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十八 資金のゆくえ
「あなた。万理華のお式のことですが、ご招待する方達の人数はこれくらいになりました」
「……どれどれ」
万理華の嫁ぎ先の夫人の意向により式は派手になることになっていた。費用を折半する久世家はその参加人数に驚いていた。
「そんなに招待するのか。これでは予算が心許ないな」
「でも、こちらには麗華のお金がありますでしょう。あれを使えば」
「広子。それは何度もお前に説明をしただろう」
妻のしつこい話に貴仁は思わず言葉を荒くした。浪費家の妻はそれでも彼に向かった。
「それならあなた。麗華の遺産は葉室様のものなるのですか?」
「君に言われずとも、私だってそれくらい考えているさ」
父を葉山で追い出すように隠居させた貴仁は財産を引き継いでいた。しかし。父は秘密の財産を麗華に残しており、彼はそれを使えずにいた。
「あれは麗華が二十歳になるまで使えないものなのだ。それは葉室君も同じはずだよ」
「ですが後一年切っていますよ。それに葉室様と結婚すれば、夫の葉室様に権利がいくのではないでしょうか」
「そうはさせない……決して」
久世の応接間には亡き両親の肖像画が飾られていた。貴仁はそっと絵に近づいた。
「父上……あなたが麗華に託した遺産は、息子である私が受け取るべきものです。久世家の後継者は私です、麗華ではなく」
絵は何も言わなかったが、貴仁は部屋を後にし、財産管理をしている弁護士を呼んだ。
後日。帝都銀行員ら二名が久世家にやってきた。
「久世様。御嬢様お二人の婚姻とのことで、おめでとうございます」
「いやいや。それはそうなのだが、二人となると資金が寂しくてね」
座ってくれ、と貴仁は彼らをもてなし、話を始めた、それは融資の話だった。
「娘達に恥をかかせられないのでね。融資をお願いしたいのだ」
「かしこまりました。ではご提示あった四谷の土地の話をさせていただきます」
帝都銀行としては金を貸すにはそれなりの担保が必要になる。現在の久世家の土地はすでに担保に入れて借金中であり、貴仁は今回、四谷の土地を担保にしようとしていた。
「この融資について本店で協議してきましたが、やはりこの土地だけではご希望の金額をお貸しできない状況です」
「そうですか」
「ですが。お話のあった久世麗華さんの資産を担保にすれば問題ない、ということになりました」
「おお。良かったです」
貴仁は喜びで思わず笑みをこぼした。
「麗華のために麗華が使う金ですから、よかったですこれで」
「はい。麗華さんは確か二十歳までご自分で使えない契約だとか。しかし、これを担保にして我が銀行の融資ならお使いいただけます」
安堵している貴仁に彼らも笑みを浮かべた。
「そうですね。使いたいのが今なのですものね」
「結婚資金とはおめでたいですし」
「ありがたい。娘も喜びますよ」
麗華の資産を担保にした貴仁は安堵の笑みを浮かべた。麗華の金を下ろさず使うという貴仁は、希望金額にほっと胸をなでおろしていた。
「では、この書類に記入をお願いします。麗華様の本人確認になります」
「わかりました。ですが、今いないので、後日書かせます」
何げなく書類を受け取った貴仁に銀行員も何気なく応じた。
「できれば……今がいいのですが」
「早ければ融資も早くにできますし」
笑みの中に緊張感が走る銀行員達に貴仁は仕方なく動いた。
「少々お待ちください……もしかして、いるかもしれませんので」
貴仁は冷静を努めて退室し、派手な着物の娘を連れてきた。
「すみません。娘は奥の部屋におりました」
「これはどうも。ご結婚おめでとうございます」
「本当におめでとうございます」
「ありがとうございます!あの、私はどこに書けばよろしいのですか」
貴仁の隣に座った彼女は言われた通り、欄に署名をし、終えた。
「他にですね。麗華さん。失礼ですが、簡単に確認させてください。まず出身地はどちらですか」
「出身地って何ですか」
「生まれたところです」
銀行員の尋ねに娘は、不思議そうに答えた。
「この家で……産婆さんが来たと聞いておりますが」
どこか的外れな答えであったが、銀行員は続けた。
「そうですか……では誕生日と、この家の住所をお願いします」
「はい。ええと」
たどたどしいが、娘は全部答えた。
「最後の質問です。通っていた学校はどちらになりますか」
「学校は、葉山です。そこです」
この返事に銀行員は頷いた。
「わかりました。確かに久世麗華さんとお見受けしました」
この言葉に貴仁と娘はほっと胸をなで下ろした。
「では。最後にここに判子を」
「判子?ありません。ねえ、お父様」
「……すみません。判子は後見人が持っておりまして」
「そうですか……」
麗華の資産は高額であった。多額の金の出し入れがある帝都銀行にとって、長年預けっぱなしの麗華の資産は大きな力になっていた。
麗華が二十歳になる後一年程は下ろさないという事は、帝都銀行が使えるという意味であり大変重要な事であった。さらに今回、帝都銀行で融資を受けるという事は、その後も麗華の金は帝都に預けるという意味になる。
彼らは上司からなんとしてでも融資を通すように言われていた。
「……では拇印でお願いします」
「拇印」
「指だよ。汚れてしまうがここに押すんだ」
融資を優先させたい銀行員たちは判子の代わりに娘の拇印で許すことにした。こうして融資の商談は終了し、数日後。久世家は大金を手にした。
秘密警察の本部で葉室丞太郎と高園真木也は司令官と話をしていた。
「分析結果が出た。あの犯行声明は前回とは違う人物の筆跡ということだった」
「では敷島以外の人物が書いた、ということですね」
「そうだ。だがまだ敷島が死んだとは限らないだろう」
「そうでしょうね」
真木也は頷いた。
「そもそも前回の犯行声明は敷島が書いた、という保証はありませんからね」
「左様。しかし、敷島の犯行声明を模倣としても使用したのだ。それは同じような危険分子と言わざるを得ないな」
司令官の話に真木也は相槌を打った。
「……司令官、今回の犯人は『敷島ではない人物』としましょう。手紙の消印が日本橋でしたので『日本橋』ではどうですか」
「そうだな。我々は引き続き『暁』と『敷島』と『日本橋』を注視しよう、そしてだな」
司令官は麗華が被害にあった池之端事件の話を二人にした。
「当時。敷島が狙った政治家は引退し、今はその息子が政治活動をしているが、今後も警護が重要となる、な」
「吉原通いの警護、か」
愛人は去ったが犬飼の女遊びは続いていた。丞太郎は嫌悪で顔をゆがめた。
「……丞太郎。我々は保護するのが役目だ。対象者の行動は我々は制限はできない」
「わかっているさ、しかし、こっちが命を懸けて警備しているのに。女遊びとは……」
「二人とも。それくらいにしろ!他には、予算についてだ」
第一保護対象の政治家、犬飼に司令官も苛立つ中、打ち合わせは終わった。丞太郎と真木也は副司令官室へ戻って来た。
「くそ!あんな奴の警護とは」
「丞太郎。それを言うな、我々は国家のために動いているのだ。あんな政治家であろうとも守られねばならない」
「わかっている。しかし」
苛立つ丞太郎に真木也は、まあまあと彼を落ち着かせた。
「ところで、お姫様とずいぶん親しくなったそうだが」
「ど、どこでそんな話を」
「何年一緒にいると思っているのだ」
急に頬を染めた丞太郎を真木也はくすくす笑った。
「最初はどうしてよいか困っていたくせに。最近は何やら楽し気だし」
「……まあ、そうだな」
丞太郎はしみじみ話した。
「麗華は面白いところが合ってな。先日は野菜ジュースをつくってくれたんだが、最初から『これは不味いですよ』というのだ」
「不味いものを進めるのか」
「ああ。だが体には良いからな。そして自分で飲んでやはり不味いというのだが。俺も飲んでみた」
「どうだった」
「不味かった」
「はははは」
丞太郎も笑みを見せた。
「彼女はまっすぐなんだ……いつも一緒にいて気が安らぐんだ」
「へえ」
丞太郎の笑みを真木也はため息をついた。
「いいな、お前は」
「なにを言う、お前も妹君を嫁にもらうんだろう」
「……両家の取り決めだ。まあ、俺の話は良いよ」
「真木也……」
どこか愁いのある真木也に丞太郎は思わず見つめた時。部屋のドアがノックされた。
「失礼します!警察から連絡はありました。帝都大学で事件がありました。司令官が現場に急行せよとご命令です」
「真木也も来い」
「わかった。山本。俺の午後の警護は誰かと交換してくれ」
「はい!」
秘密警察の廊下は彼らのブーツの音が響いていた。
「クシュン」
「麗華様。そろそろ屋敷に戻られては」
「いいえ、大丈夫です」
庭で花の手入れをしていた麗華は庭師にそう話すと作業を続けた。
「あの。この庭は丞太郎様のお母さまがお好きだった庭と聞いていますが」
「そうですよ」
「どのような奥様だったのですか」
庭師は遠い空を見ながら教えてくれた。
「お優しくて、貴族でありながらご自分で何でもやろうとなさって。よく旦那様に叱られていましたな」
「まあ」
「……ですが、病で亡くなられた時、丞太郎様もまだ幼く。可哀想でしたね」
「そうだったのですか」
庭師は植木の枝をバッサリ切った。
「その後、次の奥さんが来ましたが、丞太郎様とは折り合いが悪く、いつもお一人ですごされていましたね」
「一人……」
麗華は庭師が切った枝をホウキで集めていた。
立派なお屋敷。裕福そうな暮らしの中、丞太郎が孤独に育ったという話に麗華は胸が痛んだ。
「ですが、坊ちゃまは学友に恵まれておりましたね。皇太子ももちろんですが、お友達が多くいつも武道に励んでおられましたぞ」
「そうでしたね。確か柔道とか」
「はい。現役の時は、『目が合っただけで投げられる』と恐れられていたのですぞ」
「すごいですね」
「いやいや。あの当時は本当にそんな殺気を持っていました、今は違いますがね」
「ええ。お優しくて素敵な方ですもの、あ!私。時間でした」
麗華は平坂と約束していたことを思い出し、屋敷に入った。そこには平坂が客と話をしていた。
「麗華様。こちらが帝都銀行の方です」
「初めまして。久世麗華です」
「……私は帝国銀行の者です。事情は今伺いました」
この日は麗華の資産について、帝都銀行の日本橋支店の銀行員が来る日だった。丞太郎が一度、資産を確認しておいた方が良いと言われていた麗華は、丞太郎が呼び寄せた彼らと面会をした。
「それがですね。麗華様」
「平坂様。その前に麗華さんの本人確認をさせてください」
どこか焦っている銀行員二名は麗華に向かった。
「失礼ですが。出身地はどちらですか」
「東京の麻布の実家です。九歳の時から神奈川県葉山で育ちましたが」
「ご両親のお名前と、本籍をお答えできますか」
「はい」
麗華はすらすら答えた。なぜか銀行員は額の汗を拭い出した。
「葉山時代の担任の先生ですか?石原先生です。国語の担当で」
「そ、そうですか」
……どうしてそんなにしつこく聞いてくるのかしら。
麗華だと理解したが困惑した様子の銀行員らに平坂が話し出した。
「これでもうよろしいですかな。今の話の通り、こちらが本物の麗華様です」
「平坂さん。どういうことか説明してください」
静なる麗華の圧に、銀行員達は息を呑んだ。
「そ、その。我々も困惑しておるのですが」
「麗華さん。実は先日。久世貴仁氏から申し出がありまして。麗華さん立ち合いの上、麗華さんの資産を元に融資の契約をしたばかりなのです」
青ざめる銀行員は麗華に説明をした。平坂はそんなはずはないと怒った。
「おかしいですよ。本人はこうして葉室家にいるのですから。その久世家にいた娘は麗華さんではありません」
「で、ですが。我々としましては」
「貴仁氏がそばにいたので、麗華さんと判断しました」
「……それは、おそらく妹の万理華ですね」
麗華の冷たいため息に、銀行員は凍り付いた。
「私は詳しい手続きを知りませんが、こういう時、判子などは確認されないのですか」
「後見人の方が持っているという事で。拇印で済ませた形です」
「判子はこれだと思います」
麗華はすっと机に乗せた。それは白い小さな判子で半分の形になっていた。
「祖母が私に持たせてくれていました。この判子の片方を後見人が持っていると思います」
「恐れ入ります。確認させてください」
慌てて銀行員はこれを押し、銀行の控えの印形と照らし合わせていた。その間、ふと平坂は麗華に尋ねた。
「麗華様はそれをずっと持っていたのですか」
「実は」
麗華は裁縫箱に入っていたと話した。
「あの入れ物は祖母から頂いたものでしたが、二重底になっていたんですね。最近、知ったのです」
「あの騒動のせいで」
久世家の意地悪のせいで判子を発見した麗華は、慌てている銀行員を見つめた。
「銀行の方。それでもまだ私をお疑いならば、こちらをご覧ください」
「え」
麗華は火傷痕の腕を見せた。
「……醜い痕で申し訳ございませんが、私はこの怪我の静養で東京を離れ、葉山にいたのです。これが私が私だという証拠になります」
「た、大変失礼を致しました」
彼らは改めて謝罪をした。しかし平坂は静かに続けた。
「これは大変な失態ですぞ。麗華様のお金を勝手に第三者に使わせてしまうなど。天下の帝都銀行にあってはならないことです」
「本当に申し訳ございません」
「どうかお時間を下さい、本店に帰りさっそく再確認をします」
「麗華様、麗華様もどうぞご意見を」
麗華の前の銀行員たちは必死に頭を下げていた。これはすべて父である貴仁が企てた事に麗華の胸が痛んだ。
「お二方。どうぞ、頭を上げて下さい」
「麗華様?」
平坂が驚く中、麗華は静かに説いた。
「とにかく。そのお金は私が二十歳までは使えないようにしてください。私の願いはそれだけです」
温情の目で見つめる麗華に二人は、目をつむった。
「……麗華さん」
「わかりました。とにかく出直します」
銀行員はそう言うと葉室家を後にした。その夕刻。帰宅した丞太郎は平坂からこの騒動を聞いた。
「車を出せ!いや、私が運転する」
「誰か!旦那様を止めろ」
「丞様!おやめください」
「麗華」
玄関で彼女は体を広げて彼を止めた。
「悪いのは父です。銀行の人ではありません」
「だったら君の父親の所に行く!娘の金を勝手に使うなど。許されない」
「でも。父なんです!私の……」
「麗華……」
彼女はさめざめと泣きだした。
「本当に、ごめんなさい!私の、私の父のせいで」
「ああ、麗華……君は」
丞太郎は涙で崩れる麗華に力が抜けた。
「うう。ごめんなさい。こんな……娘で」
「もう言うな!私が、私が悪かった」
……自分を責めているのか。くそ。
実家の父の不祥事を自分のせいと思っている麗華に丞太郎は唇を噛んだ。
嫁入り道具もなく、唯一欲した裁縫道具を捨てるという非道極まりない行為。その上、娘の遺産を卑怯な手で使おうとする父親に対し、麗華は丞太郎に申し訳ないと泣いていた。
「私が、私が父に話してきます。これ以上、丞様に迷惑を掛けられません」
「そうではない、そうではないのだよ、麗華」
丞太郎は涙の麗華を見つめ抱きしめた。
「どうか自分を責めないでくれ。これから二人で良い方法を考えよう、な?」
「……はい。本当にごめんなさい。こんな私で」
「麗華。私が悪かった。もう何も言うな」
目を真っ赤にした彼女を丞太郎は泣き止むまで抱きしめていた。
そんな二人はこの夜、テラスで夕食となった。
「テイ。このスープはうまいな」
「別に、いつもと同じですが」
「そうか?ん。今日の肉は柔らかいな」
「それは魚ですけど」
「え」
テイの言葉に丞太郎は驚きの顔を見せた。それを麗華は笑った。
「ふ。ふふふ」
「美味いぞ。麗華も食べろ」
「そうですよ。でないと旦那様に全部食べられてしまいますよ」
泣きべそをかいていた麗華もやがてナイフとフォークを持った。
「いただきます……うん。そうね。まるでお肉みたいです」
「そうだろう?俺が間違えるのも仕方がない事だ」
「はいはい。お二人でごゆっくり」
優しい視線に包まれる中、麗華は心を整え彼と食事をした。
「ところで麗華」
「はい」
「食後の紅茶は私の番だからな。庭で一緒に星でも眺めよう」
どこか恥ずかしそうに話す丞太郎に麗華は胸を熱くした。
……私を励ますために。この方は……
優しいという言葉では足りないほどの丞太郎の心に麗華はまた涙した。
「ど、どうした?」
「……だ。大丈夫です」
悲しみ色から嬉しい色に変化した涙を麗華は拭った。
……お優しい御方。私も、しっかりしなくちゃ。
「お紅茶、楽しみです」
麗華の返事は丞太郎を安堵させた。
葉室家の静かな庭はそんな二人に夏の星を美しく見せていた。
完
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