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十六 雨上がりの庭
「あなた達が来てくださって本当に助かるわ」
「いいえ、そんなことは」
「そうです、奥様。私達は本当にお手伝いで」
「何を言うのです。大変期待しているのですよ」
婦人会長の奥方は嬉しそうに目を細めた。
この日、執事組合から推薦の声が掛かった葉室家の初老の二人は婦人会の役員会に呼ばれていた。この役目を断ろうと思い参加しにきた二人は嬉しそうな会長の前で額の汗を拭った。
「ところで奥様。他の役員の方はどちらにお出でなのですか」
「私達、お話があるのですが」
「そうでしたね」
痩せた体で目付き鋭い会長婦人は厳しい顔で話し出した。それは役員の心得であった。
「私達、社交界をけん引する者は、もっと若い方の手本となるべきです。そのため役員になったからには勉強をしていただきます。他の役員はそれらに参加をしているのです」
「会長、私達、そのことでお願いがあるのですか」
「そうです。私達はきっとお役に立てないと思うのです」
役員を断ろうと話し出した二人を彼女は一蹴した。
「みなさん初めはそうおっしゃるのです。でもご安心を。最後は皆さん、入ってよかったと必ずお話していますので」
「ですが」
「やはり迷惑を掛けてしまいます。それに実は私達、健康に不安がありまして」
病を装い断る作戦の姉妹に会長の目が光った。
「それはちょうどよい事です。この会に入れば病が治りますよ」
「え」
「それは」
「よかったわ。これで安心です」
全く聞く耳のない婦人の圧で、姉妹は入会することになってしまった。そして二人は今後の予定を聞かされた。
「そこに記された神社にお参りにいっていただきます」
「こんなにたくさんですか」
「でも都内よ。頼子」
確認し合う姉妹に会長は風呂敷包を渡した。
「そうです。そちらにこの衣装で行っていただきます」
渡されたのはお遍路さんの参拝の白装束だった。二人は血相を変えた。
「これを着るのですか」
「……もしや。これで巡礼を」
「そうです。自宅から行う事に深い意味があります。そもそも」
貴族の初老の二人に都内の神社の参拝を命じた会長は生き生きと自論を話し出した。普段、買い物以外に歩くことなどない二人はどう断ろうかと、話が途切れるのを待っていた。
「……というわけです。心身共に鍛え、若者への模範となるのです」
「これを皆さん、されるのですか」
「……自宅からとは、奥様。私達の体力では厳しいです」
遠回しに断っているが会長は全く動じず話を続けた。
「それでもやるのです。他にはこちらです」
会長は本を持って来た。
「これは心の鍛錬です。写経は心を清浄にしてくれます」
「これもするのですか」
「写経……しかもこんなに」
分厚い本に二人は目を見張った。
「まだこれだけです。これが済めば次もあります」
会長の方針に二人は青ざめた。
「会長、やはり私達には無理です」
「大変申し訳ありません。辞退させてください」
この通りと二人は頭を下げた。そんな二人が顔をあげると婦人の恐ろしい顔が待っていた。
「……本気で仰っているのですか」
「申し訳ありません」
「本当にすみませんでした、これで失礼します」
平謝りで会長屋敷を後にした二人は、帰りの車で倒れ込むように腰を掛けていた。それでも断ることができたため、屋敷に入るころには笑顔になっていた。
その数日後。二人に手紙がきた。
「姉さん。今週末のお茶会は中止ですって」
「まあ、楽しみにしていたのに」
招かれていたお茶会が中止になった知らせに二人はがっかりした。そんな二人は後日、銀座の洋品店にて偶然知り合いの夫人に逢った。
「お二人とも先日のお茶会はどうしてお越しにならなかったの?映画スタアがゲストにいらして、記念撮影をしたのよ」
「え。それは中止になったのではないのですか」
「私達にはそのような手紙が来ましたが」
すると婦人の顔色がさっと変わった。
「まあ?私の勘違いですね、ではこれで」
彼女は逃げるように店を出てしまった。これに違和感があった二人は知り合いに遊びに来てくれと手紙を出したが、どの返事も断りの内容で二人を困惑させた。
「どういうかしら、姉さん」
「頼子。私達、何かしてしまったのかしら」
誰も相手にしてくれない現状に二人は思い悩んだ。そして気弱な御茶飲み仲間を待ち伏せし、仲間外れの理由を聞き出した。
「それは私に聞かれても」
「お願いよ。私達。誰も会ってくれないの」
「何か粗相をしたのなら謝りたいのです」
姉妹の精神的にまいっている様子に、彼女は教えてくれた。
「……あなた達をお誘いすると、私達も同じ目に遭うのです。だから、ごめんなさい」
「待ってください。どうか理由だけでも」
「お願いです!」
「葉室さん……私もお遍路さんをしたのです。言えるのは、それだけです」
彼女はそう悲しく言うと、この場を後にした。姉妹は茫然としていた。
「あなた。万理華の披露宴の件ですか」
「どうした」
「日付について高園様が難色を示されているのです」
広子は疲れた顔で椅子に座った。
「高園様は風水という占いに凝っているようで、せっかく予約できた会場は、方角が悪いと仰るのよ」
「方角が悪いというのは、どういうことだい」
「この久世家からホテルに行く方向ですと、運が悪いそうよ。だから他の会場にしてほしいと」
「またか、これでは一向に決まらないではないか」
高園夫人のこだわりが多く、一つの事柄を決めるのに過大な気遣いを擁していた。これに久世家ではすでに疲れがでていた。万理華のために久世家は高園家に合わせているが、貴仁も嫌気を隠せずにいた。
「どうされます?」
「……やむを得ない。方角が悪いのであれば、一旦家を出て、遠回りでの運の良い方角からホテルに入るしかないな」
「その手がありましたね」
「面倒だが仕方ない」
他にもこだわりがあったが、完全にお手上げ状態の久世家は高園に合わせることにした。万理華も自分の意見を通せず、義母に夫人の言いなりの状態が続いていた。
「万理華さん。まあ、良くお似合いよ。私の娘時代のドレスが」
「……ありがとうございます」
高園家に遊びに来ていた万理華は流行遅れのドレスを着せられていた。この日は高園家に婦人のお茶のみ友達が遊びに来ており、万理華は婚約者として紹介された。
「久世さんの娘さん?まああなたが例の」
「評判なのよ、あなたは」
「うちの万理華さんが?まあ、嬉しいわ」
「お恥ずかしいです」
謙遜している万理華に対し、夫人達のおしゃべりが広がった。
「小倉様の夜会にうちの主人が参加したのですが、先代の久世の旦那様の昔話で盛り上がったと喜んで帰って来たのですよ」
「うちは高齢の義母が参加したのですが、先代の久世の奥様のお友達だったので、葉山の話が懐かしかったそうよ」
「そ、そうですか」
……私じゃない、麗華の話をしているのね。
その他にも来ていたドレスや美しい佇まいを彼女達は褒めてくれた。
「まあ、万理華さんがそんなに高評価なんて。嬉しいわ」
……やっぱり麗華と間違えているのね、でも、ここは。
高園夫人が喜んでいるので万理華は笑みで悔しさを飲み込んだ。
「たまたまですわ。ほほほ」
「そういえばチェスで男性を負かしたそうね」
「これからは女の時代ですもの。どんどんおやりになってね」
「はい……奥様、私は向こうの部屋に控えておりますね」
万理華はそう会釈をして退席した。締めたドアの向こうでは拳を握りしめていた。
……麗華やつ、いい気になって!
怒りに狂う廊下の鏡には、古臭いドレス姿の自分が映っていた。
……なにが素敵なドレスよ。私はこんなカーテンみたいなドレスなのに!
さらに婚約者の真木也から手紙の返事もない万理華は、高園屋敷にて悔しさを滲ませていた。
雨の葉室屋敷では珍しく丞太郎が在宅で仕事をしていた。そんな彼の部屋にテイがお茶を持って来た。
「旦那様、どうぞ」
「テイ、麗華はどうした」
「お部屋にいらっしゃいますが」
「そうか」
……お茶を淹れに来てくれない……
忙しくテイが去った部屋で彼は手元の手紙にため息をついた。これらはすべて麗華へのお茶会の招待状であった。
……こんなに誘いが来るとは。
独身だった彼の婚約者ということや、社交界の重鎮の小倉夫妻のお気に入りの点と、チェスが強いという麗華の評判を丞太郎は知っていた。
しかし。それ以外の参加者からは品の良い佇まいで賢そうと、美麗な様子の評価が高かったことを彼は心配していた。
……婚約者として喜ぶべきことであるが。麗華の良さを知られたくなかった……
彼女を愛しすぎる丞太郎はこれらの対応に頭を抱えていた。真面目な彼女はこれらの誘いにすべて参加すると言い出しそうな予感を彼は危惧していた。
窓の外は雨。丞太郎はさびしく庭に落ちる水模様を眺めていた。しかし、我慢できず彼女の部屋をノックした。
「麗華……入るぞ」
彼女は窓辺の机を前にし、椅子に座っていたが、突っ伏している様子から眠っているようだった。
「ここで寝ては風邪をひくぞ。麗華」
「スースー」
……何をしていたのだ、あ。
麗華は縫物をしていたようで、丞太郎の上着を胸にしていた。自分の上着の針仕事をしていた麗華に丞太郎の胸が熱くなった。
……風邪を引かせるわけには参らぬ。
彼女を抱き上げた彼は、上着を握ったままの麗華をそっとベッドへ運んだ。小柄な彼女を寝かせた彼は黒髪をそっとなで布団をかぶせた。
優しい寝息、小ぶりの鼻、初々しい額、若々しい眉、そして瞑った目は愛しかった。恐ろしい程白い肌の頬は薄桃で、唇は静かに閉じられていた。
……上着は、だめだ、離さないな。
なぜか丞太郎の黒のカーディガンを抱きしめている麗華をそのままに、彼は布団を掛けた。その穏やかな寝顔に顔を緩ませた彼は、再び麗華の顔を撫で、そして退室した。
「旦那様。麗華様の結納の件ですか」
「ああ。どうだ進み具合は」
平坂は書類を差し出した。
「結論として。吉日に神宮にて済ませたく思います。久世家は万理華様の方を優先するということでしたが、なかなか日程が定まらない様子です。つきましては、葉室家はこれ以上、待つ必要はないと判断し、こちらで済ませたく思います」
「そうだな。今のままでは麗華の立場がない。それにあの裁縫箱の件がある。今後は一切久世家の要望は無視だ」
「それでよろしいかと思います。これが段取りです」
今後の流れを示した平坂の書類を読んだ丞太郎は顔を上げた。
「結納の席で久世家は貴仁氏と広子夫人が来ると思うが、こちらはいかがする?あの鬼共を私は呼ぶつもりはないぞ」
「もちろんです」
葉室の則子、頼子を思いだした二人は首を振った。
「それに関してですか。小倉様にお願いしようと思います」
先日、麗華を誘ってくれた社交界の重鎮の名前に丞太郎も一考した。
「小倉夫婦か。確かに父の親戚であるので私も昔から知っているが、来てくれるのか」
「はい。小倉様がぜひ力になりたいと申されて」
「なぜそこまでなのだ」
「昔、麗華様のお爺様とお婆様に恩があると申されて、麗華様のためなら何でもしたいと向こうから手紙が来ました」
「どれ……」
その手紙には先代久世夫婦に世話になった事や、実際の麗華に会いそのような気持ちになったと書いてあった。
「……『亡き久世の奥方を思い出させる面影や、品よく教養がある麗華様に逢い、大変うれしく思いました。老齢ではございますが久世麗華様のために、できることがあれば何でも致したく思います。丞太郎氏は縁者でありますのでこの度の婚約や、それ以外についても小倉家は協力を惜しみません……』これは本当のようだな」
社交会に影響力がある小倉夫婦の心強い言葉を、丞太郎は素直に受け取った。
「私からもお願いの手紙を書くとしよう」
「それと、先ほどの鬼の件ですが」
「あ?ああ、そんなものがいたな。あの二匹がどうしたのだ」
口にするのも汚らわしいという顔の丞太郎に平坂は答えた。
「お二人を婦人会の役員に推薦をしたのですが、お断わりになられたようで」
「まあ、そうだろうな」
「しかし、そのために洗礼を受けているようです」
社交界の行事に一切呼ばれていない事実を平坂は口にした。
「引き受けても地獄、断っても地獄のようで。お二人の苦悩は当分続くと思われます」
「鬼だからそのままずっと地獄で良いのではないか。さて、それは無視して婚約を進めるぞ」
「その前に!これは私が入手した情報ですが」
元軍人の彼は老齢の目を光らせた。それは麗華の資産についてであった。
「麗華様からそう打ち明けられたと丞太郎様が仰っていたので、私の方で確認してみました」
「さすがに早いな」
執事の平坂は元軍人である。独身だった彼は丞太郎の父のかつての部下であり老齢で引退した後、葉室屋敷で執事をしていた。
隠密活動が得意だった彼は、丞太郎のお褒めの言葉に珍しく微笑んだ。
「久世家の資産担当の税理士は酒好きでして。飲み屋にいた私が何も知らないと思い何でも話してくれました」
その内容は確かに麗華には祖父が残した資産がある、というものだった。
「麗華様のお話の『二十歳になるまでは使えない』という意味は、現在は麗華様の祖父の弟になる人が、代わりに財産を管理しているからです」
「その人が麗華の資産を守っている、と、そういう意味か」
「はい、それについてですが」
平坂はその人物が丞太郎に会いたがっていると打ち明けた。
「私に」
「ええ。その方は久世冬仁様といいます。貴族社会を嫌い一般人として暮らしておいででしたが、病で体調を崩し、現在、入院していました」
「会ったのか」
「はい。ですが、もう永くなさそうだと自分で話していました。その前に丞太郎様に話したいことがあるそうです」
「わかった。明日でも参る」
この言葉の後、婚約のため小倉家に臨席願いの手紙を書いた丞太郎は、他の仕事も進めていた。そして夕食時、麗華が丞太郎を呼びに来た。
「丞様、先ほどは寝てしまってすみませんでした」
「良いのだ、気にするな」
「食事の前に。お庭にお越しになりませんか」
恥ずかしそうな麗華の誘いに丞太郎は一緒に夕刻の庭に出た。雨上がりの葉室の庭は空気が濃く、葉に残る雫がキラキラと輝いていた。
「ここです、ほら」
「ん、さなぎか。あ、羽化か」
「ええ。朝見た時は透明だったんです。でも始まっていますね。私も初めてみます」
庭の茂みの中。蛹だった蝶が羽化していた。二人は夢中で見つめていた。
「時間がかかるのですね」
「……まだ飛べないな。これからだろう」
二人が見つめる中、なったばかりの蝶はまだ静かに停まっていた。飛ぶには時間がかかると判断した二人は後にした。
「良かったです。無事に蝶になって」
「そうだな」
嬉しそうな麗華に丞太郎は背後に立った。
「羽化を楽しみにしていたのか」
「はい。一緒に見ることができたらいいなと思っていたので嬉しかったです」
「そうか」
蝶の姿に笑みを見せた二人は母屋に向かって庭の小道を歩き出した。
「麗華。私達の結納について日付など決めているが、君の要望はないか」
「……ありません」
……これは丞様にとって仕事の延長ですもの。
かりそめの婚約に自分への気遣いは無用と思う麗華は、彼に素直にそう話した。
「丞様のご都合でお勧めください」
「いや、何かあるだろう」
「ございません」
しかし彼はそっと肩をぶつけてきた。
「あるはずだ。思い出せ」
「そうですね」
……何か言った方がよさそうね。
いつも気遣いをしている彼を麗華はそっと見上げた。
「……結納の後で結構なので、麗華は祖父母のお墓参りをして、報告をしたいです」
「一緒に行こう」
「いいえ?お忙しいのに。麗華は一人で」
「いや。だめだ」
麗華の遠慮の声に丞太郎は前を見上げた。思わず先ほどの蝶を思い出した。
……一人で飛ばすことなどできぬ。
麗華には多くの人が彼女を支えていた。今はそれがわかる彼はその重圧を受け止めていた。
庭の草木を揺らす風は彼の背を押した。
「結納の前に行こう。私も挨拶がしたいのだ」
「丞様」
「君が大切にしていることは、私にとっても大切なのだ」
彼は説得するように麗華の肩にそっと手を添えた。
「ところで。今夜の夕食は何かな」
「清二さんが初めて作るドイツ料理と言っていました。私もわかりません」
「初めての料理か。それは楽しみだ」
「そうなのですか」
顔を上げた麗華に彼は白い歯を見せていた。
……あ、笑った。
厳しい顔が主であるが、時折見せる少年の笑顔の出没に麗華はドキとした。
「あいつは初めての料理は気合が入るせいか、上手に作るのだ、さあ、行こう」
「……はい」
そして片眉を上げた丞太郎に麗華も微笑んだ。そんな彼女に丞太郎も胸が熱くなった。
……この笑顔を守らねば。
夏の始まりの雨上がりの夕刻。葉室屋敷の庭には、二人の笑みが咲いていた。
完
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