十七 影を忍んで

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十七 影を忍んで

「ここか」 「……東病棟です。こちらです」 雨の帝都大学病院に仕事の合間を抜けてやって来た丞太郎は、平坂の案内で軍服姿で久世冬仁の病室に入った。彼は老齢で痩せていたが気はしっかりしていた。 「初めまして。麗華嬢と婚約予定の葉室丞太郎と申します」 「久世冬仁だ……おお?君は秘密警察か……懐かしい、私も一時期、所属しておったのだよ」 ベッドから身を起こした冬仁は、皺だらけの顔で懐かしそうに目を細めた。貴族であったがその重圧を嫌い、民間人として生きてきた冬仁氏は、それでも威厳と誇りを保っていた。 「君の執事に麗華の詳しい話は聞いた……その上で君に話したい事がある」 「はい」 ベッドの冬仁は語り出した。時折、苦し気であったが、彼は必死に説明した。 それは自分が亡くなると、彼の資産は麗華の父である貴仁が相続するという事実だった。 「私は妻を亡くし一人なのでね。縁者は貴仁だけなのだ。彼は財産、もしくは麗華の後見人の資格も相続すると言い出すだろう」 「麗華の後見人の資格も、そうですか……」 麗華の資産を狙う久世家に、丞太郎は深いため息に足を組んだ。冬仁もうなづいた。 「こうなる前に麗華の事だけでも対策をすればよかったのだが、私も病がこんなに早く進むとは思わなくてね」 「いいえ、どうぞ大事になさってください」 「気休めは結構。葉室君。私はもう長くないのだよ」 冬仁の覚悟に丞太郎は深呼吸をした。冬仁は震える手で枕の下から手紙を取り出し、丞太郎に渡した。そこにはひどく乱れた文字で書面が記されていた。 「読みます。『北海道網走……佐藤七之助を後見人に指名する』これはどういう意味ですか」 「私の知り合いでね……日本国中を旅している男だよ」 冬仁は一旦、ベッドに横になり、丞太郎に説いた。 「いいかね、まず私が死ぬ。すると貴仁が麗華の後見人として名乗り出るはずだ……しかし今、麗華の後見人はその男なのだよ」 「『佐藤七之助』という人物ですか?しかし、失礼ながらこの書面では法律の効力がないのでは」 「それは一応、弁護士立ち合いの元、書いたものだ……それにだね。葉室君。これは佐藤を後見人にするのが目的ではない、貴仁を妨害するものだよ」 丞太郎は顎に手を当て考えた。 「確かに。これが裁判になった場合、貴仁氏は佐藤七之助なる人物を日本中から探しだし、この書類の確認をする必要がありますね」 「そうだ。しかし、佐藤の捜索は難航する……」 「そんなことをしている間に麗華が二十歳になる、と。では、これは時間稼ぎなのですね」 丞太郎の答えに冬仁は悪戯に笑った。 「麗華が君と婚約するとわかっていたら。君に託したが、申し訳ない」 「いいえ……それよりも。失礼を承知で申し上げますが、麗華に使用権を与える方法は考えなかったのですか」 「……私は亡くなった兄に『麗華が二十歳になるまで守るように』と言われている。君にはわからないかもしれないが、弟としてそれくらいは守りたいのだよ」 「これは、大変失礼しました」 立ち上り頭を下げた丞太郎に、冬仁は止せと手を振り着席させた。 「……副司令官に頭を下げさせるわけにはいかないよ」 「そんなことはありません。それよりも麗華に逢われますか?」 「いや、いい。影の身で終わらせてほしい……ああ、これで安心したよ」 やがて病室に看護婦が入り治療の時間になると告げた。後見人についての書面は弁護士も同じものを持っていると話す冬仁は、この書類を丞太郎に持たせた。 「お行きなさい。麗華を頼んだよ」 「はい!お心遣い誠に感謝します!麗華嬢を確かにお預かりします」 軍の挨拶をした彼は、目を細めていた冬仁に頭をさげて部屋を出た。 部屋の外で待機していた平坂に書類を見せた丞太郎は、車に乗り込んだ。 「丞様。麗華様にはどう伝えますか」 運転手の平坂に丞太郎は腕を組んで答えた。 「冬仁氏の意思なので今は何も言うまい。二十歳になったらこの書類を見せるつもりだ。しかし、平坂よ。この書類には麗華の資産の預け先は帝都銀行日本橋店とあるのだ」 「ほう。葉室家と一緒ですな」 後部座席の丞太郎は支店長にこの件を伝え、久世麗華の口座は麗華以外の者には決して下ろさせぬように指示せよと話した。信号待ちの平坂は今の話を飲んだ。 「しかし。そうなると麗華様の偽物が現れる可能性もありますな」 「それか?そうだな……」 面倒だと彼は髪をかき上げた。 「では。銀行にある麗華の資産は、葉室家の貸金庫に入れておくか。こうすれば私の許可なく麗華の金を下ろすことはできない」 「葉室家の金庫に麗華様の資産をですか?婚約者とはいえ他人になりますが支店長が許すかどうか」 「許さずも何も、できなければ葉室家の資産をすべて下ろすまでだ」 「そんなことしたら潰れますね。明日、支店長に頼みに行ってきます」 動き出した車は銀座の町を走っていた。麗華のために動く彼らの上には青空が広がっていた。 「……ふう」 「麗華様。一緒にお菓子でも作りませんか」 「お菓子……そうね」 退屈そうな麗華に杉田夫妻はお菓子作りに誘った。断る理由もない麗華はエプロンを付けて作業を始めた。 「あの、二人って仲良しですね」 「え!俺達ですか」 「そんなことないですよ」 恥ずかしそうな二人に麗華は真顔でなれそめを尋ねた。 「ええとですね。俺はこれでも元軍人だったんですが、爆発で片耳が聞こえなくてそれで葉室様の屋敷でコックにしてもらったんす」 「清二さんも軍人さんだったの?」 「ほら!あんたは全くそんな気配がないから!」 「うるせ!」 肘を突く二人を麗華は見つめた。 ……仲良しね。 想えば久世の祖父母は仲良くしていた。しかし久世の実両親はどこかギスギスしていたのを麗華は思い出していた。 「いいな……」 「なにを言うのですか?麗華様だって旦那様と仲良しですよ」 「そうっすよ。女嫌いな旦那様に珍しい事っすよ」 「そうなの?」 驚く麗華に夫妻は語り出した。 「今までもお立場からお見合いの話がたっくさん合ったんですが。今までぜーんぶお断わりですもの」 「そっすよ。軍にいた時も友達の妹さんをもらってくれって人気があったんですけど。全部断ってましたもん」 「どうして断っていたのかしらね」 「それは麗華様を。むぐぐ?」 「いいからあんたは黙って」 夫の口をふさいだテイは、どこか寂し気に卵を溶く麗華に向かった。 「麗華様、とくかく旦那様は人気者なのですよ」 「そうでしょうね。お優しいし、お強いし……」 つい本音をつぶやく麗華を前に杉田夫婦は手を止めた。 「何でもご存じですし……紅茶を淹れるのもお上手で」 「麗華様……麗華様は旦那様をどうお思いですか」 「好き……」 テイの何気ない誘導に答えた麗華に、夫婦はえ!と動きを止めた。 「というよりも。人として尊敬しております」 「なんだ……」 「いいのよ!今はこれで」 がっかりの清二に対し、テイは夫の背を叩いた。 「そこから始めましょうね!はいはい。で、清二、次はどうするの」 楽しいおしゃべりをしながら彼らはクッキーを完成させた。 この夜、丞太郎は仕事で遅いため麗華は先に就寝した。 「ただいま……変わりは無かったか」 「ございません。麗華様はもうお休みです」 「そうか」 風呂上がりの彼は、寝ている麗華を今夜も確認した。 ……ん。手紙か。 そこには麗華の文字があった。 ……『おかえりなさいませ。これは焼いたクッキーです』か。 夜の挨拶に来ると知っていた婚約者の手紙にはハンカチに包まれたクッキーがあった。雨が響く夜の部屋は甘い匂いがした。 ……麗華。おやすみ。どうか、良い夢を。 美しい文字は彼女の言葉のように見えた彼は、麗華の黒髪にそっと口づけをして夜の愛を囁き、部屋を出た。 翌朝。雨上がりの葉室屋敷では廊下を歩く音がした。 「おはようございます。麗華様、お花ですか」 「はい。早く目が覚めてしまって」 すでに庭の花を切って飾っている麗華は平坂に尋ねた。 「あの。平坂さん、丞様のご様子はいかがですか」 「まだ寝ています……が、よくお帰りなのをご存じですな」 「あ?は、はい」 ベッドの手紙が消えていたので知っていた麗華は、恥ずかしそうに花瓶を綺麗に置いた。 「なんとなくそんな気がして。そうですか、では、今日はご一緒できるかしら……」 嬉しそうな麗華を見た平坂は老齢の目を細めた。 「ええ、もちろんです。そうだ!起こしましょうか」 「いいえ?!ダメです、もっと寝かせてあげたいです」 「なにがダメなのだ」 「え?丞様」 背後にいた寝ぐせの彼はあくびをした。 「ふわ!良い天気だな……」 「ええ。でももう少し休んでも良いのでは」 「いい。後で昼寝でもするから。さあ。麗華。一緒に朝の紅茶にしよう」 「今朝は私が淹れますね」 「いや、私だ」 「おやおや?私は朝食の様子を見てきます。お二人でゆっくりお待ちください……」 雨上がりの朝は、静かで健やかだった。庭が見えるテラスまでの廊下を歩く二人は、朝日の中、心輝かせていた。 十七話「影を忍んで」完
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