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二 雨音の中で
「麗華様。私は執事の平坂と申します。もうすぐ到着しますので」
「はい」
車は久世家のある麻布から桜田通りを北へ進んだ。そして内堀通りを左へ曲がり青山通も左へ進んだ。急に道が広くなり大きな門が見えた。車が近づくと門が開き、そのまま緑の中の屋敷の庭を進んだ。
……ずいぶん広いお屋敷ね。公園の中のようだわ。
そして車が停止した。平坂がドアを開き、麗華は車から細い足を下ろした。
「麗華様。こちらでございます」
「はい」
屋敷の中に入ると、玄関には黒服の使用人。そして廊下には女中が立っており、麗華に頭を下げた。麗華もまたお辞儀をしながら応接間へと進んだ。
「こちらでございます。丞太郎様がお越しになるのでお待ちください」
「はい」
そして紅茶が出てきたが、彼はなかなか来なかった。これに平坂が汗を拭きながら説明した。
「申し訳ございません。急な仕事が入ってしまったようで、少しお待ちいただけませんか」
「承知しました」
麗華は応接室で待っていた。柱時計の音が響く部屋は退屈であった。
ここに女中が話し掛けてきた。
「あの、久世様」
「はい」
「私は側係りの杉田テイと申します。よろしければお待ちの間、お庭を案内したく思いますが」
「はい、お願いします」
実は来た時から気になっていた麗華は、案内係りの女中と一緒に庭の花を見ていた。年齢が近いテイは笑顔で案内してくれた。
「こちらは牡丹になります」
「綺麗ですね……では、こちらはシャクヤクですね」
「お詳しいのですね」
「花は好きです。それにこれは見た事が無い色ですね」
広い庭には西洋式の庭園が広がっていた。久世家の庭は日本庭園であったので麗華の好奇心は沸騰した。
……葉山の別荘を思い出すわ。ああ、素敵な香り。
花に囲まれ微笑み、どこかわくわくしている麗華にテイは自慢気味に話した。
「左様でございます。こちらは葉室家の亡き奥様のお庭です」
「素晴らしいです。こちらは葉が綺麗です」
こうして庭を散策した麗華は、最後に薔薇の園までやって来た。この時、雨が降って来た。
「申し訳ございません。どうぞ、あの温室まで」
「はい」
小走りに走った麗華は、少し雨で濡れてしまった。ともに濡れたテイはガラスの温室で申し訳ないと頭を下げた。
「ああ、濡れてしまいましたね」
「良いのです。楽しかったので」
「そう言うわけにはまいりません。私、拭くものと傘を取ってきます!」
テイはそう言い走って行ってしまった。残された麗華は温室の中の花を見ていた。
夏の雨は庭の緑に落ち、さあと音を立てているのをガラス越しに見ていた。
……もしかして。これは断るということかしら。
草と花が奏でる雨音の中、相手は破談にするため姿を現さないのではないかと麗華は思い始めていた。
そんな麗華は白いハンカチで体を拭いていた。
「何をしている」
「え」
麗華が振り向くと、軍服姿の男性がずぶぬれで温室に入って来た。
「……平坂にここで待つように言われたのか」
「いいえ。待つ間、お庭を案内してくださって、それで雨に」
「他に供の者は」
「今、杉田さんが傘を取りに」
すると彼は不機嫌そうに帽子を正した。その低い声と見覚えのある顔を麗華はしみじみと見た。
「あの……あなた様は先日、久世の屋敷に」
「ああ。あの時は失礼した。どうしても君を確認したくてね」
麗華はあの時、部屋に押し入ってきた彼に、麗華は思わず後ずさりした。
……に、逃げないと!
「私、失礼します」
「おい?」
雨の中、麗華は温室を飛び出し必死に屋敷まで走った。しかし、すぐに彼に捕まった。
「待て。待てと申すに」
「誰か来て! 助けて下さい」
「おいおい」
大雨の中、ずぶぬれの麗華を彼は背後から抱きしめた。
「落ち着け」
「狼藉者です! 離して」
「狼藉者? って。あの」
「麗華様――!」
ここでテイは傘で男の頭を打った。
「おい、テイ。私だ」
「え? 旦那様! すみません」
「旦那様って……あの」
雨の中。麗華が見上げると彼はムスとした顔で見下ろしていた。
……この方が葉室様なの?
「あの、その、私は」
驚く彼女に彼は雨から庇うように麗華を胸に入れた。
「もう良い、それよりも平坂! 平坂はどこだ」
「はい、あ! 旦那様、お帰りでしたか」
「お帰りでしたかではない!全く」
麗華を抱きかかえるように玄関まで連れてきた彼はそう平坂に言い放ち部屋を出て行った。
「麗華様、この度はまことに申し訳ございません」
「いいえ。それよりも私、葉室様に失礼をしてしまって」
「それは良いのです、それよりも」
ずぶぬれになった麗華に平坂は風呂を進めた。しかし麗華は遠慮した。
「拭くものを貸していただければ結構です」
「しかし」
「平気ですよ。本当に」
そう言う麗華に平坂とテイは必死に頭を下げた。これに参った麗華は着替えだけは了承した。
テイが用意したドレスを麗華は手にした。
……古いデザインのドレス。でも品があって素敵。
そんな麗華が着替えを済ませると、平坂は温かい部屋に案内した。夏であるが部屋の暖炉には火が入っていた。
「どうぞ。丞太郎様もおいでです」
そこには背を向けた彼がいた。軍服ではなく白いシャツに黒いズボンを穿いていた。その髪は麗華と同じでまだ少し濡れていた。
……謝らないと!
麗華は頭を下げた。
「先ほどは失礼しました」
「……まずは座ってくれ。平坂、用意を」
「はい」
二人きりの部屋には、平坂が温かい食事を運んできた。麗華は長椅子に座り、彼はテーブルをはさみ座った。
「雨で冷えたであろう」
そういうと彼はタオルをポンと麗華に投げた。麗華は思わず受け取った。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です。それよりもあの」
「まだ濡れているぞ。髪を拭いてそれを飲め、話はそれからだ」
丞太郎の話に麗華は髪を拭き温かいスープを飲んだ。彼はそれを見届けると頭をかきながら麗華に向かった。
……帽子を取ると。こんな顔立ちなのね。
軍服の時よりもどこか優しい雰囲気がした彼を彼女はじっと見ていた。
「何から話そうか」
「あの、あなた様は葉室様なのですね」
「そこからか。そうだ、私が当主の葉室丞太郎だ」
やっと見合い相手に会った麗華は改めて立ち上った。
「私、久世家から参りました長女の麗華と申します」
丁寧にお辞儀をする麗華に、彼はやめてくれと手で制した。
「堅苦しいのもういい。座ってくれ」
「はい」
座った麗華に彼は説明をした。麗華を見ずに彼はどこか視線をはぐらかせていた。
「久世家に無断で入ったのは謝る。しかし私は君を確認したかったからだ」
「私をですか」
「ああ、君はなかなか表にでないようなのでね」
彼はそう言って自分を落ち着かせるかのように紅茶を飲んだ。先程の軍人スタイルとの時の威圧的な雰囲気と全く違う今の彼に麗華は尋ねた。
「あの、先程のお姿は」
「あれも私の仕事だ。本日は見合いであったのに急用が入ってしまって」
話の間。まったく麗華を見ようとせず視線を外す彼に麗華の心はきゅっとなった。
……私を見てがっかりされているのね。そうよね。こんな私じゃ。
「そうでしたか……クション」
「やはり寒いのではないか、まったく」
そう言って彼は立ちあがりカーディガンを脱ぎ、麗華の背後に回り肩に掛けてくれた。
……この方の匂いかしら? 優しい香りがする。でも。
この温情を勘違いしてはいけないと麗華は思わず目をつむった。
「すまない。君を雨の中で待たせてしまって」
「いいえ。勝手に雨の中にいただけですので。あの、その縁談の件なのですが」
「ああ」
そのまま雨の窓辺に進んだ彼に麗華はふうと息を一息吐いた。
「実は。今回の縁談は大変うれしく思うのですが、その、久世家としましては」
「私のような男では不服と申すのか」
少し彼のプライドが見えた声に麗華は首を横に振った。
「いいえ。それは違います」
「では何が不服なのだ」
どこか高圧的な言葉に麗華は俯いた。
「あなた様に不服があるのでありません。私があなた様にふさわしくないのです」
「理由は」
「これを、ご覧ください」
麗華は白いドレスの左腕の袖をまくった。火傷痕が広がっていた。
「このように、私には火傷のひどい痕があります」
「……それが?」
「え」
真顔で首をかしげている彼に麗華は続けた。
「あの、醜いですよね」
「痕があるのは分かったが、それがどうした」
「どうしたと言われても。その。こんな体では葉室様に恥をかかせてしまいますもの」
「……言いたいことはそれだけか」
「え」
驚く麗華に彼は面倒そうに髪をかき上げた。
「まあ、分かった。それを飲んだら送らせてもらう」
「はあ……」
彼はそういうと部屋を出ていった。いつの間にか雨は上がっていた。
……最後まで私をご覧にならなかったし。これは破談よね。
温かい上着は雨の中、待たせてしまったという彼の親切であり、優しさで愛でも何でもない行為と麗華は受け止めた。
紅茶を飲んだ麗華は着替えたままの古いドレスで平坂が運転する車にて帰宅した。
「一体どういうことですか。そんなドレスまで借りるなんて」
「申し訳ございません」
「あなたは断りに行ったのではないですか、それなのに恩を受けるなんて」
苛立つ母に麗華は必死に謝った。さらに父にも叱られた彼女は、部屋に戻り着替えようとした。
「お嬢様。雨に濡れたのですか」
「ええ。婆や。それよりもこのドレスを借りてしまったの。ちゃんとお返ししないといけないのよ。ん。婆や?どうしたの」
「いえ。お似合いだと思って」
「素敵なドレスですものね。でも、さあ、着替えないと」
こうして葉室に会った麗華は、怒りが沸騰する広子の鞭を受けた。さらに雨に打たれたせいもあり夜、発熱になった。
しかし、これは罰だと両親に言われた麗華は一人部屋にて寝込んでいた。
手を出すなと言われている使用人たちは密かに看病してくれた。そのおかげで三日後の麗華は病み上がりで家事を始めた。
「麗華。ちょっとこちらに荷物を出すの手伝って欲しいの」
「はい」
むち打ちの傷の保護で手袋をしている麗華は母に続き地下室に向かった。
「奥に置きなさい」
「はい。あ」
しかし、母に部屋に閉じ込められてしまった。
「お母様? 何をなさるの」
「しばらくそこにいなさい。いいですね」
母の足音を遠くにしながら麗華は冷たい床に腰かけてうずくまっていた。
……寒いわ、ぞくぞくする。
麗華はひんやりとした空気の中、閉じ込められた麗華は身を震わせそして床で休んでいた。
そんな久世家の応接間には客が来ていた。
「初めまして、私は葉室と申します。ご両親に会う約束をしているのですが」
「え? はい。あの私は万理華と申します」
……体が大きくて、なんて男らしい方。
品のある彼に万理華はドキドキし、じっと見つめた。
「もしかして。私へのお祝いにお越しになったのですか」
「違います……ご両親はおいでですか」
「は、はい、すみません。どうぞこちらへ」
万理華の案内で彼は応接間にやってきた。
「ご足労痛み入ります。麗華の件ですね」
「はい。そうです」
上等なスーツを着こなした丞太郎の前で久世の父は麗華の話を始めた。貴仁と広子は作り笑顔で説明をした。
「せっかくの申しでですが、残念ながらあの娘は幼い頃に事故に遭いましてね。お恥ずかしい話、表に出せるような娘ではないのですよ」
「本人に見せてもらいましたが、自分はその点は問題としておりません」
「え」
貴仁の言葉に彼は淡々と続けた。
「我が葉室家の妻ならばむしろ好都合。屋敷や家族を守るのを理想としておりますので」
「……ですが、あなた様にお渡しできるような娘ではないのです」
「葉室様、麗華は我が屋敷でも手を焼いて困っている娘です。母として恥ずかしいのですが結婚などとても無理かと」
ここでは彼はすっと書類を出した。
「これは」
「山中植物園は久世家で管理されているとのこと。ここは公の機関のはずですが、どうして久世家に管理を任せているのでしょうね」
「そ、それは」
「役人は簡単に口を割りました……賄賂はもっと渡した方が良いですよ」
「く」
「他にもありますね」
丞太郎は久世家の裏の顔を暴いていった。貴仁と広子の顔色がどんどん暗くなっていった。
「というわけで、麗華さんを頂けますね」
「最後に尋ねる、なぜそこまでして麗華を所望か」
怒りで震える久世の前を彼は見下ろした。
「最高の令嬢だからです。では、久世さん。婚約に関する書類にサインをお願いしますが、その前に麗華さんをここに呼んでいただけますか。少し話をしたいので」
「……お待ちください。おい広子、麗華をここに」
「はい」
夫の指示で広子は監禁部屋へ向かい、地下から麗華を出した。
「麗華、こっちに来るのよ」
「お母様……待ってください。歩くのが」
「歩きなさい!早く」
広子は体調が悪い娘の腕をつかみ屋敷の外に強引に連れ出した。そして久世家の馬車に押し込んだ。
「夕方まで時間をつぶして帰りなさい。いいわね」
「はい、奥様」
馬車係りに命じる内容に麗華は驚いた。
「お母様? これは」
「早く馬車を出して。麗華、夕方までここに戻ってこないで頂戴」
「どういうことですか」
「いいから行って!ここには来ないで」
……訳がわからないわ。どういうことなの。
何の説明もないまま母の叫びに押されるように馬車は走り出した。
馬車内の女中姿の麗華は母の必死な様子が思い出し、怯えていた。
何もわからない麗華は走り出した馬車の中、高熱と恐怖に戸惑っていた。
しかし。馬車はあっと言う間に停車した。
……どうしたのかしら。
「おい」
「きゃああ」
「失礼する、おい山本、出せ」
「はい」
いつの間にか馬車は丞太郎の関係者と交代し、麗華を乗せて動き出した。
「葉室様、これはいったい」
「説明は後だ」
突然乗り込んできた丞太郎の前、麗華は体調不良を必死に隠した。
彼はそれに気付かず二人の馬車は夕焼けの町を進んだ。向かい合わせに座る馬車内で揺られている麗華はまだ葉室を怪しんでいた。
……これは、途中で飛び降りた方が。
馬車が速度を落としたすきに、飛び降りようとしている麗華を彼が目で止めた。
「止めておけ。擦り傷では済まないぞ」
「どうしてお分かりに?」
「戸ばかり見ているしな。それよりも、れ、麗華嬢」
「はい」
彼は腕を組んで話した。
「手荒くなってしまい申し訳ない。御父上と話が決まり、君は葉室家に行く事になった」
「父が認めたのですか」
「ああ」
……どういうこと?あんなに反対していたのに。
それにこの移動は普通ではない。麗華は彼を信じられなかった。
「葉室様。私は一度父に確認しとうございます」
「……わかった。しかし今夜から葉室家に来てもらう」
速度を上げる馬車で従うしかない麗華は、戸惑いながらも葉室家にやってきた。
「麗華嬢、着いたぞ、降りてくれ」
「……」
「どうした、気分が悪いのか……これは」
寝ていたと思っていた麗華の顔は真っ青で、額は汗で濡れていた。背を支えるとその身は熱く、彼女の意識は遠かった。
「おい、しっかりしろ。麗華嬢」
「……すみません。お母さま、すぐに、支度を……」
「麗華嬢、君は……」
意識が酩酊している麗華に丞太郎は眉間に皺を寄せた。屋敷では執事の平坂が出迎えた。
「旦那様、麗華様は」
「平坂。熱があるんだ。私が運ぶ」
「は、はい」
平坂が慌てる中、丞太郎は麗華を腕に抱き屋敷に進んだ。
「……すぐにやります……すみません……お父さま……」
……くそ、聞いていられない。
細い体は華奢で高熱のせいか、熱かった。はあはあと息が苦しそうに麗華を丞太郎は怒りを覚えつつ、黙ってベッドに置いた。この時、麗華が付けていた手袋が落ちた。
「この手のひら……皮がめくれているではないか」
「両手ですか。ひどいですね」
平坂の声に丞太郎は火傷の腕を確認した。
「他にも怪我があるかもしれぬ」
「先ほど医師を呼びましたので、すぐ診させます」
「できるだけ早く頼む」
彼女の苦しむ様子に丞太郎は悔しさの顔で麗華の汗の前髪を直した。麗華はまだ両親への謝罪の言葉をくりかえしていた。
「旦那様、後は私がやります」
「テイ……どうか頼む」
汗で濡れた麗華の頬に彼はそっと手を添えた。高熱でうなされる麗華を不機嫌そうに見ていた彼は、あまりに悲しい麗華を見ていられず背を向けた。
……実の娘にこんな仕打ちを……許せん。
その背を怒りで燃やす丞太郎は、テイに看護される麗華を振り返り、静かに部屋をでた。
そして葉室家では話し合いが行われていた。
「だって平坂さん。麗華さんは地下室に閉じ込めたられていたのです。それを母親が連れだして、いきなり馬車で逃げようとするから」
「なぜそのようなことを?旦那様は逢いに行っただけですぞ」
「私に会わせないようにするためだろうが、熱がある娘にすることではない!」
馬車を運転した部下の山本の説明に驚く平坂に、丞太郎は怒りでネクタイを緩めた。二人の話を聞いた執事の平坂は額の汗を拭った。
「それにしても馬車を乗っ取るとは?なぜそんな人さらいのような真似を」
「あの場合はあれしかなかったのだ」
久世家へ麗華を求める話し合いのこの日。丞太郎は密かに久世屋敷内に山本を配置させていた。山本は地下室にいる麗華を突き止め動きを探っていた。
今回の訪問にて丞太郎は麗華と素直に会わせてもらえないと予想していたが、まさか麗華を逃がそうとするとは思っていなかった。
「久世家はそれほどまでに麗華様を嫁に出したくないのですか?確かに長女ですが」
「……次女を高園に嫁がせ、長女には婿養子を取らせるつもりだったかもしれぬ。まあ、想像だがな、それにしても」
……あんな冷遇をするとは。この怒り、どうしてくれようか。
麗華の処遇を思い出す丞太郎は、怒りの拳を握っていた。麗華を連れてきた丞太郎は悔しさと虚しさに唇をかみしめていた。
「とにかく。我が屋敷で麗華嬢は守る。今は彼女を見守ってくれ」
山本と平坂は頷いた。
「もちろんです」
「かしこまりました。まずはお体の回復ですな」
麗華がやって来た葉室家では、丞太郎の指示で万全の体制が整っていた。
……寝てしまったのね。
翌朝。麗華は目が覚めた。いつの間にか眠ってしまったベッドには薔薇の花が一凛置いてあった。
……綺麗な薔薇ね。
「麗華様、お目覚めですか」
「テイさん、私」
「テイでいいです。それよりもまだ起きてはだめですよ」
……あ。手に包帯が。
「その手ですが。化膿しているとお医者様が言っていましたので、消毒をしています」
「すみません……面倒を掛けてしまって」
遠慮する麗華は疲れが出たのか微熱が続いていた。麗華は昏々と眠った。
そして三日目。彼女はようやく回復した。
「今朝はお部屋で食事ができますか」
「そうですね。私、行きます」
「お支度ができたら迎えに来ますね」
テイはそういって麗華の部屋から出た。そして迎えに来ると、麗華はいなかった。
慌てて探したテイは、ふと料理場に顔を出した。
「え。麗華様、ここで何を」
「何って、手伝いを」
久世家を出てきた時は、女中の恰好をしていたため、麗華はその服を着ていた。麗華のそばにいた料理人の男性は困惑していた。
「テイ。この方が手伝いたいって」
「ダメですよ!」
「でも、私、何か手伝わないと」
「何を騒いで、あ。麗華様」
女中の姿の麗華に、平坂も驚いた。
「ここで何をされているのですか」
「お食事なので、手伝いを」
「……そうですか」
真顔の麗華を見た平坂は、自分に言い聞かせるように向かった。
「お気持ちは嬉しいのですが、今朝はまず旦那様に挨拶をしていただけますか? テイ、お着替えを」
「はい!麗華様はこっち」
「は、はい」
平坂の視線とテイに背を押された麗華は、部屋で着替えをさせられた。古い服であるが上質なつくりで麗華は着心地の良さにほっとした。
「麗華様はお客様ですよ。お手伝いはしなくて良いのです」
「でも……ずっと寝たきりで申し訳なくて。では、挨拶の後で何か手伝います」
まだ手伝うつもりの麗華にテイはため息をついた。
「さてこれで良し。これからの事は旦那様とお話ししてください。さあ、行きましょう」
こうして麗華は朝食の席にやってきた。
「おはよう」
「おはようごさいます。すみません、お世話になってしまって」
頭を下げる麗華に、白いシャツの丞太郎は立ち上った。
「良い、気にするな。とにかく座りなさい」
「はい」
……これからどうすればいいのか、詳しく聞かないと。
彼を麗華はじっと見ていたが、勇気を出した。
「あの、私はこれからはどうすれば」
「まずは朝食だ」
こんな流れで二人は食事になった。広いダイニングでのテーブルには多くの料理が並んでいた。
……男の人ってこんなに食べるのね。
目の前でもくもくと食べる彼に麗華は圧倒されていると、彼と目が合った。
「どうした。進まぬか」
「すみません。いつも朝食は取らないので」
「……無理をせずとも好いぞ」
「いいえ。この桃だけ頂きます」
いつもは食事の支度をする側の麗華は、出された豪華な食事に気後れした。こうしてやっと食べた麗華を彼は部屋に案内した。
「大丈夫か」
「はい」
優しく肩を抱いてくれる彼は、庭が見える部屋に麗華を誘い、彼女を長椅子に座らせた。大きなガラス窓から入る東の日差しは優しく二人の会話を流してくれた。
「さて。私達のこれからの事だな」
「はい」
「話をした通り、君の父上の許しを得て私たちは婚約することになった」
彼はそう話すと麗華に書類を差し出した。そこには久世の父の筆跡で婚約を認めると署名があった。
「そのようですね」
「ああ。だが、そんなに硬くならずとも好い」
「お尋ねしてよろしいですか」
「ああ」
長い足を組んだ彼に麗華は尋ねた。
「なぜ私との婚姻をお望みですか」
「久世家と言えば名家だ。それに君はいつも屋敷にいるというのが気に入った」
「……妻にするならもっと社交的な人がよろしいのではないですか」
「私は仕事を持っていてね。家を留守にする方が多いのだよ」
彼は立つと麗華に紅茶を淹れ始めた。
「私との結婚は嫌かな」
「嫌というか……」
やかんを手にする彼は背を向けたままだった。カップと皿の動く音に麗華は座り直し、自分の胸に手を当て緊張と向き合った。
……私が結婚できるなんて思っていなかったもの。
麗華は背を向ける彼を利用し、本音を語った。
「すみません。私、久世の父に縁談を断るように言われていましたし。それに結婚なんて私には無理だと思っておりました」
「では、私が嫌いというわけではないのだな」
「そう、ですね」
……そもそも。謎の人だし。
「とにかく、まだ自分でもどうしてよいのか、私」
「まあ、ともかく、今はここで暮らしてくれ。私は君が嫌がることはしないから」
紅茶の香りが広がりを感じた麗華は、彼の背に思い切って尋ねた。
「葉室様はどのようなお仕事をされているのですか」
「公の仕事を手伝っている。他には不動産事業だな」
「そうですか……」
……そうは言っても。私はここで何をすればいいのかしら。
戸惑いで落ち込む麗華に彼は紅茶を出した。大きな体の彼が目の前に置いたカップは桜色の素敵な洋食器だった。
「急に妻になろうとしなくて良い。さ。どうぞ。砂糖は二個でいいか」
「はい。ありがとうございます」
角砂糖が添えてある温かい紅茶に麗華は少しほっとした。丞太郎は麗華の前に座った。
「麗華嬢。身の回りの品で足りないものがあれば遠慮せず買えばいい」
「そうでした。旦那様。このドレスはどなた様のものですか」
「ああ。それはだ」
麗華が着ているのは亡くなった母の物だと頭をかいた。
「すまない、古いもので」
「いいえ。前に借りたドレスも素敵なものなのでお礼を言おうと思っていたのです。そうですか、お母様のですか」
嬉しそうにしている麗華を彼はつい、じっと見ていた。
「あの、何か」
「いや? なんでもない、話はそれだけだ」
彼はそう話すと背を向けてしまった。麗華は紅茶を飲むと立ち上がった。
「ごちそうさまでした。それでは葉室様。父の署名は確かですが、一度、父に逢って確認したいです」
「……わかった。だがまず君の体力の回復が先だ。それから考えよう」
不安そうな麗華はこの言葉にやっと顔を上げ、彼を見つめた。
「ありがとうございます。では。葉室様。ふつつかものでございますが、麗華をどうぞよろしくお願いします」
「あ、ああ」
「失礼しました」
そう言って麗華は部屋を去った。丞太郎はぎゅうと目をつむった。
……今はまあ。こうするしかない。しかし、なんと初々しい。
麗華の一つ一つが愛らしい丞太郎は、その思いを必死に隠し窓の外を見た。
彼の思いを知っているのか、空は快晴だった。
二話 「雨音の中で」完
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