十五 大切なもの

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十五 大切なもの

葉室家は夕食となった。 「旦那様、その魚は麗華様が三枚におろしたのです」 「これを君が?」 「お恥ずかしいです」 丞太郎は麗華が作った鯛の刺身を食べた。 「うまい……新鮮でコリコリしている」 「良かったです。ちょっとやってみたくて」 「麗華も食べなさい。うん、これはうまいな」 楽しい食事を済ませた彼は、食後の紅茶に麗華を誘った。 「お疲れではないのですか」 「平気だ。それよりも君の話を聞かせくれ」 麗華の話を聞きたくてしょうがない丞太郎に、彼女は屋敷の出来事を話した。 夜のテラスの窓の外は黒いカーテンに星が輝いてた。 部屋着の着物姿の丞太郎はゆったりと着こなし、同じく着物姿の麗華は穏やかに長椅子に座り語った。 「葉室家の古文書にあった伊勢参りの話の続きを解読しました」 「ああ。茶店で菓子を食べた話だな」 「はい」 紅茶を淹れている丞太郎に麗華は微笑んだ。 古文書の解読をしている麗華は、丞太郎に報告した。 「この人は葉室左門さん言う人です。左門さんは道中に食べたお菓子を全部、記されていて、感想を書いています。その中で伊勢で赤福を食べておいしかったのか、『魔物の餅なり』って書いてありました」 「『魔物』ってどういう意味だろうな」 「麗華は思うには、あまりの美味しさに他のお菓子がつまらなくなったから、そう言っているのかなと」 「なるほど」 「そんなに美味しいのですね」 笑みを浮かべた麗華を彼は抱きしめたい気持ちを押さえた。 「では、行ってみようか」 「伊勢にですか」 紅茶のカップを差し出した彼は、恥ずかしそうにつぶやいた。 「ああ。行こうと思えば行けるさ。少し休みを取れば」 ……毎日あんな疲れてベッドに倒れているのに。 「ふふふ」 「麗華?」 「丞様。その前にお体を休めてください」 紅茶を受け取った麗華に彼は目を細めた。 「私は疲れてなどいないよ。ふわあ」 大きなあくびをした彼に麗華は笑った。麗華の柔らかい声の部屋で丞太郎は癒されていた。 その夜、麗華を寝かせた葉室家では密かに話し合いがされていた。 「丞太郎様。久世家に行って参りました」 「ご苦労であった。して、どうであった」 「話の限り向こうが気にしているのは結納金だけでしたね」 麗華と婚約を進めたい丞太郎は久世家に親書を平坂の手で届けさせていた。葉室家主導で進めたい意向と、金額の提示を持って届けた平坂は、久世家の状況を話した。 「貴仁さんはお疲れのご様子で、奥様の広子さんは万理華さんの婚約で忙しい様子でしたね」 「まあ、それはそうであろうな」 久世家の返事としては、万理華の結婚を優先させたいという返事であった。 「確かに短期間で二件の婚儀は大変であるし、真木也にも申し訳ないしな」 「こちらとしては、もう麗華様は葉室家にいらっしゃいますしね。後は形式だけ整えたいだけですから」 「麗華にあんな仕打ちをしていた家だ……もう二度と帰すわけにはいかぬ」 腕を組みギリギリと怒る丞太郎に平坂はまあまあと制した。 「まずはとにかく。今後のためにも向こうが提示してきた結納金を収めておきましょうか」 「そうだな。文句を言われたくない……あ、そうだ裁縫箱はどうした」 「そうでしたね」 麗華が所望していた裁縫箱を久世家から手に入れようとしていた丞太郎は、結納金と引き換えにしようとしていた。他にも麗華の私物を所望していた葉室家に対し、久世家はこの条件の受け入れの返事をしてきた。 だが突然拒否をしてくる場合があるため麗華には内密に丞太郎は計画を進めていた。 「平坂さん。お出かけですか」 「え?ええ。そうです、ちょっと行ってきます。テイ、そういうことだ」 「任せてください!」 不思議顔の麗華と力こぶをつくるテイに見送られた平坂はこの日、山本と一緒に久世家にやってきた。 「参るぞ」 「はい。麗華さんのお荷物をできるだけ持って行きましょう」 高額な結納金を持って来た二人は気合を入れて久世屋敷に入った。 「ようこそ。ではこちらへ」 「恐れ入ります」 「失礼します」 ……なんだろう。視線が気になるな。 久世家の使用人達の視線が気になる山本は、平坂とともに客間で結納金のやり取りをした。 「確かに受け取りました。本当に麗華がお世話になります」 「こちらこそ」 「ところで。麗華はそちらでご迷惑を掛けておりませんか。私、心配で」 麗華にむち打ちをしていた母の笑みに対し、平坂はそれを上回る極上の笑みでを返した。 「はい。それはそれは健やかにお過ごしです」 「そうですか。ホホホ」 愛想笑いの広子に貴仁も続いた。 「麗華は葉室様のお屋敷で何をしているのですか。失礼ながら学も無く、何もできない娘ですが」 「それについて、自分がお答えします」 腹が立った山本は咳払いをした。 「麗華様はみずから葉室家の歴史を学び、今は傷んだ古文書の解読をされています。他には庭木の手入れをされています。葉室家の庭は東京都の特別自然保護地に指定されている植物の宝庫でございます。麗華様は誰に言われたわけでもなく、植物を鑑賞され日々学ばれております」 「ま、まあ、そうでしたか」 山本の発言に怯む広子に貴仁はまっすぐ尋ねた。 「ですが、社交的にはどうですか。こちらとしても何も学ばせておりませんでしたが」 「それにつきましては」 平坂が貴仁に向かった。 「先日、小倉様のお屋敷に招かれまして。楽しい時間を過ごされましたね」 「小倉様……あの世田谷の小倉様ですか」 「そうです」 ……父の親友だ。私には疎遠なのに。 自分は誘われた事が無い彼が目を細める顔に平坂は声を被せた。 「それに。夜会も参加されましたが堂々とされておりまして。とても初めての夜会とは思えない立ち振る舞いでございました。参加の方からも親しく声を掛けていただき、麗華様はどちらに参られても立派にされてお出でです」 「それは良かった。親として、安心です」 「はい。私も気がかりでしたわ、そうですか」 動揺を隠せない二人であったが、この後、広子は麗華の荷物まで案内してくれた。 「こちらでございます」 「これ……ですか」 そこに行李(こうり)という籠が一つあった。 「あの子は物を持つのを嫌いまして。最低限で良いというものですから」 「それにしても、花嫁道具的なものは……」 親が持たせるのではないか、と目で荷を探す山本を平坂が制した。 「良いのだ山本。麗華様には丞太郎様が何もかも用意しておるのだ。あの奥様、裁縫箱はどちらに」 「その中にございます。ほら」 行李の蓋を取るとそこには、木箱が見えた。 こうしてこれを腕に抱えた山本を前に、平坂は久世屋敷の玄関を出ようした。 「では。麗華をよろしく」 「はい。次回は書状をお持ちします」 貴仁に挨拶をし平坂が玄関を出る時、老女中がドアを押さえてくれた。 「旦那様、足元にお気を付け下さいませ」 「はい」 彼女はそっと平坂の上着のポケットに何かを入れた。 「……麗華様にどうぞよろしく」 「確かに、承りました」 こうして結納金と引き換えに彼女の私物を乗せた車は、葉室屋敷に帰ってきた。 「ただいま帰った。テイさん、うまくいきましたよ」 「やった!って、あ!麗華様……」 「みなさん、一体どうされたの、あ」 山本が持って来た行李に麗華は目を見張った。麗華が愛用していた籠には見覚えのある紐でくくられていた。 「これは私の実家のもの……もしかして、久世家から持ってきてくれたのですか」 「へへへ」 「これ山本!これは丞太郎様が麗華様に渡す予定であったのに」 「あ」 平坂の叱責にしんとなってしまった部屋に彼の足音が響いてきた。 「なにを騒いでおるのだ、おお、麗華の荷物か」 麗華を驚かせるための秘密任務だと自分が言ったのにすっかり忘れている丞太郎へ、麗華の方が気を遣った。 「旦那様、ありがとうございます。手配して下さったんですね」 「ああ。そうだ、開けて見よ」 「はい」 山本の過ちをうまく誤魔化してくれた麗華に一同がほっとし、丞太郎もどこか嬉しそうに麗華の背後に立ち、中身を見ていた。 「入っています。これは御婆様の形見のお着物で……これは祖父からいただいた真珠のネックレス、そして、あったこれは」 「裁縫箱か」 よかったよかったと一同がうなづく中、麗華の動きが止まった。 「いかがした」 「いえ、軽いので。開けてみますね」 開けると、そこは空だった。 「え。どういうこと」 「テイは黙れ。麗華、中身は他に入っているかもしれぬぞ」 しかし、探しても裁縫道具は無かった。入っていたのは箱だけだった。 「どういうことだ」 「……もしかして、私が裁縫箱が欲しいと言ったので、箱だけなのかもしれないわ」 「そんな」 テイの悲痛な声に部屋は悲しい色になった。 欲しいのは愛用のハサミや針のはず。これをあえて空にした久世家の底意地の悪さに一同の心は黒くなった。 「山本、車を出せ。平坂、後は頼む……」 暗黒面になった丞太郎を見た平坂は首を横に振った。 「みんな、丞様を止めろ」 「旦那様!なりません」 「丞様。麗華はこれでいいの!」 「うわ。すごい力」 テイは右腕、麗華は背後からガバっと抱き付き、山本は左足を押さえた。 しかし丞太郎の力は強く、三人は引きずられた。 「離せ!これでは麗華が」 「私は良いの!本当にこれで」 「あ、お待ちください。手紙があったのだ」 手紙と言い出した平坂の言葉に、丞太郎と三人は止まった。 「ええと、『箱ノ中身アリ。明朝五時、勝手口ニ来レタシ』とありますな。年寄りの女中がこれをくれましたぞ」 「婆やです……きっと、お母様が捨てたのを、拾ってくれたんだわ」 いつの間にか丞太郎をほどいた涙の麗華に、今度は丞太郎が寄り添った。 「そうか」 「……はい」 麗華は空の裁縫箱を手に涙を流した。彼は優しく頭を撫でた。 「大丈夫だ、中身はきっとあるさ」 「そうですよ」 「俺がもらってきますので」 「麗華様、うっかりで申し訳ありません。必ずやこの平坂が預かってきますので」 一同は麗華を囲み励ましてくれた。麗華はこれに胸が熱くなった。 空っぽの裁縫箱は軽かったが、彼女はこれを胸に抱いた。 「ありがとうございます……嬉しいです」 「嬉しい?どういう意味だ」 丞太郎の問いに麗華は涙を拭った。 「みなさんのお心が……優しさが、ここに入っているから」 「ああ、麗華、こっちに」 悲しいくらい少ない荷物だった。悲しいくらい惨めな対応だった。これが自分の価値だと思うと情けなかった。 しかし運んでくれた人の愛が麗華には嬉しかった。 幸せ色に流れる涙に震える麗華を丞太郎は思わず胸に抱いた。静かな夕刻は愛しく優しく過ぎて行った。 夏の朝。夜明けの五時は緑濃く爽やかな空気に包まれていた。 「……おはようございます、まあ、お嬢様」 「婆や!」 久世家の勝手口にて婆やに抱き付いた麗華は感激の涙でいっぱいだった。 「ごめんなさい。何も言わずに屋敷を出てしまって」 「良いのですよ。旦那様から伺いましたので、それよりも」 久世屋敷にいた時よりも健康で美しくなった麗華に彼女はうれし涙の目を細めた。 「お幸せなのですね。婆やにはわかります」 「でも。葉室様にお世話になってばかりで」 「そろそろ良いかな。初めまして。私が婚約者の葉室丞太郎です。任務の姿で失礼します」 麗華の背後に立つ軍服の凛々しい丞太郎に婆やは頭を下げた。 「お嬢様がお世話になります、どうぞ。よろしくお願い申し上げます」 「こちらこそ。あ、麗華、中身をもらったか」 「あ、これですよ。どうぞ、お嬢様」 「良かった」 感激の再会であるが、この場面を他者に見られるのは問題であった。婆やと麗華は車が停めてある場所まで一緒に歩いた。丞太郎は背後を警戒しつつ歩いていた。 「素敵な殿方ですね」 「ええ。立派な方なの、でも私、実は二十歳になるまでお世話になるだけなのよ」 寂しく話す麗華に婆やは強く話した。 「……お嬢様。お嬢様は立派な令嬢です。久世のお爺様とお婆様のためにも、幸せになってくださいませ」 「婆や」 「自分ではご存じないかもしれませんが、麗華様は最高の教育をうけているおいでです。大丈夫ですよ。婆やが保証します」 「でも」 「自信を持ってください。さあ、お車はこちらですね」 車までやってきた婆やは麗華が乗るのを見ていた。丞太郎は車に乗る前に挨拶をした。 「では、これで、世話になりました」 「あなた……もしかして今までも久世の屋敷にいらしたことはありませんか」 「え」 動揺の彼にやっぱりと合点がいった婆やは、じろじろと丞太郎を見つめた。 「外から様子を見ていましたよね。もっと小柄でしたけど、そうでしたか……あっちではなく麗華様を見ていたのね」 「おほん!あの久世の方。麗華は自分が責任をもって幸せにします」 「……葉室さん」 車の中では麗華が心配そうに車外の様子を見ていた。 ……私ではなく、この殿方を心配なさっているのね。 麗華の心の旅立ちに喜びと同時に寂しさが滲んできたが彼女は丞太郎に向かった。 「麗華様は私の全てです。どうぞ、よろしくお願いします」 頭を深く下げる彼女に丞太郎は思わず敬礼をした。 「はい!では、これで」 山本が運転する車は走り去った。後部座席で麗華は彼の顔をのぞき込んだ。 「丞様、婆やと何を話していたのですか」 「お前を幸せにしてほしいということだったが」 「他にもありましたよね」 「……そうだったかな……さて、麗華。それで何を縫うのかな」 ……これは誤魔化している顔だわ、でも。 最後に婆やが片目をつむって合図した事を麗華は思い出していた。 ……ありがとう。婆や、そして。 「ん?なんだ」 「丞様、ありがとうございます」 思わず肩を当ててきた麗華に、丞太郎は帽子のつばを直し恥じらいを隠した。 「……こちらこそ、だ」 初夏の朝、道路は少なく車は掛けて行った。二人の載せた車は爽やかに駆け抜けて行った。 完
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