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翌朝、天津は傍らで眠っている生子の頬を撫でてふと笑う。
「愛い子よ」
輿に乗せられて眠っていた姿を昨日のことのように覚えている。あの時はなんとも思わなかった人の子が今や天津の眷属として傍らにある。そのことが愛おしく、特別でたまらない。生子を傍らに置いて五十年余り、天津にとっては本当に短い時間だが、これまで過ごしてきたどんな時よりも特別に思える。
「なにを笑っておられるのですか?」
ふと目を開けた生子が天津の顔を見上げた。
「なれが愛しゅうてな」
「愛しいなら嫁様にしてくれますか?」
その問いに天津はくと笑う。これはもはや二人の間で挨拶になってしまったようなものだった。天津はいつも同じように答える。
「もそっと大きゅうなったらの」
「天津様のお力で器が成っても子供の姿なので、大きくなる気がしないのですが?」
透明な小さな角をなぞり、生子の青い髪を指に絡める。
「なれは童神であるゆえな」
生子はふとため息をついた。
「天津様が調整されたのではないのですか?」
「違う。神の姿は元より決まっておるのよ。なれは本来八つで死ぬはずであった。ゆえにそれ以上育つ力が身体になかったのであろう。吾は愛いてよいと思うのだが」
「赤子と区別がつかぬって仰るんじゃないですか?」
以前そう言ったことをずいぶんと根に持たれている。天津は苦笑して、生子を抱き寄せる。
「なれは特別よ」
「待てと言われて約束してから四十年以上経ったってご存知ですか?」
「まださほど経っておらぬではないか。生子はせっかちよの」
「天津様と違ってまだ六十と一つなので長い年月なのです」
天津はふと息をつく。時の流れの感じ方に大きな隔たりがあるのはどうしようもない。確かに生子にとっては生きてきた年数のほとんどを待っていたことになり、短い年数とは言い難い。
「吾にとってはなれが来た日どころか、樫が来た日さえ昨日のようなものなのだ。なれも十年前のことを最近というようになったであろう。それが百年、千年と延び、吾にとっては一万年前まで最近よ。ゆえに四十年余りで答えを出せというは性急ではあるまいか」
「天津様、年々、ああ言えばこう言うようになられましたよね。年寄り臭いです」
生子にため息をつかれて天津は声をあげて笑う。生子がそばにいるようになって話すことが増えたから老獪になってきたのは否めないかもしれない。
「そうよな。吾ほどの年寄りは地上におらぬ。相手が悪いのだ。あきらめよ、生子」
生子は再びため息をついて、天津の髪に顔をうずめた。生子はよくこうして天津の髪に顔をうずめる。いつだったか雨のにおいがして好きなのだと言われた。
「あと百年待つので、それくらいで頑張ってください。心変わりして嫌いになっても知りませんからね」
天津はくつくつと笑って生子をぎゅっと抱きしめる。
「心変わりなどされぬようにこうして腕の中に入れておこう」
腕の中で生子が笑った。この愛し子が腕の中を出ていくことなどない。そう思えることが幸せだと天津は思った。とこしえに共にありたいと願う己のわがままを生子は叶えてくれる。
千年の後、天津啓翔尊は幸美珠生子命を伴い天上へと昇って行った。この二柱の神にとって関係性の名など些末なものであったと伝わっている。
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