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五 悲しき過去
昼下がりの午後。丞太郎に連れ戻された麗華は、平坂に離れの部屋に案内された。
丞太郎に手を引かれ帰還した麗華を見た屋敷の者達は、麗華に頭を下げた。
「君は先に部屋に行ってくれ。平坂、頼む」
「はい。麗華様こちらへ」
麗華も彼らに謝った。
「心配かけてすみません」
「それはもういいです。さあ、こちらでお待ちください」
「ここは」
「亡くなった丞太郎様のお母上の部屋です」
「素敵な調度品……」
彼が来るまで平坂の案内で麗華は美品を見ていた。祖父母から高価な品の見分けを教わっていた麗華は、この部屋のアンティークのセンスに心を奪われていた。
「麗華様。この度は申し訳ありませんでした」
「平坂さん。それは私の方が」
「いいえ。私の説明不足でした」
まだ丞太郎が来ない部屋で平坂は麗華を椅子へ誘った。
「旦那様はお母様も早くに亡くされ、お仕事一筋のお方でございます。お気持ちは優しい方なのですが、麗華様のような女性とお付き合いするのは今までなかったので、どう接してよいのかお分かりにならないのです」
必死に謝る平坂に麗華もだんだん冷静になってきた。
「口数が少なく仏頂面なので『女嫌い』など言われることがございますが決してそうではないのです」
「そう、なのですか」
……そこまでは私も思っていないけれど。
「ですのでどうか二人でよく話し合ってください」
「はい。ご心配かけました」
「待たせたな。急ぎの電話があったので」
汗のまま部屋に入って来た丞太郎に麗華は恐縮した。
「いいえ。どうぞ麗華にお気遣いなく」
「嘘言え。出て行こうとしたくせに」
「すみません……」
人差し指を立てる彼に麗華は思わず小さくなった。平坂が退室した部屋で彼は深呼吸をした。
「とにかく。私にとって君が最優先なんだ。と、とにかく落ち着こう」
そういうと丞太郎は紅茶を淹れ始めた。麗華は彼が慌てて淹れる仕草を見ていた。その視線に気が付いている丞太郎は彼女を見ないまま語った。
「……『なぜ今、紅茶を淹れるのか』と思うかもしれないが、こうしていると落ち着くのでね」
「そんなことはありません。私の祖父も抹茶を立てるのが好きでしたし」
「習慣というのかな。同じ動きをすると心が整う気がするんだ……どうぞ」
「いただきます」
麗華が一口飲んだ様子を見た彼は、やっと椅子に座った。
「さて、どこから話せばよいかな」
「なぜ私に求婚されているか、ということです」
「理由を話したはずだが」
「……でも。おかしいと思います。他にも相応しい女性はたくさんおいでなのに」
膝に拳をつくり、うつむく麗華に丞太郎はもう隠せないと腹をくくった。
「それな……実は、君のその火傷は、私のせいなのだよ」
「これが」
驚く麗華に丞太郎は十年前の事件を語った。苦しそうに語る様子を麗華は黙って聞いていた。
「あの時、私は自分が守る馬車ばかり気にして、他の事には気が回らなかった。本当に申し訳なかった!」
「……そうでしたか」
……そうか。旦那様は当時の警備の人だったのね。
頭を下げる彼の様子に麗華は驚きとともに、妙に納得した。彼は麗華の怪我を自分のせいにしているのだと麗華は理解した。
「君はひどい傷を負ってしまった。本当に何と言っていいか」
「いいえ、これは旦那様のせいでは」
「いや。私のせいだ。君の人生を台無しにしてしまったんだ」
……私、そこまで思っていないのに。
麗華にとって憎む犯人は爆発犯だった。あの事故は怪我人で済んだが、本来ならば乳母であった婆やが馬車の扉を開き、事故に遭っていたはずだった。
そんな乳母も軽症で済み命を落とすことはなかった。今の麗華は、目の前でうちひしがれている彼に、何も言うことはなかった。
……でも。やっぱり。
麗華にはこの怪我がなければ違う未来があった。怪我さえしなければ、という諦めたはずの思いが今、麗華の身に降り注いだ。
「旦那様」
「本当にすまなかった」
「少し、考えさせてください」
低く悲しく謝る彼の話に麗華はそっと部屋を出た。廊下を歩く時、火傷痕が見えた麗華は心が重くなっていた。
自室に入ると夕刻の部屋は黄昏ていた。麗華は窓の外の眩しい芝生と木々を見ていた。やがて眠くなったためベッドに横になった。
その時、窓辺に飾った赤い一輪の薔薇が、麗華の世界に飛び込んできた。
……あれはきっと旦那様がくれたお花……私のためと思っていたけれど。
いつの間にか部屋には夜が忍び込んでいた。夕食を不要と返事した麗華はベッドにさらにもぐりこんだ。
……私も苦しかったけれど、葉室様もあんなに苦しんでいたのね。
彼の思いがけない見えない痛みを知った麗華は、胸の奥がチクと痛んだ。
静かな夜は麗華を惑わせるように暗く重く彼女に降り注いでいた。
翌朝、丞太郎は仕事が入り食事を取らずに外出し帰宅しなかった。その翌日の夕食後、帰って来た彼と食事を済ませた麗華は、食後、打ち明けた。
「旦那様。麗華は旦那様を恨んではおりません」
「え」
庭が見えるテラスの夜窓を背に麗華は日本茶を淹れた。彼が顔を上げると真剣な顔の麗華がいた。
「それよりも確認したいのですが、旦那様は、私がお嫁に行けないと思って。それで妻に迎えようとしているのですか」
「いや、その」
「……お気持ちをお聞かせください」
湯呑を彼の前に置いたまっすぐな麗華に、彼は心を固めた。
「わかった。実は、また例の爆発犯の組織に動きがあるんだ」
丞太郎はそのため当時の被害者の近辺を調査していると、湯呑から上る湯気を見ながら話した。
「君も保護対象になっている。犯人はまだ捕まっておらず、精神異常者の疑いがあるんだ」
「では。旦那様は私を守ろうとされているのですか?」
「あ、ああ」
純粋な麗華の前では嘘が言えない彼は、思わず本音をこぼした。麗華は俯いていた。
……やっぱり、責任感なのね。
麗華の怪我を自分のせいだと責めている丞太郎が、麗華には痛かった。
「麗華嬢、すまない。こんな不純というか、君には婚約を申し込んでしまって」
「……よくわかりました」
「麗華嬢、あの、その」
……まずい?嫌われたか!
堅い表情の麗華に丞太郎は焦った。
「本当にあの、私は君が」
「旦那様。麗華は嬉しいです」
「へ」
麗華は顔を上げた。真剣な顔だった。
「旦那様は、そこまで麗華を心配してくださっていたのですね。嬉しいです」
「麗華嬢」
「私はこの火傷痕のせいで、両親を失望させてしまいました。私が華族の娘として、嫁に行けないからです」
「それは私のせいだ。すまない」
「いいえ。旦那様。旦那様のせいではありません」
麗華はすっと彼の手を握った。
「悪いのは爆発犯で旦那様ではありません。それに、事件後もこんなに麗華を思ってくださっているのですもの」
自分よりも彼の心の傷を案じた麗華は微笑みかけた。思わず丞太郎は彼女の手をおでこにあてた。
「ありがとう……そう言ってくれて」
……やっぱり、長年、気にしていたのね。
大きな体の生真面目な彼の思いに麗華の心はズキとした。この婚約に愛はなく自分を守るための強い責任感だと胸に溶かした麗華は、次の一歩に進んだ。
「そこで、私からもお話があるのです」
「何かな」
手をほどいた麗華は、彼に日本茶を進めた。
「私には、祖父が残してくれた財産があるのです。でもそれは二十歳にならないと私には使えないのですが、私はそのお金で久世家から独り立ちをするつもりでした」
「財産……なるほど。では君は二十歳になるのを待っていたのか」
「そうです。それまで久世の屋敷で暮らすつもりでした」
「そうか」
久世家が麗華を離さない理由が見えた丞太郎は思わずお茶を飲んだ。そんな彼に麗華は続けた。
「そこでご相談ですが。旦那様、麗華をこのまま婚約者のまま葉室のお屋敷においてくださいませんか」
「どういうことだ」
「旦那様は私を守るために婚約とお話されましたが、麗華はあと一年で二十歳です。それまでに犯人は捕まりますよね」
「そのつもりだが……では君は、二十歳になるまでここにいたい、ということか」
「はい。それなら結婚せずともお互いのためになるかと」
……確かにそうだが。どうも引っかかる。
自分を見つめる彼女に目を伏せた彼は、眉を顰め湯呑を置いた。
「『君は結婚せず』というが。確かに婚約が進めば結婚となるが、私との結婚は嫌なのか」
「旦那様は私を守るために結婚するのでしょう?犯人が逮捕されれば麗華は不要ですもの」
「不要ということはない。君さえよければずっといてくれて良い」
「いいえ。事情を知った以上、旦那様にこれ以上ご心配を掛けたくありません。麗華はとにかく二十歳までここに」
「麗華嬢。待ってくれ」
丞太郎は思わず彼女の手を握った。
「何と言ったらよいのか。とにかく、その、私は君を守りたいのだ」
「わかっております」
……私が想っていると言っても、今は信じてくれないであろうな。
自分の過去を話したが、麗華には早急であったと彼は感じていた。さらに葉室家から逃亡を企てた麗華の行動力を、丞太郎は思い出していた。
……また逃げたら困るしな。今は彼女に合わせるべきか。
今はとにかく麗華にこの屋敷にいてもらいたい丞太郎は目をつむった。
「では麗華嬢。犯人逮捕に関わらず二十歳まではここにいてくれ。頼む」
「お願いしているのは麗華の方です。それであの、旦那様」
「何だ」
麗華は真剣な顔で彼に向かった。
「私の事は……麗華と呼んでください。私はその、お嬢様ではないので」
「え」
「どうぞ、そのままで」
……私はここに置いてもらう居候ですもの。そんな扱いは受けられないわ。
謙遜する麗華の健気な思いに、丞太郎は体中の毛が逆立つ思いに駆られた。
「わかった。では、私の事も名前で呼んでくれないか」
「ですが、旦那様に私はお世話になるのに」
「君が二十歳までは我々は婚約者だ。それらしくしたいからな」
……そうね、確かに。
真面目な麗華は、彼に頷いた。
「わかりました。丞太郎様でよろしいですか」
「……長いので呼びにくいだろう。じょ、丞でよい」
どこか声が震える彼に麗華は深呼吸をした。
「はい、では、丞様」
「れ、麗華」
「はい。丞様」
「……お、お茶のお代わりをくれ。美味しいんだ」
「良かったです」
麗華は嬉しそうに彼の湯呑に注いだ。その仕草を丞太郎は自分を落ち着かせるかのように見ていた。
「ところで麗華よ」
「はい」
目の前の机の上にお茶を置いた麗華を、彼はじっと麗華を見つめた。
「もう逃げないと約束してくれるかな」
「……丞様。麗華はお屋敷でお役に立ちたいのです。それをお許し願いますか」
「いるだけで役に立っているのだが」
真顔で話す丞太郎に麗華はお盆を胸に抱え嬉しさを殺そうと、一瞬、天を仰いだ。
「いいえ。何もせずにはいられません。どうかお仕事をさせてください」
「……花の手入れは許す」
「お料理もぜひ」
「君の食が進むなら良しとしよう……ん」
静になった麗華に丞太郎は湯呑を持った。
「いかがした」
「そうでしたわ。お好きな食べものを教えてください。あ。嫌いなものがいいかしら」
真面目に話す彼女に彼がやれやれと頭をかいた。
「何でも食べるが……ミョウガはちょっとな」
「ミョウガ……大丈夫です。絶対使いません、他にはありませんか」
「おいおい。そんなに頑張らなくても、おっと」
……いや?またうるさく言うと、逃げるかもしれぬ。
「丞様?」
「君が作ったものは何でも食べるよ、さて。もう寝る時間だ」
「はい」
丞太郎はそっと麗華の肩を抱き、彼女の寝室に誘った。
「丞様」
「な、何だ」
「今後。麗華はご迷惑にならないように努めます」
「お。おう」
「だから丞様も、麗華の事は心配ならさないでくださいね」
……私が自分を責めていると案じているのか。
優しい麗華に丞太郎は廊下の暗がりを利用して心震わせた。
「私は婚約者だ。心配しても良いだろう」
「ですが」
「さあ部屋だ。ベッドに入りなさい」
「はい」
小柄な彼女を彼は布団に入れた。
「おやすみ。麗華」
「丞様、おやすみなさい。あの」
「ん」
呼び止められた彼に麗華は恥ずかしそうに布団から顔をだした。
「ずっと聞こうと思っていたのですが。このベッドのお花は旦那様ですか」
「あ、ああ」
寝ている間に置かれている一輪の花は今は、窓辺の花瓶に飾られていた。
「すまない。婚約したのに会えないので、気持ちだけと思って」
「嬉しかったです。麗華を心配してくださって。ありがとうございます」
「……ほら、布団が崩れたぞ」
月の明かりさす寝室にて彼は婚約者にそっと布団を直した。
「麗華、また明日」
「はい。丞様」
低い声と甘い声が流れる夜の部屋のドアを閉めた彼は、背中に麗華への思いを背負い、夜の廊下を歩いた。
……あ、危ないところだった。まあ、今はこれで良いのだ。
思わず抱きしめたい気持ちに駆られた彼は、今は愛しき婚約者への思いを殺し、仕事が終わっていない書斎に向かった。
……嬉しかったか。それは、俺の方なのに。
葉室屋敷にやって来た初恋のお姫様の逃亡を阻止した彼は、笑みを称えていた。互いの心を受け取った夏の夜は静かに優しく、明日へと進んでいた。
完
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