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十四 あなたのために
「真木也。例の愛人宅から報告があった」
「自分があらためて説明をします」
真木也と一緒にやってきた山本は丞太郎の部屋で話し出した。
「昨夜、犬飼の目白の愛人宅で警備をしていた者の報告です。この夜、いつものような出来事がありましたが、その後、愛人のスイより、秋田の実家に帰りたいと、警察へ保護を要請してきました」
「秋田か。そこに親族がいるのか」
「どれどれ」
険しい顔の丞太郎の前の真木也は山本の手元の資料を受け取り、語った。
「秋田といっても青森に近いな」
「はい。親はいませんが、長兄が継いでいるそうで、そこに帰ると」
「そうはいってもな、犬飼が許さないだろう」
山本の言葉に真木也は資料のページをめくりながら説いた。丞太郎はすくと立ち上った。
「……みんな、俺の話を聞いてくれ」
丞太郎は麗華の話を参考に作戦を話した。非常識な方法であったが、彼らは上司に相談した。
「葉室。お前は本気なのだな」
「はい。今のままでは犬飼はあの女を殺してしまうでしょう。自分はそれを問題視しております」
「恐れながら。暴力は昨年から行われており、当初よりもひどくなっております」
「それは問題だ」
丞太郎と真木也の説得で司令官は頷いた。
「……確かにそれは困る。わかった。秋田の兄が後見人になるなら、良しとしよう」
丞太郎の案を了解した司令官は、指で書類をトンと叩いた。
「だが。これは女の逃亡の手助けではない。あくまでも葉室の案の通りだ。それでは、そうだな、愛人の警護に緑川を呼ぶ」
一瞬驚いた三人に上司は続けた。
「何を驚くのだ。こういう場合女性の方が良いだろう。今日出勤しているのだ、呼べ」
「自分が呼んできます」
そして部屋がノックされた。
「緑川、入ります」
彼女の入室に司令官は話を始めた。
「君に任務だ。我々の保護対象の犬飼の目白の別宅についてだが。山本、説明せよ」
司令官に代わり現状を説明した山本の話を聞いた緑川マチ子は一同に鋭く尋ねた。
「確認ですが。これは犬飼の保護のためでありますか」
「保護と言えば保護になるかもな。愛人への暴力は過剰であり内輪の喧嘩を超えている」
丞太郎の答えに緑川は確認した。
「では保護の優先順位を教えてください。犬飼なのか、女なのか」
「緑川。あくまでも我々の保護は犬飼だ。なあ、丞太郎」
真木也の言葉に丞太郎は眉を顰め考えた。
「……いや。愛人とて犬飼の身内だ。それに犬飼にこれ以上の暴力は、我々も見過ごすわけにはいかぬ。緑川は愛人の保護を優先しろ。司令官、よろしいですね」
「そうだな。緑川、お前は愛人だけを守れ。他の者はあくまでも犬飼を守る。詳細は山本から聞くように」
「はい。承知しました」
女将校の緑川はそっと頭を下げて部屋を出て行った。扉が閉まった音を口火に真木也は髪をかき上げた。そして三人は司令官室を出た。山本は緑川がいる部屋に向かったが、二人は廊下を歩いていた。
「素っ気ないと思うが」
「何のことだ」
緑川マチ子は秘密警察唯一の女将校である。主に女性の警護をしている緑川は、剣道の上段者であり有能な女性である。軍服に女を収めその表情は不明であるが誰もが一目置いている緑川は、丞太郎と噂になった女性であった。そんな二人は副司令官室に移動していた。
「そろそろ真相を聞かせてくれてもいいかな。あの時はどういうことだったんだよ」
「何度も説明しているが真相も何もない。緑川が保護対象について悩んでいた時で、辞めたいと漏らしていたんだ。俺は上司として相談に乗っていて。あいつをたまたま欠員があったここに異動させたんだ。それだけだ」
「それで、あの時ここにいたのか」
「ああ。だがすぐに異動になり、またここに戻ったのだろう」
「なるほど。では、恋愛のれの字もないわけだ」
「当たり前だ、さて俺達も現場に行くぞ」
その夜、目白の愛人宅で犬飼は暴れ出した。
「きゃあ!」
「お前のような女は、俺がいないと何もできないくせに」
「止めてください!助けて」
暴力の声が響く部屋の扉がすっと開いた。
「失礼する」
「お前達。警備はどうした」
「犬飼殿、お取込み中、申し訳ない」
茶碗が割れ、女の唇は切れ、男が髪を掴んでいた喧嘩の部屋に秘密警察が入って来た。
「横山スイ。昨日、裏の家に泥棒が入ったのだが、近所の人からお前じゃないかと警察に届け出があった。これから署に出向き、事情を聞かせてもらう」
丞太郎の話に二人は驚いた。
「なんだと、スイ、お前何かしたのか」
「え?私、何もしていません。本当です」
驚く犬飼とうろたえるスイのそばへ緑川はそっと寄り添った。
「横山さん。とにかく警察で事情を聞きます。私と一緒に行きましょう。さあ」
「でも」
「待て!スイは私の女だぞ。警察に何の権限があって」
食って掛かる犬飼に丞太郎はスイを背にした。
「犬飼さん、これは話を聞くだけです。どうぞご協力ください。おい、行くぞ」
スイを連行した秘密警察は、車の中で本作戦を話し彼女から理解を得た。警察はスイを病院で診させ怪我の診断書を作成させた。
その間。犬飼は愛人に逢わせろと騒いだが、最終的に本人の意思で東京を去ることになった。
「昨日、スイさんは退院しました。後見人の兄が秋田の実家に連れて帰りました。汽車まで見送りしましたが、みなさんに感謝すると仰っていました」
「ご苦労だった」
「まあ、秋田が実家なら多忙な犬飼は逢いに行けないだろうな」
丞太郎と真木也へ緑川は淡々と報告を続けた。
「そうですね。スイさんも実家の住所は知らせていないそうです」
「……今回は助かった。下がってよろしい」
「その前に良いですか」
緑川は二人に向かった。
「今回の作戦、どなたの発案でしょうか。被害者であるスイさんを連行するという発想は奇抜でありますが、大変有効に思いました。これを今後の参考にしたいのですが」
「それは」
「俺が話すよ。緑川、それは丞太郎の身近な人の話だ」
恥ずかしそうに背を向けた丞太郎に真木也は嬉しそうに語り出した。それは麗華が女性側を逮捕という話を活用したもので、逮捕の名目で保護するものだった。
「その身近な人は、どうしてそのような考えをされたのでしょうか」
「おそらく『命を救う』ことだけを優先したんじゃないか」
顎に手を置く真木也の返事に、振り向いた丞太郎は目を見開いていた。
「なぜ真木也がそれを言う?」
「あのな。お前から彼女の話を聞いていればわかるさ。彼女は優しさでできているような人らしいからな」
「そうですか」
この答えに緑川は俯いた。これに丞太郎は話を締めようとした。
「まあ、本人からの救助の要請があったからできた話だ。もうそれくらいでいいだろう。緑川、以上だ」
嬉々としている真木也に対し、丞太郎は頬を染めていた。
「……ありがとうございました。勉強になりました。失礼しました」
最後に丞太郎をみつめていた彼女は会釈するとブーツの音を鳴らし退室した。
「大丈夫か」
「何がだ」
気を取り直し仕事の書類を読んでいた丞太郎に真木也は向かった。
「彼女だよ。お前を熱く見ていたけれど」
「気のせいだろう。それよりもこの予算を見てくれ」
「はいはい」
問題が尽きない彼らはこの出来事に甘んじる時間もなく、次へと向かわされていた。
「ただいま帰った」
夕刻、葉室屋敷で彼女は出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ。お風呂が沸いていますよ」
「ありがとう。ところで今日は何をしていたのだ」
風呂場までの廊下を二人は歩いていた。
「庭の手入れと、お料理を作りました」
「それは楽しみだ。ん」
じっと自分を見る麗華に彼はどきとした。
「いかがした」
……いつもよりも、ほっとしている顔ね。
「お悩みが解決したのですね」
「え」
「お心が晴れているようで、麗華も安心しました」
小さく微笑んだ麗華に丞太郎は立ち止まった。
「なぜわかったのだ」
「お顔に書いてあります」
「この顔に?」
驚きで頬を触る丞太郎に麗華は笑った。
「ふふ、もうお風呂に入ってください。そしてお食事にしましょうね」
背中を押す麗華に彼は降参して風呂場に進んだ。麗華は扉を閉めた。
「そうだ、麗華。君に本を持って来たんだ。食後に渡す」
「楽しみです」
「……あと、ありがとう」
この意味不明なお礼に扉の向こうの麗華は一瞬、首を傾げた。
「……お礼を言うのは麗華の方です。丞様、どうぞ、ごゆっくり」
「ああ」
脱衣所の扉の向こう、赤面している丞太郎を知らず麗華は食事の支度に向かった。
葉室家には暑い夏が訪れていた。
完
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