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六 葉室屋敷にて
夏の眩しい朝日に麗華は目が覚めた。いつの間にかベッドの脇には薔薇の花がそっと置いてあった。
夕べも彼が様子を見に来てくれたことに笑みを見せた麗華は、仕事用のワンピースに着替え、そっと庭に出た。朝顔に大きく深呼吸をした麗華は、体の隅々に酸素がいきわたるような清涼感の中、庭を歩いた。
「おはようございます、麗華様」
「おはようございます。お早いのですね」
「涼しいうちに始めたいのでね」
老齢の庭師は麗華をそっと見守り、そして自分の作業を始めた。麗華は萎んだ花を手折りし、そして屋敷に戻った。
洗面台の前で身なりを整え直した麗華は、今度が自室にて丞太郎が買ってくれた服に着替えた。
……ドレスではないけれど。
上等なブラウスとスカートは品よく、動きやすかった。今後は服を用途によって使い分けようと麗華は決めた。
「おはようございます。麗華様」
「テイ。おはよう」
「お食事はできております。どうぞ」
一緒に笑顔でダイニングに向かう通路で、テイは微笑んだ。
「お似合いですよ、麗華様」
「ありがとう。でも私、あまりこういうのは着たことがなかったわ」
「え」
「いつも屋敷のお掃除をしていたので、こんな上等のお洋服は初めてよ」
「堂々とされていたので、てっきり慣れていると思っていました」
「そうでしたか」
「おはよう。ずいぶん楽しそうだな」
すでに部屋で新聞を読んでいた丞太郎は、新聞越しに二人に挨拶をした。
返事をした二人に彼は新聞を下ろした。
「麗華、今朝の気分はどうかな」
「はい、よく眠れましたので気分が良いです」
「それはよかった」
そういって丞太郎は新聞をまた読み始めた。
……眩しい、なんて美しいのだ。
長い黒髪、白い肌、長いまつ毛、たおやかな動き、そして優しい声。そんな麗華は側に座ると丞太郎の心臓が激しく打つが、麗華は知らずにいた。
婚約者の二人は朝食を食べていた。
「丞様は今朝もお出かけですか」
「ああ、夕べ連絡があって、数日家を空けることになった」
「左様でございますか」
「……その、留守の間、あのだな」
……もしかして。私が出て行くと心配しているのかしら。
怪我を負わせた責任感で自分と婚約してくれた彼の様子に、麗華はそっとフォークを置いた。
「丞様。麗華はお屋敷におります」
「そうか」
「客間の本を読んで良いですか?面白そうな本ばかりなので」
「気難しい本ばかりだが、好きにしてくれ」
「はい。楽しみです」
頬を染めた麗華を、丞太郎は髪をかき上げながら目を伏せた。
……嬉しそうだな、これなら出て行くまい。
やっとほっとした彼と麗華は食事を終えた。そして丞太郎は出かけると言い、部屋に入り支度をしていた。外で待っていた麗華は見送ろうと玄関にいた。
「おはようございます。麗華さん」
「あ。あなたは確か、馬車の時の」
久世家からやって来た時の馬車係りの彼は丞太郎と同じ軍服姿で立っていた。
「はい。自分は丞太郎様の部下の山本康介と言います。どうぞよろしく」
丞太郎よりも若い彼はにこやかに挨拶をした。
「こちらこそ。久世麗華です。丞様にお世話になっております」
会釈を終えた二人は一瞬、時が止まった。山本は思わず帽子のつばの直した。
「……すみません。自分がお連れした時は、麗華さんは体調がお悪かったので」
「あの時はご迷惑をかけてしまいました」
「いいえ。それにしても」
麗華を久世家にいた時から調べ彼女を知っていた山本は、今の麗華を見て息を呑んだ。
……こんな綺麗な人だったのか。久世家では冷遇されていたからわからなかった。
下調べをしていた山本は、顔色が悪くやせ細っていた女中姿の麗華しか知らなかった。今、目の前の麗華は品よく彼を見つめていた。
「山本様?」
「え?いや、その。良い天気ですね。ハハハ」
「なにが『ハハハ』だ」
「ひや!」
いつの間にか背後にいた丞太郎に山本はびくとした。麗華はくすくす笑った。
「いいから荷物を持て」
「はい。では麗華さん、これで」
駆けて行く山本に丞太郎はあきれた様子で肩を落とした。
「そうか。麗華は山本に会うのは初めてか」
「はい。元気そうな方ですね」
「それだけが取り柄なんだ。では、行ってくる」
「はい……」
しかし、なぜか不機嫌そうにし、なかなか行こうとしない丞太郎に麗華は首を傾げた。
「どうされましたか」
「……いや、その」
……まだ心配しているのかしら。
背後に山本が乗る車が見えた麗華は、目の前の大男を見上げた。
「丞様。麗華は留守をお守りします。どうぞ。あの、心配せずに」
すると丞太郎は麗華の長い髪にそっと触れた。
「約束だぞ。ここで私を待つと」
「はい、待っています」
麗華が目を合わせると、彼は一瞬、ほっとした顔を見せ、いつもの堅い顔になった。彼は車に乗り込み去って行った。
見えなくなるまで、麗華はずっと彼の車を見ていた。
……ちょっと笑った、かな。
別れ際の彼の一瞬の安堵顔を思い出した麗華は、青空に微笑んだ。
主が出立した葉室家では朝の清掃が済み日常が始まった。普段着に着替えた麗華は書類整理をしていた平坂を発見した。
「平坂さん、私、お願いしたいことがあるのですが」
「何でしょうか」
麗華は古い本を手にしていた。
「本棚にあった本ですけれど。これの続きの本がどこかにあるかと思うのですが」
「お待ちください、テイに案内させますね」
平坂に指示されたテイは書庫に麗華を連れてきた。お目当ての本を見つけた麗華は、他の古い本に目を奪われた。
「テイ、これは?」
「古文書のようですよ。私も詳しくわかりませんね」
「……面白そう」
「え」
古書に目を輝かせている麗華にテイは驚いた。
「これがですか」
「ええ!わくわくしますね」
そんな麗華は並んだ本をしみじみ読んだ。
「『葉室家伝書』とあるわ……葉室家の歴史本かしら。読んでみたいわ」
「あの。麗華様!すみません。ちょっと」
呼びに来た平坂は慌てていた。テイもどうしたのかと振り返った。
「実はですね。お客様が来てしまいました……」
「お客様?旦那様はお留守なのに?」
「……どうやらあなた様に会いに来たようです。相手は丞太郎様のお義母様とおば様です」
「え!あれが来たの?」
「これ。テイ!いいから支度をしておくれ」
「はい、麗華様、まず着替えましょう。さあ」
何が何だかわからないうちに麗華は自室で着替えをしていた。手伝うテイは早口に説明した。
「麗華様。ざっと説明しますね。旦那様の本当のお母様は亡くなっていて。今来ているのは後妻の則子様です。そして、もう一人いるのは、その則子様の姉の頼子様です」
「ええと、丞様の義母様のお姉様ね」
「そうです。お二人は未亡人でお子さんがいないので、一緒に暮らしています」
「ここではなく、別に住んでいるのですね」
「はい。丞太郎様のお父様が亡くなったので、お二人は別邸でお過ごしです。ええと、後ろもこれで良し、と!後はですね、お二人はそっくりで見分けが難しいのですが、おば様の頼子様は顔にほくろがあります。あとは中身もそっくりです、さあ、行きましょう」
どこか緊張しているテイを前に麗華は堂々としていた。
「麗華様、あの、何かと難しい方達ですので、どうか、お気を確かに」
他の女中たちも落ち着きがない屋敷の様子に麗華は深呼吸をした。
「ありがとう。まずはご挨拶ですね」
厳戒態勢の葉室屋敷の廊下を、麗華は静々と客間へと向かった。
「則子様、頼子様。こちらが丞太郎様の婚約者の久世麗華様です」
「初めまして。久世麗華と申します」
平坂に紹介された美麗な麗華を見た二人は、目を細めた。
「これはこれは。私は丞太郎の義母の則子です。こちらは姉の頼子です」
「麗華さん。逢うのを楽しみにしていましたよ」
まるで双子のような初老姉妹に麗華は丁寧にお辞儀をした。
「頼子様。お会いできて光栄です」
「こちらこそ。まあ、なんてかわいらしいお嬢さんでしょう……」
青と赤の色違いのドレスで着飾った二人は獲物を狙う目で麗華を見つめた。
「お姉さま。丞太郎さんのお嫁さんは可愛らしい方ね」
「ええ則子。これで私達も安心ね」
「恐れ入ります」
……本当にそっくりね。ドレスも色違いで同じものだわ。
則子と頼子は御茶を飲むと、平坂に向かった。
「平坂。例のものをお願いよ」
「相変わらず気が利かないのね」
「申し訳ございません。ただいま」
そういうと平坂はガラス戸の中の洋酒を出し、小さなグラスに注ぎ、二人の前に置いた。まだ明るい時間の酒を彼女達は一口飲み、すっと麗華を見つめた。
「ところで。結婚の経緯を伺いたいわ。私はこの家の一員ですから」
「そうですよ麗華さん。あなたの口から説明してくださいね」
「お、奥様。それは」
「平坂はお黙り!私達は麗華さんにお尋ねしているのよ!」
「お前は下がりなさい!」
高圧的な態度の前に平坂は思わず引いた。そこで麗華はまっすぐ向かった。
「私と丞太郎様の婚約は、久世の父と丞太郎様でお決めになったものです。詳しい経緯は私も存じません」
この返事に則子が洋酒を飲んだ。
「久世家は子爵家で申し分ありませんが。あなたは女学校も出ていないそうね」
「無学で教養もないなんて、よくこの屋敷にいられること」
「奥様!麗華様にそんなことを」
麗華を庇う平坂を則子と頼子はきつくにらんだ。
「平坂。執事のお前に話す権限はありません。部屋から出て行きなさい」
「則子の言う通りです。身内同士の話なのですから」
「しかし」
この時、電話が入ったたと呼びに来た。
「平坂さん、どうぞお電話に出てください」
「すみません。麗華様」
平坂は渋々退室した。麗華は二人を相手にしていた。
「さて。身内だけになったのではっきりしましょう。先に申し上げますが、貴女との婚約を私たちは認めません」
「丞太郎にはこちらでお嬢さんを用意しています、あなたよりも美しく、教養のある娘さんよ」
「そう、ですか」
……婚約に反対なのね。それを言いにきたのね。
「それにしても。こんなに貧相なんて。丞太郎は何を考えているのかしら」
「そうですよ。妹の万理華さんだったらよかったのに」
妹の名前に麗華も思わず顔を上げた。
「あら?驚いたの。あのね、万理華さんが嫁ぐ高園さんの奥様は、私達のお茶友達なのよ」
「素敵なお嬢さんがお嫁に来るって嬉しそうにしていたのに。こっちはあなたのような地味な女だなんて、葉室家の恥ですよ」
……恥、私がお嫁に来るのは恥なのね。
「すみません」
自尊心が低い麗華に二人の攻撃は続いた。
「万理華さんは書道も優れて、生け花もお茶もできるそうね」
「レース編みの作品を見せてもらいましたよ。器用で賢くて。学友もたくさんいるそうね」
「……はい」
……そうだった。私よりも万理華はいつも上手で。
久世の母はいつも麗華に同じことをさせ、そして比較し麗華を愚弄していた。万理華よりも劣っていると思う麗華は、実家時代を思い出し心が暗くなった。
「それに……何その手?荒れているじゃない。それでこの家の奥方としてやっていけるの?」
「そうね、これなら前の婚約者の方がまだましだったわ」
「え」
前の婚約者という言葉に反応した麗華を、二人は悪魔の微笑で迎えた。
「もしかして知らなかったの?丞太郎には婚約者がいたのよ」
「あなたと婚約するので破棄したのよ。まだあの女の方が良かったわね」
……そうか、そんな人がいたのね。
驚きと衝撃となぜか悲しみが襲ってきた麗華に二人は続けた。
「あなたと違って強い娘さんでしたよ」
「待って則子。同じ職場ですもの。二人はまだおつき合いをしているかもしれないわ」
「そうねお姉さま。この家はこの娘に任せて、丞太郎はあの女と交際を続けているのかもね!ホホ」
嬉しそうに笑う二人の前で麗華は口をつぐみ、胸の鼓動を抑えていた。
……落ち着いて麗華。あなたは保護されるためにここにいるのよ。
この婚約は丞太郎の温情であり、愛でも恋でも優しさでもないはずだった。麗華としても二十歳までの約束の婚約だと深呼吸の中、心を整えた。
「……ご用件はそれだけですか」
「え」
「なんですって」
「婚約の件は丞太郎様にお聞きください、私はこれ以上、お答えすることができません」
まっすぐな麗華の言葉に二人は唇をかんだ。
「私はあなたの義母になるのですよ!失礼です、今の言葉は」
「そうですよ!私達を何だと思っているのですか」
怒りが沸騰する二人に麗華は頭を下げた。
「申し訳ございません。ですが、本当に……」
気が付くと、麗華の頭に水が滴って来た。
……あれ?この香りは。
ゆっくり顔を上げると則子は空のグラスを持ち立っていた。
「あら姉さん、私、ブランデーをこぼしてしまったわ」
「そう……では拭いて差し上げたらどう?」
「いいえ、自分でやりますので」
しかし、姉妹は麗華を拭くといい、側に駆け寄った。
「あなた、これをお脱ぎなさいな」
「そうよ。さあ」
「止めてください!」
則子と頼子は麗華を押し倒し、ドレスを脱がそうとした。麗華は必死に抵抗をした。
「なにこれ!見て、姉さん、この腕」
「まあ、なんてひどいんでしょう。そうだわ、体はもっとひどいんじゃないかしら」
見てみようと目で合図した初老姉妹は嬉々として麗華を押さえた。
「離してください!誰か!誰か」
しかし二人は麗華を抑え、服を破り始めた。麗華は必死にその身を守った。
「誰か来て!助け、う」
頼子は麗華の口にハンカチを詰めた。麗華は声が出なくなった。この隙に馬乗りになった則子は麗華のドレスの背中をビリビリと破った。
つづく
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