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四 風の彼
「おはようございます。麗華様、よく眠れましたか」
「ええ。今朝も晴れているのね」
目覚めた麗華はテイと挨拶を交わした。そして朝食へ向かった。
「旦那様は?」
「先ほど起きて、ご一緒に食事をするそうです」
「そう」
……今日は心配かけないようにしないと。
眩しい夏の朝、麗華がテーブルに着くと丞太郎が入って来た。
「おはようございます」
「おはよう、よく眠れたかな」
「はい」
白いシャツに黒いズボンで髪はまだどこか寝ぐせがついていた彼は、まだ眠そうだった。
……お疲れのようね。お仕事が大変なのだわ。
そして食事を始めた。麗華は少食であったがたくさんの種類を少しずつ食べていた。
「無理することはないぞ」
「はい」
そういう丞太郎は黙々と食べていた。麗華はその食欲に圧倒されていた。そして食事を終えた彼は、この日は屋敷の書斎で仕事をすると言い、麗華は自由時間になった。
昨日、丞太郎に相談していた麗華は、テイと一緒に葉室家の自動車で送ってもらい、洋品店にやってきた。
「こちらは旦那様のお洋服のお店なのですよ」
「そうですか。婦人服もあるのですね」
麗華は店に入ると、店員とやり取りをした。
「お電話で伺っております。麗華様はまずこちらで採寸をしていただきますね」
「麗華様、さあさあ」
「はい」
言われるまま身体のサイズを計ってもらった麗華は、その後、店員にドレスの色を尋ねられた。
「……ドレスは、旦那様がくださった藤色のドレスがあるので今回は要りません」
「麗華様、でも」
「テイ、それよりも私は普段着が欲しいのです」
麗華は店員が勧める上等な服よりも既製品の服を選び、購入した。そして店を後にした。
「麗華様。他の店にも寄りましょうか」
「そうねテイ。もう少し買ってもいいかしら」
「どうぞどうぞ」
そんな麗華は町を歩き、商店街の店で安値の下着や浴衣を購入した。
「麗華様。それよりも向こうの店の品の方が」
「いいの。私はこれで」
……お出かけの時の物は買っていただいたから。屋敷の中はこれで十分よ。
こうして麗華は買い物を済ませ、葉室屋敷に帰って来た。
◇◇◇
「旦那様。例の世田谷の屋敷の件ですが」
「ああ」
「土地の交渉をしましたが、銀行の返事待ちのようです」
「ああ」
「……後ろに河童が立っていますよ」
「ああ」
葉室家の丞太郎の仕事部屋。部下の山本はあきれた顔で丞太郎を見た。
「また麗華様の事をお考えですか」
「ああ……って。何をバカなことを」
顔を真っ赤にしている彼に年下の部下は呆れた。
「麗華様が屋敷にきてからずっとこうじゃありませんか。仕事にならないですよ」
「そんなことはない、とは、言い切れぬか……」
硬派な態度を必死に取っているが丞太郎は屋敷に舞い降りた麗華にドキドキしていた。
秘密警察の仕事もあるが、彼は自身の会社も経営していた。この日は白いシャツ姿で書類の確認をしていた。
「だがな。急に妻になれと言われても戸惑うであろう」
「何を言っているのですか?あんな形で連れてきたのは旦那様ですよ」
「う」
山本が退室した後、丞太郎は久世家の調査票をまた読んだ。
……腕に火傷痕があるだけで、こんなにひどい待遇を受けていたとは。
元久世家に仕えていた使用人からの聞き取りをした丞太郎は、麗華の冷遇を知った。
次女の万理華だけを実子扱いし、火傷痕の麗華は使用人扱いの久世家の情報に丞太郎は怒りの拳を握っていた。
麗華の事を思う丞太郎は眉間に皺を寄せていた。
そしてこの日の夕食時。麗華は見慣れない洋服を着ていた。
「旦那様、本日は身の回りの物を買わせていただきました」
「左様か」
「感謝申し上げます」
「あ、ああ」
そして食事となった。一生懸命食べる麗華を丞太郎は密かに見ていた。
……そうか。本日は採寸だけだから。ひとまず既製品を買ったのだな。
高級店で採寸させたはずなので麗華は高級ドレスを着ると丞太郎は思っていた。密かに麗華がどんなドレスを着るのか楽しみにしていた丞太郎は、翌日から多忙で屋敷を留守にするようになった。
こうした中。屋敷で過ごしていた麗華に洋服が届いた。
「麗華様。お買いになった洋服を早速お召しになってはいかがですか」
「それよりも平坂さん。私、お願いがあるのですが」
「何でございましょうか」
丞太郎から麗華のしたいことを支えるように言われている平坂に麗華は、受け取った洋服の箱を置いて話した。
「私。毎日何もせずには居られません。何か、仕事をさせて下さい」
「それはなりません。丞太郎様からは健やかにお過ごしになられるようにと言われております」
「ですが。何もしないのは却って具合が悪くなります。そこでですが、あちらの」
「庭ですか」
目線で示した麗華は頷いた。
「あの庭の手入れをさせて欲しいのです。手も治りましたし、落ち葉を拾うとか、その程度ですが」
「しかし……」
「どうかお願いします。庭師の方の手伝いで構いませんので」
「弱りましたね」
頭を下げる麗華に平坂も諦め、庭の散策として許可をした。既製品のワンピースにエプロンをした麗華は帽子を被り庭にやってきた。
「どうも、です。庭師で岡田と言います」
「初めまして。葉室様にお世話になっている麗華と申します。どうかお手伝いをさせてください」
老庭師も困惑したが、麗華は慣れた様子で水やりなどを手伝い始めた。庭師はお嬢様の気まぐれと思い、適当にあしらっていたが振り向くと麗華は楽しそうに作業をしていた。
「岡田さん。これは何の花ですか」
「西洋ダリヤです」
「葉が多いのですね……これは、球根ですか」
「ええ」
夢中で観察する麗華に老人は剪定しているハサミの手を止めた。
「初めて見ます……あの、肥料はやはり油粕ですか」
「花に、詳しいのですね」
立ち上った麗華は帽子のつばを抑えまだダリヤを見ていた。
「そうでもありません。ただ実家では庭の手入れをしていたので、植物は好きです」
「……その花壇はすべて西洋の球根です」
「大きな葉だわ……咲くのが楽しみです」
しみじみと観察する麗華に目を細めた老人は作業を再開した。何かしたいという麗華に岡田は水やりを頼んだ。麗華は昼食になるまで楽しく庭で時を過ごした。
「麗華様。お味はいかがですか」
「美味しいです、あの、ところでお料理は誰がされているのかしら」
「そうでしたね?あの、私の主人なのです」
「テイの?そうだったの」
そんな麗華は昼食後、厨房にやってきた。そこには料理服を着た男性がいた。テイは慌てて紹介した。
「ご挨拶が遅れてすみません。こちらが夫の杉田清二です」
「杉田です。こいつが初日に麗華様をずぶぬれにさせてしまって。本当に申し訳ありませんでした」
「そうだった?麗華様、あの時は本当にすみません」
頭を下げる杉田夫婦に麗華は慌てた。
「いいえ?そんなことはないのですよ」
どうにか頭を上げさせた麗華は夫婦に微笑んだ。
「雨はテイのせいじゃありません。それよりもご夫婦でこちらに勤めているのですね」
「そうなんですよ。ええと、俺達はそのあれだ」
「ちょっと!敬語でしょう」
「あ。そうだっけ」
「ふふふ」
杉田夫婦のやり取りに思わず麗華は笑った。今まで表情が硬かった麗華の様子に夫婦も笑みを見せた。
「麗華様、すみません。こんな旦那で」
「いいえ。気にしないでください。それよりも、綺麗な厨房ですね」
使い込んでいる歴史を感じさせる台所であるが、清二が清潔にしていることを麗華は好感を持った。
「私。実家にいた時はお料理をしていたのですが、今朝の卵焼きがとてもふわふわで美味しかったです」
「へへへへ。あれには秘密があってですね」
清二は黄身と白身を別々に泡立てて焼いていると話した。
「焼く時にそれを混ぜるんっすよ」
「まあ。ぜひやってみたいわ」
「麗華様がですか?それは、ちょっと」
「そうですよ。麗華様は座って食べて下さらないと困ります」
「……あの、それについてお願いがあるの」
麗華は隅に積まれたジャガイモを見つめた。
「私、実は急に葉室様にお世話になることになったのだけど。何もすることはないのよ」
「最高っすね。それって」
「あんたは黙って!あの、麗華様、それは丞太郎様がそうして欲しいということですから」
「でも。やっぱり何もしないという事は私にはできないわ」
俯く麗華にテイは静かに尋ねた。
「では、逆にお尋ねしますが、麗華様は何かしたいことがあるのですか」
「そうね……葉室様のお役に立つことがしたいわ」
「お役に立つこと」
「役に立つ事か……おい、テイ。お前何か考えろ」
「うるさいわね。今、考えているのだから」
気心知れている杉田夫婦に麗華はまたしても微笑んだ。
「ふふふ。そうだ!……あの、私、お料理を手伝うのはどうかしら」
「料理ですか、それは平坂様に聞かないとなりませんが、一緒に聞いてみましょうね」
「そうっすよ。聞くのはタダなんだし」
「もう、清二って、本当に」
「ふふふ……あははは……仲良しなのね、ふふふ」
満面の笑みで笑う麗華に杉田夫婦も笑顔になった。その後、麗華は平坂を説得し、庭の手入れと料理の補佐の許可を得た。
この夕刻はさっそくテイと一緒にジャガイモのスープを作った麗華は、久しぶりに充実した気分を味わっていた。
この夕刻。彼は屋敷に帰って来た。
「お早いお帰りでしたね」
「ああ。麗華嬢はどうした」
「そ、それがですね」
汗をかく平坂は麗華が庭の手入れをしていると話した。
「庭の手入れ?なぜそんなことを」
「どうしても働きたいと申されて。それで薔薇の庭を」
「行ってみる」
足早に庭を進んだ彼は、黄昏の薔薇の園で動く彼女を発見した。
「麗華嬢」
「旦那様?お帰りなさいませ」
「薔薇の手入れか……」
洋服の上にエプロンをした麗華は、汗だくで薔薇の選定をしていた。これに彼は眉をひそめた。
「暑いのではないか」
「清々しいですよ」
汗が光る麗華は楽しそうだった。しかし彼の心は曇った。
「だが、君がする事ではない」
「え」
庭仕事で疲れているように見えた彼は、麗華を気遣うあまり強い口調になってしまった。
「とにかく、屋敷に入れ」
「はい、申し訳ありませんでした」
麗華はすぐに屋敷に戻った。その小さな背を丞太郎は歯がゆく思っていた。
その夕食時。テイは笑顔で料理を運んできた。
「今夜はこのジャガイモのスープがおすすめです」
「変わった料理だな。どれ……美味いな」
この言葉に麗華はぱっと笑顔になったため、丞太郎はテイを見た。
「どういうことだ?」
「これは麗華様がおつくりになったのです」
「君が?」
「はい。お口にあって嬉しいです」
「そ、そうか」
丞太郎は残さず食べてくれたが、なぜか表情は硬かった。そして夜。彼は麗華に話をした。
庭に面した大きな窓ガラスの部屋のテラスの長いすに座っている麗華を、彼は自分で淹れた紅茶を差し出した。
「屋敷には慣れたか」
「はい、少しずつ」
「しかし。屋敷の仕事をするのは感心せぬな」
彼は麗華が安値のブラウスを着ているのも気に入らなかった。
「その服は?私が勧めた店の品ではないな」
「これは、そうですね」
「よいか、ここは葉室家だ。妻は使用人ではないのだ」
「……すみません」
屋敷で穏やかに過ごして欲しいと思う丞太郎は、麗華の回復仕立ての赤い手からそっと目を背けた。
……痛々しい。ゆっくり休めばよいものを。
「とにかく。屋敷の仕事は使用人に任せて欲しい。君は何もしなくて良いのだ」
「わかりました。申し訳ありません」
そういうと麗華は退室した。その悲しそうな声に丞太郎は胸を痛めていた。
◇◇◇
……叱られてしまったわ。
疲れている彼に少しでも元気になって欲しいと思った麗華は、得意のジャガイモのスープを作ったが却って叱られてしまったことを悲しんでいた。
役に立とうと家事をするには、動きやすい洋服も必要であった。そのために選んだ洋服や、薔薇の花の手入れもすべて否定されてしまった麗華は、ベッドで涙を流した。
……何も役に立てないわ。私がここにいる意味があるのかしら。
久世の父に直接確認できていないこの婚約は、麗華を不安にさせていた。結婚など無縁と覚悟していた麗華は、仕事に生きるつもりであった。このため妻としてどういう態度を取るべきなのか、分からずにいた。
……テイと清二さんは、仲良しだったな……
夜の月は何も答えてくれなかった。孤独な麗華に星だけが瞬いていた。
翌朝。二人は食事をしていた。
「いただくぞ」
「はい、いただきます」
しかし、麗華は全然食欲が無かった。これに彼は焦った。
「どうした」
「すみません。今朝は食欲が無くて」
「だが」
「牛乳だけいただきます。申し訳ありません」
そして麗華は自室にこもってしまった。
……なぜだ。俺は彼女に楽をしてほしいだけなのに。
しかし麗華は屋敷内で働こうとしていた。丞太郎にはその心理がわからなかった。
「テイ!テイはどこだ」
「はい、ここに。どうされました」
「麗華嬢はどうしている」
「お部屋においでですが、あの、ちょっといいですか」
テイは、丞太郎にはっきり言った。
「旦那様。麗華様は旦那様のために色んなことをしたいのですよ」
「え」
驚く主人に彼女は腰に手を当てた。
「麗華様はせっかく旦那様にお食事を作ったり、お役に立とうとされているのに、それをするなと言われて」
「ちょっと待て。麗華嬢は私のためにしておるのか」
うんと頷いたテイに丞太郎は青ざめた。
「昨日のジャガイモのスープも、旦那様にためと、あんなに楽しそうにお作りになったのに」
「謝ってくる。どこにいるんだ」
立ち上った丞太郎の背にテイは言葉を投げた。
「お部屋ですね。出てきませんけれど」
冷たいテイの態度を避け、丞太郎は早足で麗華の部屋をノックした。
「麗華嬢、開けるぞ」
開いたドアの先には、誰もいなかった。ただ開けっぱなしの窓から白いカーテンがひらひらと綺麗に靡いていた。
「麗華嬢……どこに。あ」
嫌な予感ただよう部屋は無音で彼の心臓を音だけが響いているようだった。
整ったベッド、主のいない椅子、そして焦っている丞太郎を映すドレッサーがそこにあった。
「麗華嬢……いないのか、ん。これは」
ドレッサーの机の上の手紙には美麗な文字があった。自分の名前を見つけた彼は、その時点で彼女の気持ちが飛び込んできた。
……『葉室様。短い間、お世話になりました。やはり私は葉室様の妻には不適格です。お役に立てず申し訳ありませんでした 久世麗華』……
震える手が置き手紙を床に落とした彼の背後に、平坂とテイと清二が顔を出した。
「旦那様、どうされました大声で、あ、これは置手紙」
「あれ?いないわ……もしかして出て」
「うわ。やっちまったな」
「……くそ!」
三人の責め言葉を掻き分けた彼は、窓から飛び出していた。
「麗華嬢!麗華!」
……まだ遠くには行っていないはずだ!
葉室家の芝生を彼は庭を駆け抜けた。手入れされた緑の園の間を走る彼は、前方に進む黒髪の少女を発見した。
「おい!麗華」
……え。追い駆けてきた?
まさか追ってくるとは思わなかった麗華は、彼の必死の様子に思わず走り出した。
「麗華!待ってくれ」
しかし、麗華も必死に走った。しかしすぐに彼に追いつかれた。
「離してください」
「すまなかった。私が全部悪い」
「はあ、はあ……葉室様。なぜ、なぜ麗華なのですか」
背後から腕を取られた麗華は、息を整え涙をためた目で彼を見つめた。
「あなた様程の方ならば、もっと素晴らしい女性を妻にできるでしょう?どうして麗華をお望みなのですか」
「麗華嬢。それは……」
「迷惑ばかり掛けて、私はここにはいられません……」
涙で震える麗華を見た丞太郎は、頭から冷水を浴びたような気がした。
「どうか、麗華を帰して下さい……私はもう」
「すまなかった。俺が悪かった」
小鳥のように弱弱しく泣く麗華を前に、彼は愕然とした。
……そんなに不安であったのか。
丞太郎は久世家で虐げられていた麗華に楽をさせたいと思っていた。
それは金銭を自由に使わせ、何も仕事をさせないことが彼女にとって幸せだと思っていた丞太郎は、悲しく震える麗華に頭を割られた気がした。
「わかった。理由を話す」
「でも」
「すまなかった。思い詰めていたんだな」
……できれば、事情を話さずにいたかったが。
涙の彼女に丞太郎は安心させようと背後からふわと抱きしめた。
「悪かった、とにかく話をする。頼むから屋敷に戻ってくれ」
「……はい」
その声に全身の力は抜けそうになった丞太郎は、己を奮い立たせ麗華の肩を優しく抱いた。
屋敷へと戻る緑の小道には蝶が飛んでいた。まぶしい日差しは二人に降り注いでいた。
四「風の彼」完
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