十三 守る思い

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十三 守る思い

満天の星の夜。丞太郎と真木也は神田の屋敷の前で警護をしていた。一般家屋が並ぶ住宅街はひっそりと静まり返り、野良猫が遠くから丞太郎を見ていた。 ……今頃。麗華はもう寝たであろうか。 今宵も夕食を共にできなかった彼が猫を見ていると、隣の男が話し出した。 「ところで丞太郎。昨日銀座で暴れた男はやはり薬物中毒だった。供述がまだ進んでいないが、どうやら『(ヤツ)』から麻薬を買ったようだ」 隣に立ち同じく前を通過する猫を見ている真木也に、彼も声低く尋ねた。 「そいつはどこでそれを手に入れたのだ」 「勤務先だ。奴らは堂々と会社に売りに来たらしい。滋養強壮剤とかなんとか飲んだが、中毒になったのだろう」 「会社に売りに来た……そんなことをすればすぐに足が着くと思うが」 「資金集めだろうな。なりふり構っていないのがむしろ怖い」 真木也はそう言ってあきれたように肩を回した。 爆発犯「敷島」が所属している反政府組織「暁」は、昨今活動を活発にしていた。そのためアジトを捜索している秘密警察であったが、まだ敷島の正体さえもつかめずにいた。 十年前の『池之端事件』の時、新人で現場にいた丞太郎と真木也は、その経験を買われ現在、捜査を指揮する立場にあり、使命感に燃えていた。 丞太郎と真木也は共に華族の出身であり幼稚園から皇太子の学友である。 柔和で温和な雰囲気の真木也と強面の丞太郎は父親同士も幼馴染として育った。 成績は真木也が僅差で上位であったが、運動や統率力は丞太郎に敵わず、さらに爵位により上官は丞太郎になっていた。 しかし二人にとってそれは関係なく、あくまでも友人である皇太子のため秘密警察に所属していた。 「活動資金か……という事はまた何か起こすということか」 「それはあるだろうな。ま、今できることは資金源を断つことだな……ん。また始まったぞ」 茶わんが割れる音とともに女の悲痛な叫びが悲しく響いた。 ……すみません!すみません! ……誰のおかげで暮らしていけると思っているんだ!お前のような女は…… ……すみません!うう…… 警護している家の中から聞こえる二人の声に、丞太郎は厳しい顔になった。 彼らが保護をしている政治家の犬飼は今夜も愛人に暴力を振るっていた。この様子に丞太郎は怒りの拳を握っていた。 「やはり許せん」 「落ち着け、丞太郎。これは任務だ」 「しかし。これ以上は」 「我々は立ち入ることはできない。それにすぐに終わる!ほら、もう終わったようだ」 静まった声に真木也は安堵した顔を見せた。しかし丞太郎は怒りが収まらなかった。 ……こんな男を警備するとは、なんということだ。 唇をかみしめる丞太郎は、想いを殺し夜明けを迎えた。 朝方、愛人宅からでてきた犬飼は車に乗り込んだ。見送りに出てきた愛人の女は顔を腫らし、唇を切っていた。痛々しい顔に丞太郎は不機嫌な顔で背を向けこの家を後にした。 「くそ……やはり許せぬ」 「いい加減にしろ。それに愛人だってそれを承知でああやっているんじゃないか」 「女に手を挙げるとは、ああ、もう俺には耐えられぬ」 帰りの車中、怒りに震える丞太郎に真木也もため息をついた。 「俺だって何とかしてやりたいが、これはどうしようもない……」 保護対象に怒る二人は犬飼を本宅まで警護し、そして家に帰った。 ◇◇◇ 「ただいま帰った……」 「お帰りなさいませ」 ……なんて怖い顔。というよりもお疲れだわ。 午前中に帰宅した彼を出迎えた麗華は、疲労の彼の上着を持った。 「麗華。すまない留守にしてしまって」 「私の事はどうぞ気にしないでください」 「そうはいかない」 ……そうはいっても。 絶対疲れている丞太郎の背を麗華は心配した。 「き、君の話を聞かなくては」 「その前に丞様。お休みになってください」 「いや。君の事が最優先なんだ。ええと、ところで今は何時なのだ」 明らかに疲労で思考停止の彼の背を麗華は押した。 「ダメです。お休みにならないと麗華はお話しません」 「え」 「麗華はずっとおそばにいますので。さあ、ベッドへ」 「わかった……少しだけ寝る」 「どうぞ。今、部屋の窓を開けますね」 どこか蒸し暑さがあるこの日、麗華は一緒に彼の寝室に入った。急ぎ窓を開けカーテンを閉め寝やすいように暗くした。 「丞様。お水は」 「……もらおうかな」 ……え。着替えている。 疲れ切っているのか彼は無造作にシャツを脱いでいた。男性の裸を見たことない麗華は、恥ずかしさに目を逸らした。 「では、お持ちしますね」 「ああ……」 そして部屋を出た麗華が水を持ってくると、彼はベッドの上で寝落ちしていた。 ……やっぱり。限界だったのね。 「丞様、ちゃんと布団に入ってください」 だが、彼は完全に寝ていた。途中まで着替えた彼は下半身だけパジャマを履いていたが、上半身は裸のままでベッドに倒れていた。 ……布団に入っていただかないと風邪をひくわ。 平坂も留守にしている今、麗華はなんとか彼を布団に入れようと持って来た水をテーブルに置いた。そしてベッドに上がり丞太郎を必死に引き、定位置へ移動させた。 ……最後に。頭の下に枕も入れて。 丞太郎の頭を右脇に抱えた麗華は、左手で枕を差し、ゆっくりと彼を枕の下におろすことに成功した。間近の彼の寝顔を彼女は確認した。 ……まだ怒り顔ね。怖い夢を見そう。 深い眉間の皺が気になった麗華は、指でそっと皺をなでた。 ……ここはお屋敷ですよ。大丈夫、大丈夫。 彼の任務の内容は知らないが、厳しい現場だと思っている麗華は、彼の緊張を優しく解いた。やがて呼吸とともに穏やかに丞太郎の皺は取れ、優しい寝顔になった。 ……よかった。さて、と。 窓良し、暗さ良し!と指差し確認をした麗華は、微笑を残しそっと丞太郎の部屋の扉を閉めた。 ◇◇◇ 「ただいま戻りました」 「真木也さん。おかえりなさい!」 「来ていたんですね……」 「はい。聞いて下さい!式の事なのですが」 高園屋敷に帰宅した彼は婚約者の高音声に髪をかき上げた。 「すみませんが。今はちょっと仕事帰りですのでその話は」 お断わりの意味を伝えた彼に、彼女は首を振った。 「でもでも。なかなかお会いできないですもの」 そういって彼の服を掴んだ万理華に真木也は嫌そうに立ち止まった。 「それはそうでしたね。気遣いが足りなかったですね」 万理華の事を意味して話した彼に、彼女は上目遣いをした。 「私、お手紙をずっと待っていたのに。お返事もまだですし」 ……これは無理だな。 疲れていた真木也は、抵抗をすることも疲れてしまった。 「わかりました。では、居間で話を聞きましょう」 一度話を聞かなければならないと思っていた彼は、彼女に応じた。 「はい!」 嬉しさに浮き立つ着飾った万理華は居間で彼に話をした。 「式の時のドレスですが、奥様が用意してくれるとおっしゃってくださっています。でも……」 「でも、何ですか?」 「ええと、その……」 万理華の話は無駄に長く、疲れている真木也を苛立だせていた。 「要するに。君が言いたいことは私の母が用意したドレスではなく、自分で選んだドレスを着たい、とそういうことですか」 「そこまでではありませんが、あの、何というか」 もじもじした態度に真木也は目をつむり足を組み直した。 「式については、あなたの好きなようにしてください」 「でも、高園様の奥様には」 真木也の母に強く言えない万理華に彼はそっけなく答えた。 「わかりました。私から母に伝えておきます」 これで終わりと思った彼は立ちあがろうとした。 「……あの、あと式の引き出物の件ですけど。奥様は食器をお勧めしてくださるのですが、私は他の物がいいなと」 「式の事は任せると、今言いましたよ。では私はこれで」 「あ。真木也さん」 「まだ何か」 さすがに言葉がきつい言い方であったが、万理華は気にせず話した。 「あの、私、その。一度、一緒にお出かけをしたいな、と」 恥ずかしそうにしている万理華に彼は目を伏せた。 「……時間があれば、その時に。では、私はこれで」 時間がないので無理と言う意味で彼は返事をした。疲労困憊で廊下を歩く彼の背を万理華は愛しさに目を熱くし、見つめていた。 翌朝。丞太郎ははっと目覚めた。 ……朝か、久しぶりに熟睡したような気がする。 気分良く目が覚めた彼は、朝食の匂いがする居間に顔をだした。 「おはよう。麗華」 「丞様、おはようございます」 ワンピースにエプロンを付けた麗華は料理を運んでいた。その初々しい光景に彼は目を細めた。 「どうですか。ご気分は」 「疲れが取れたよ」 「よかったです」 そんな麗華は真っ赤な飲み物を自分の席にだけ置いた。 「それは何だ」 「野菜を絞ったものですが、失敗しました。とても苦くてまずいのです」 「君はそれを飲むのか」 「はい、栄養はあると思うので」 真っ赤などろどろのグラスを丞太郎は見つめた。やがて料理がそろったので二人は食べだした。 「まずこれを飲んでみますね」 「無理するなよ……どうだ?」 小さなグラスのジュースを一気に飲んだ麗華は、彼を見つめた。 「予想通りの……味でした」 そして白米を食べだした麗華に彼は告げた。 「俺もそれを飲む」 「まずいです。丞様はやめておいた方が」 「いい、飲むのだ。平坂、俺にもこれを持て」 「はいはい。仲がよろしいのは何よりで」 そして。調理場から運ばれた野菜ジュースを麗華が見守る中、彼は飲んだ。 「う……」 「お水をどうぞ」 「いや……俺は平気だ」 丞太郎は身震いし、そして微笑んだ。 「しかし。これはこれで良い。後の食事が格別に美味く感じるぞ」 そういって美味しそうに食べる丞太郎を麗華は見つめていた。 ……面白い方。 久世の屋敷では料理が不出来の際には、母から『食べ物を無駄にした』と罰を受けていた事を麗華は思い出していた。 「麗華、どうした」 「何でもありません」 苦い思い出を飲み込んだ麗華は食事を終えると、丞太郎と一緒にテラスに移動した。しかし電話が入り、彼は席を外した。その間、麗華は新聞を読んでいた。 「すまない。返事を急ぐ内容だったので」 「麗華は構いません。それよりも紅茶を」 「私が淹れる、君は新聞を読んでいなさい」 こぽこぽと音が揺れる中、麗華は真顔で記事を読んでいた。 「何かあったのか、ああ、これか」 妻に別れ話をされた夫が、妻に暴力を振るい殺してしまったという事件に麗華は厳しい顔をしていた。 「これによると、夫は酒に酔って妻を殴ったとありますが。亡くなった奥さんは、前から夫の暴力に悩んでいたとありますね。警察は逮捕してくれなかったのですね」 悲しそうな麗華に丞太郎は身が詰まる思いで答えた。 「そうだな。今の法律ではそうなっている。夫婦間の喧嘩では、夫を逮捕できない」 「だったら……奥さんは?」 「え」 「奥さんを逮捕してあげればよかったのに」 心で話す麗華のつぶやきに彼は動きを止めた。 「例え刑務所でも。旦那さんから逃げられば、奥さんは死なずに済んだのかもしれない、可哀そう」 「麗華……」 ……そうか、君は久世の屋敷で。 虐げられていた麗華の心に丞太郎ははっとなった。 「すまない」 「どうして丞様が謝るのですか」 「君は火傷の痕のことで、辛い目に遭ったのだろう」 彼はそっと麗華の手を取った。 「君を久世屋敷から連れ出した時。この手のひらは真っ赤にただれていた。医師は鞭に打たれたような傷だと言っていた。それは真なのか」 「……」 「無言はそうだという意味だよ。麗華……」 彼は懺悔するように麗華の手を額に当てた。 「本当にすまなかった。全て俺の」 「でも。丞様は……助けてくださいました」 「麗華」 彼が顔を上げると麗華は静かに目に涙をためていた。 「このお屋敷において、麗華に優しくしてくださいました。いつもそばにいて、麗華の話をきいてくださいました」 「麗華、君は」 怒っている麗華は彼を見上げた。 「だから、もう謝らないでください!いつまでも麗華に」 「悪かった!それ以上、申すな」 唇を噛み涙で震える麗華を丞太郎は抱きしめた。 ……そうか、謝っている以上、麗華はずっと被害者になってしまうのか。 謝罪をすれば楽になるのは自分であり、謝罪を受けている麗華の苦悩に気が付かなかった彼の心にまた釘が刺さった。 「麗華……俺は本当に何をやってもダメで、くそ」 「……いいえ、こうしてお側の置いてくださるだけで、麗華は嬉しいです」 彼女は彼の広い胸に頬を埋めた。 ……ああ、暖かい。優しい御方。 しかし、彼の行為は好意ではない。強い後悔の念と責任感によるものだと、麗華は改めて認識した。これ以上、泣いてはいけないと彼女は律した。 「苦いジュースも飲んでくださったし」 「あれか?あれは俺は好きな味だぞ」 砕けた話をした麗華に丞太郎の力が緩んだ。 「あれがですか」 「ああ。だから麗華、また作ってくれ」 「……はい」 空気を整えたが丞太郎はまだ麗華を包んでいた。その心は胸の中の麗華の思いも抱きしめていた。 仲直りの紅茶を飲んだ丞太郎は職場に向かった。 「あ。丞様、ちょうどよかった。相談があります。目白の犬飼の別邸の件で」 「愛人に何かあったのか」 山本は厳しい顔で丞太郎に報告した。 「はい、夕べもひと悶着あったのですが、犬飼の帰宅後、本人から故郷に帰りたいと警備の者に相談がありました」 「わかった。早急に対応する、真木也を呼んでくれ」 「はい」 足早に廊下に出た山本の足音に、丞太郎は険しい顔で一点を見つめていた。 完
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