油を少しだけ落とした。
「よし!完成よ、これで」
「お前、勝手に何を……え。これは」
「美味しい……テイは何でもできるのね」
「ふふふ。こう見えても食いしん坊ですからね」
テイの発言に笑った麗華は、朝食の手伝いをすすめダイニングに運んでいた。
「おはよう」
「おはようございます」
夕べ遅かったはずなのに丞太郎は起きて新聞を読んでいた。その横顔は不愛想だった。
「……楽しそうだな」
台所の会話が聞こえていた丞太郎は、疎外感に悲しくなっていた。
「はい。スープの味見をしておりました」
「へえ」
どこか不貞腐れている丞太郎にテイは面倒臭そうにつぶやいた。
「はあ。朝から妬きもちですか」
「俺に限ってそんな事は絶対ない」
「はいはい、さあ、どうぞ麗華様、旦那様の側に」
いそいそと座らせたテイは、ごゆっくりといい二人きりの部屋にした。
「さて、食べようか」
「はい。いただきます」
……どうかしら。スープの味は。
「なんだ。このスープに何か入っているのか」
「いいえ。ただ味付けを気にしただけです、どうぞ」
「そ、そうか」
麗華が見つめる中、彼はスープを飲もうとしたが、手が止まった。
「どうされましたか」
「いや、その、緊張して」
……気にされているのね。これは私のせいだわ。
「申し訳ありません、私が先にいただきます」
「いや。俺が先だ」
「いいえ、私が責任をもって」
「うるさい。俺だ」
彼女を制する丞太郎に麗華も、首を横に振った。
「そうだわ、丞様。同時に食べましょう」
「それしかないようだな、では」
二人はスープを口にした。
「どう、ですか」
「美味いぞ……それにしても。ふふ」
「ふふふ、すみません。ふふふ」
自分達がしていることに二人は笑った。ここに平坂が果物を運んできた。
「おやおや。お二人とも朝から仲がよろしい事で」
笑っている二人に平坂も笑った。葉室家の朝は楽しく始まっていた。
そして食後の紅茶の時間、丞太郎は茶葉の香りに浸りながら話した。
「麗華。今日は急に時間ができたのだ。これから一緒に外出しないか」
「どちらにお出かけですか」
「うちの土地を視察に行くのだが、君も一緒にどうか、と」
麗華は丞太郎の仕事に関して全く知らない状況だった。彼を知る良い機会と思い、行く事にした。
「テイ。私は丞様とお出かけすることになりました」
「いいですね!では、どの服にしようかな……これ?それともこれですか?」
麗華よりも嬉しそうなテイと相談し、服を選んだ麗華は丞太郎が待つ部屋にやって来た。
「お待たせしました」
「……行くぞ」
「はい」
……似合わないのかしら。全然見てくれない。
先に廊下を歩く丞太郎は青いシャツに黒のジャケットを着ていた。水色の花柄模様のワンピースの麗華は、どこかさびしく彼の広い背中を追っていた。
……そうよ。私は保護のために二十歳までお世話になるのだから。
彼が自分に関心が無くても気にしないと麗華は持っていた帽子を被った。
そんな麗華は丞太郎が運転する車に乗り、屋敷を出た。
「気分はどうだ」
「良いですよ」
久しぶりの外出であるが、丞太郎と二人きりだということに麗華は緊張した。
どこか無口の麗華に丞太郎は言葉を落とした。
「俺と二人だと、楽しくないのか」
「そんなことは」
「台所では楽しそうであったぞ」
「それは」
「それに、いつまでも、その」
もごもごと話す丞太郎の言葉を麗華は必死に耳で拾った。
「なんですって?」
「いや、その。いつまでも敬語であるので、それが、ちょっと」
……それを気にしていたのね。
運転する丞太郎はまっすぐ前を見た。
「確かに俺は君よりも年が上だし。打ち解けろと言ってもその、色々あるだろうが」
「すみません」
「謝れると余計凹むな」
信号待ちの彼は恥ずかしそうに麗華をちらと見た。麗華は顎に手を当て思案していた。
「どうした」
「いえ、確かにそうですね。私達、一年間は婚約者なのですものね」
……いつまでも敬語では婚約者らしくないもの。
「わかりました。麗華は丞様に打ち解けます」
「へ」
「丞様、青です」
「は、はい」
麗華の決意に丞太郎はドキドキしていたが、硬派な顔を必死に努めていた。そんな二人は目的地に到着した。
「ここだ。あの建築しているビルだ」
「あの建物……まあすごい」
現場が見える場所に停車した丞太郎は麗華に指し説明した。麗華はこの一帯全てが葉室家の土地だと知った。
「さあ行こう。他にも工事をしている現場があるのだ」
「はい」
忙しく動く彼について行った麗華は、だんだん気後れをしてきた。
……こんなに資産があるのね。すごい。
丞太郎が運転する車は葉室家の敷地を走って行った。それを眺める麗華は、その広さにただただ驚いていた。
「麗華。あの店で休憩しよう」
「はい」
丞太郎が連れて来てくれた洋食屋で二人はテーブルを囲んだ。
「私はここではいつもハヤシライスを食べることにしているのだ」
「では、麗華もそれでお願いします」
「わかった」
こうして丞太郎が注文していると、背後の席の人が振り向いた。
「あ、もしや葉室様では」
「どうも。その節はお世話になりました」
仕事仲間なのか、丞太郎は店にいた客に話し掛けられた。麗華はただ待っていた。この様子に客の方が麗華を見つけた。
「おっとすみません。お連れ様がいたのですね」
「こちらこそ。ではその件は改めて」
話を切り上げた丞太郎は麗華の元に戻って来た。
「料理が来ていたのか、これはすまない」
「いいえ。今、来たばかりですよ」
笑顔で応じた麗華は、丞太郎とハヤシライスを食べた。
「どうだ、美味いか」
「はい……美味しいです」
「そうか」
……冷めてしまったな。麗華に悪い事をした。
それでも食事を終えた二人は車に戻り、葉室家へと戻って来た。帰りの車で転寝をしてしまった麗華は、屋敷に到着後、部屋で休むといい、丞太郎は自室でため息をついた。
……初デイトのつもりであったのに。あまり喜んでくれなかったな。
丞太郎としては自分の資産を紹介し、麗華に喜んでもらおうと思っていた。さらに洋食屋での食事で楽しいひと時を送るつもりであった。しかし、麗華はどこか難しい顔をしていた。
この夜、軽食で済ませた二人はそれぞれ早く就寝した。
翌朝、いつものように麗華と食事を終えた丞太郎は、秘密警察の副司令室に出勤していた。
「はあ」
「五回目……」
「え」
「丞の『ため息』の数だよ。何があったんだい」
あきれた真木也の声に丞太郎は白状した。
「整理すると。お前は葉室家の土地を彼女に見せ、そして洋食屋に行った。そこで取引相手に会って仕事の話をして、帰って来た」
「そうだ。確かに麗華を待たせてしまったが。帰りなど楽しくなさそうだった」
「あのさ……俺は麗華さんに会ったことがないが、お前の資産を当てにしているような人なのか」
「あ」
真木也の言葉に丞太郎は動きを止めた。
「俺には質素を好む女性だとお前は話していたぞ。それなのに葉室家の土地なんか紹介したら却って恐縮すると思うけどな」
「た、確かに」
「まあ。一般的に、婚約者に自分の資産を紹介することは間違っていないと思う。しかし、葉室家のあの広大な土地は、俺がお前だったら……見せないな」
「ううう」
頭を抱えた丞太郎に真木也も頭をかいた。
「まあ、元気出せ。それにだ。これで彼女が財産目当てじゃないと分かったんだし」
「当たり前だ」
「そう怒るなよ。さて、早く仕事を片付けて、彼女に謝るんだな」
気楽に話す彼は部屋を出て行った。丞太郎は机の引き出しを開け、写真を手にした。そこには葉山の海辺にいる少女の麗華が写っていた。
……俺は、また君を傷つけてばかりだ。
麗華を想う丞太郎はそれでも仕事を終え、葉室家に帰宅した。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「お疲れのようですね。御先にお風呂にどうぞ」
麗華の勧めで力なく風呂に入った丞太郎は、濡れた髪のままで夕食のテーブルにやってきた。そして麗華と食事を始めた。
……食事の後、麗華に謝ろう。
考えながら食事をしている彼に麗華は、顔を向けた。
「丞様。食後にお話があります」
「あ、ああ」
麗華の深刻な顔に丞太郎は悲しくなっていた。
そんな二人は夜のテラスで紅茶の時間を過ごしていた。
「丞様。この前一緒に見たビルですけれど」
「あ、ああ。あの日は」
すまなかったと言おうとした彼に、麗華は紙を手にし、読みだした。
「質問です。なぜビルの横に広場があるのですか」
「広場……ああ、あれはな。あそこには縄文時代の遺跡があるので避けたんだ」
「なるほど。では、一階の窓が少ないと思ったのですがそれはなぜですか」
「泥棒避けと、壁に柱を多く入れたんだ」
この他にも麗華は建物について質問をしてきた。丞太郎はわかりやすく答えた。
「まあ。あの屋上の棒は、雷を落とすものなのね」
「避雷針といってね。まだ実験らしいが頼まれて取り付けて見たんだ」
納得している麗華に丞太郎は恐る恐る尋ねた。
「あの、君は建物に関心があるのか」
「……そうでもありませんが、できるだけ勉強しようと思って」
……ああ、なんてことだ。
麗華なりに学ぼうとしていたことに丞太郎は目をぎゅっとつむった。
「麗華、すまん」
「どうしたの」
「俺は君に、自慢気に土地などを見せてしまって。本当に自分が恥ずかしい」
「そんなことありません」
「だが君は洋食屋でもずっと黙っていたし」
「ああ。それですか」
麗華はじっと彼を見た。
「実は洋食屋さんに行ったのは初めてで……ハヤシライスも生まれて初めて食べました」
「え」
「すみません。私、緊張していました」
「そうか」
「美味しくて……びっくりしてしまって、あの時」
しみじみ話す麗華に丞太郎はやっと安心した。
「だったらよかった。俺は君に嫌われたと思っていたんだ」
「どうして嫌いになるのですか?楽しかったのに」
首を傾げる麗華に丞太郎は立ちあがり、紅茶のお代わりを淹れ出した。
「では麗華、今度行きたいところがあれば言ってくれ」
「特にないです」
「いや、あるはずだ。思い出せ」
彼の言葉に麗華は恥ずかしそうに髪をかき上げた。
「……ここの庭に一緒に行きたいです。お花が咲いたので丞様にお見せしたいのです」
「では行くか、今から」
「待って、それは明日の朝がいいわ」
……あれ。麗華の言葉が。
いつの間にか少し打ち解けている麗華に、丞太郎は深呼吸で整えた。
「わかった。君の言う通りにするよ」
「今は、丞様と一緒にお紅茶を飲みたいです」
「私もそう思っていたよ……」
そういって丞太郎は紅茶のカップを差し出した。
葉室家の夜のテラスは優しい香りに包まれていた。
完
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