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十二 旦那様のお仕事
「広子。そのドレスは見た事が無いが」
「ああ、これですか」
夫に気が付いてもらった久世広子は微笑んだ。
「万理華が嫁に行くので私も何かと人に会いますので、新調しました」
「そ、うか」
「あなた様のも注文しましたのよ。銀座の高級店にあった舶来品の生地で作りました」
「お父様、お母様。見て頂戴」
美しい紙箱を持った万理華は嬉々として二人の前で開いた。広子は手を叩いて喜んだ。
「まあ。すてきなバッグね」
「お母様。これは取り寄せのお品なの。私、真木也さんとお出かけする時に使うつもりよ」
「いいじゃないの」
高級百貨店の包紙を見た貴仁は目を細めた。
「万理華、それは大切に保管しておきなさい。広子、ちょっと話がある」
娘には笑みを見せた彼は、妻を書斎に呼び出した。
「何ですか」
「……我が家の支出の事だ。最近、金を使いすぎているぞ」
「だってあなた。万理華がお嫁に行くのですよ?それなりの支度をさせないと」
「それはわかっているが。しかし」
顔に陰りをみせる貴仁に広子は、目を細めた。
「高園さんから結納金が入りますでしょう?それに。葉室様から融資はあるとじゃありませんか」
「確かにそうだが。融資は融資だ、返すものだよ。借金がこれ以上となると」
「……でも、葉室様は麗華の婚約者ですよ」
広子は悩む夫に迫った。
「麗華の結納金はまだですよね。それがあれば」
「建前上そうだが、融資の上に結納金まで催促するのは」
子爵のプライドが邪魔する貴仁に広子は厳しく机をたたいた。
「あなた!このままでは久世家は無くなってしまいます。直接お願いするのではなく、手紙でお伝えしてください。さあ」
「わかったよ」
高圧的な妻の指示で貴仁は丞太郎に手紙を書いた。これは葉室家に届けられた。
緑鮮やかな葉室家では丞太郎が在宅していた。彼は紅茶を持って麗華がいる本の部屋に入って来た。
「麗華、休憩しないか」
「あ。丞様。申し訳ありません、私がやります」
慌てる麗華に丞太郎はむすとした。
「紅茶を淹れるのは俺の特権だ、さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」
そんな麗華がいた机には書類が乗っていた。彼は一枚手に取った。
「古文書の解読か」
「はい。平坂さんに頼まれました」
葉室家に残っている古文書を整理している麗華は、紅茶のカップを両手で持った。
「保存状態が悪い物があるので、読めるうちに書き写して保存しようかと」
「……江戸の中期からあるのか、これは大変だな」
「でも全部ではないですし。面白いです」
……いいぞ!平坂。
働きたがる麗華のためにあえて仕事を与えた執事に、丞太郎は心の中で褒めていた。
「もしかして、迷惑ですか」
「いや、助かるよ。それにしても」
「どうされましたか」
「……字が見事だ……これもお爺様に習ったのかい」
「はい」
麗華の美しい書に丞太郎は目を細めた。
「これは大したものだ」
「そうですか」
……そんなはずはないのだけど。
久世家では母にいつも愚弄されていた書を褒める丞太郎が麗華には不思議だった。これは彼が気を遣って褒めていると麗華は受け取った。
「自慢できるようなものではありませんが、これからも頑張ります」
「そんなに頑張らなくても、ああそうだった」
丞太郎は手紙を持って来た。
「先日の夜会の主催のご夫婦を覚えているか」
「はい。葉山にお越しになったことがあると話されていました」
「あのお二人が君に会いたいそうだよ。どうする?」
「私に?……そうですね」
考え込む麗華に丞太郎は側に座った。
「行きたくないのなら断るが」
「そういうわけではありませんが、私、お呼ばれした事がありません」
不安を口にした麗華に彼は頷いた。
「ならばともに参ろう」
「え」
丞太郎は立ちあがった。
「私も行く。それならばよいだろう」
「ですが、お忙しいのに」
「君の事が最優先だと言っただろう?では決まりだな」
さてと彼は忙しそうに部屋を出て行った。部屋には彼の残り香があった。
……私もしっかりしないと。
二十歳まで葉室家に居候させてもらう麗華は、世話になっている丞太郎に恩を感じていた。これを返すべく婚約者として失礼のないようにふるまおうと心した。
「テイ。私は丞様とお呼ばれにいくことになりました」
「いいですね!……では今度は何を着ましょうかね。ふふふ」
テイの方が浮き立つ中、麗華も支度にとりかかった。そして当日を迎えた。
「麗華、すまない」
「お仕事なら仕方ないですよ」
「くそ……なぜこの日に限って」
せっかく一緒に出掛ける支度をしたのに丞太郎は緊急に呼ばれてしまった。目の前の清楚な白いワンピースで揺れる麗華に彼は悔しさをにじませブーツを履いた。
……なんて可憐なのだ。ずっと一緒にいたいのに。
「丞様。表に車が来ましたよ」
「麗華……」
「麗華は大丈夫ですよ。あまり長居せずに帰ってきます」
……心配かけないようにしなくちゃ。
「丞様。呼んでいますよ」
「わかっている、麗華よ」
丞太郎はすっと麗華の耳側の黒髪を手にし、毛先までたどった。
「……では行ってくる」
「はい、お気をつけて」
不機嫌そうな顔で帽子を直した彼は駆け足で車に乗って去った。青い空と白い雲だけが残った玄関にいた麗華は、彼が見えなくなるまで手を振った。
「あら。手袋が落ちて」
急いで出かけたせいか、彼は片方落としていった、麗華はこれを手にした。
……大きな手袋。丞様の。
ここから彼を感じた麗華は思わずこれをしまった。そして平坂が運転する葉室の車で、麗華は招待された屋敷にやってきた。
「この度はご招待いただきまして」
「まあ麗華さん、ようこそ」
「よく来たね。さあ、どうぞ」
温和な老夫婦は優しく麗華を招き入れた。
「申し訳ありません。丞太郎さまはお仕事が入ってしまって」
「忙しないこと?でもいいのよ、私達は麗華さんに会いたかったの」
優しい二人と麗華は葉山時代や、久世の祖父母の話で盛り上がった。
「ははは。懐かしいな。麗華さんはよく覚えているね」
「ふふふ、それよりも奥様、このクッキー美味しいですね」
「それは私の手作りなのよ、そうだわ!イチゴのジャムがあったから、あなたに差し上げたい。ちょっと待ってね」
夫人が去った部屋で麗華は主と二人きりになった。
「いやいや忙しいな。丞太郎のことは言えないな」
「ご主人様は丞太郎様と御親戚なのですね」
「そうだよ。私も若い頃は同じ役目を仰せつかっていたんだ、ええとこれだよ」
彼は机の中から勲章を取り出した。
「うちも葉室家も代々近衛兵なんだ」
「近衛兵」
「ああ。具体的な軍隊ではないんだ。陛下のお側にいる者だよ」
彼は立ちあがり写真を広げた。
「これが実秋殿下だ。帝の三番目の弟になる。私も若い頃世話になった」
「この方は、葉山にお越しになっていますね」
「かもね。君のお爺様とは、従兄弟、かもしれないね」
……懐かしい、優しいお声の人だったわ。
「私の時はまだ平穏な時代だったが、今は政情が不安定だからね、丞太郎は大変だと思うよ」
「そうなのですか」
……丞様はそんなに危険な仕事をしているのね。
彼の実情を聞いた麗華は、急に不安になった。これに彼は気が付いた。
「おっと。そんな顔をさせるつもりではなかったんだ。それにだね、丞太郎は近衛隊発足いらいの豪傑と言われておるのだよ」
「豪傑、それは強いという意味ですか」
「そう。彼の父君は射撃の名手だったのだけど。丞太郎は柔道だったかな。とにかく素手では最強だよ」
「確かに強そうですけれど、そこまで」
言われてみれば太い腕の逞しい体を麗華は思い出していた。
「丞太郎は帝の学友なので側近の中で一番信用されている男だ。ちょっといつも不機嫌顔でとっつきにくいだろう」
「とっつきにくいと思ったことがありません。お優しい方です」
「まあまあ、お熱い事ですねホホホ」
土産を持って来た夫人の笑顔で麗華は恥ずかしくなった。こうして麗華は帰ることになった。
「麗華さん。そういえば久世のご実家には戻っているのかな」
「いいえ。父からは何も言われておりませんので」
「ごめんなさいね。つまらない事を聞いてしまって」
こうして見送られた麗華は、屋敷を後にした。深夜帰宅した彼は、そっと麗華の部屋に花を届けた。
……ん、あれは俺が落とした片方の手袋だ。
なぜかこれを握って寝ている麗華に彼は首を傾げ、部屋をでた。
「麗華様はお休みでしたでしょう」
「それよりも平坂。麗華が私の手袋を持っていたようだが」
「ああ。それはですね」
平坂はお守り代わりに持っていたようだと教えてくれた。
「あれを」
「はい。大事そうにお持ちになって。ほころびを縫いたいと言っていました」
「もう一度寝顔を見てくる」
「なりません。それよりも裁縫箱を早く届けてください」
「そうであった!わかった、明日、すぐやる」
葉室家の深夜はどこか寒かったが、彼の心は温かった。
完
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