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翌日、天津は生子の頭をやさしく撫でてから出かけた。生子が来てから独りで空を飛ぶことがなかったから、どこか不思議な心持になりながらゆっくりと空を舞った。人の子に詳しい菊霧に話を聞きたいから彼女のもとに向かっているのだが、色々言われるだろうと思うと複雑で急ぐ気が失せる。菊霧は新しい神でまだ五千年ほどしか生きておらず、天津にとっては若い神であるのだが、新しい神の中では古く、ものの道理をよく心得ている。だから、天津の髪が一筋赤く染まった理由などすぐに気づくだろう。樫はよくわきまえているから何も言わなかったが、菊霧が何も言わずにいるはずがない。
いつものように降り立って声をかけると、菊霧は天津の顔を見るなり赤く染まった髪を掴む。
「なぜじゃ……なにゆえ天津啓翔尊ともあろうものが穢を背負う……」
菊霧の声が震えている。怒っているとも、悲しんでいるともわからない。天津はゆっくりと口を開く。
「吾は存外、愚かであるらしい」
「愚か……愚かよ。天地を創った太古の神五柱のうち一柱であるそなたが人の子の命を惜しみ穢を負うなど愚か以外の言葉が出ぬわ!」
吐き捨てるように言われて天津はため息をつく。
「わかっておる。菊霧、吾は地に永く在り過ぎたのやもしれぬ。吾以外のものらは人の子が地に満てるより前に天上へと昇ったというに吾は未だここに在る。同胞は疾く来よと吾を呼ぶが吾は行けぬ。同胞のように愛しみ合う相手がおらぬことが寂しいのやも知れぬ。生子は吾を真っ直ぐに見る。たれも、なれでさえも真っ直ぐに見ぬ吾を淀みない無垢な目で見てくれる。どうして愛しみ惜しまずにいられようか……」
天津以外の太古の神は人の歴史が紡がれ始める前に地上を離れた。新しい神が多く生まれ、彼らの脅威になるほどの強い力を秘めたものは必要ないと判断したがゆえのもので、当初は天津も共に昇ったが、何やら満たされぬものを感じて降ってきた。
地上を離れた四柱の神々はそれぞれつがいであった。地は天と、昼は夜と対を成し、愛し合い多くの神を産んだ。だが、天津は生まれ出でた時より独り神であり、彼らよりわずかに年若であった。そのことが寂しかったのだと生子と過ごして知った。
「天津……そなた、もしや……」
菊霧の目が心配そうに揺れる。天津は右ほおの文様をゆっくりとなぞる。
「吾にもわからぬ。四十六億という永い時を越えてきたというに愚かなものよ」
天津はふと息をつき、赤い髪をすぅと流す。
「この穢はすぐに祓えよう。菊霧、弱音など聞かせてすまなんだ」
「かまわぬ。生子を連れておらぬはそれが理由か」
「それだけではない。なれに聞きたいことがあったのだ」
空をゆっくりと撫でるとそこに水鏡が浮き上がった。そこに映し出したのは生子の魂だ。本来つるりとした形であるはずの魂が食い込んだ青いもののせいでゆがんでいる。
「生子は人の子ではなくなった。だが、馴染まぬのだ。故に穢を背負ってまでも加護の楔を打ったがやはり鎮まらぬ。手だてを知らぬか」
菊霧は水鏡をつうとなぞる。
「これがそなたの与えた力か」
「ああ。本来であるならこれほど生子の魂を歪ませるはずがないのだが」
「水は与えてみたかえ」
菊霧の言う水は普通の飲み水ではなく、天津が生み出す特別な水のことだ。
「与えておらぬ。なれも与えてはならぬと言うたではないか」
「すでに力を与えたのであるなら答えは同じじゃ。手ずから水を与えてみよ。薬はもう飲ませてはならぬ。そなたの力と反発しかねぬ」
「わかった。そのようにしてみよう。菊霧、菓子を分けてはもらえぬか。置いてきたせいでむくれられての。昨日から笑うてくれぬのだ」
天津がため息をつくと菊霧はくすくす笑った。
「まったく、あの天津ともあろうものが子煩悩になったものよ。包んでやろうほどに」
「恩に着る」
「次は生子に会いたいものよ」
「生子も会いたがる。いずれ連れて来よう」
天津は小さな翡翠の勾玉を差し出す。
「受け取れ」
「どういった風の吹き回しじゃ。菓子の礼ならいらぬぞ」
天津はふと息をつく。天津がほかの神にものを与えることは基本的にない。必要なものを手に入れるために等価で交換することはあっても、天津の持ち物はどれも特別で等価になることがほとんどない。交換ではなく、ただ与えるということも互いに大きな影響を受けることもあり、ついぞなかった。天津がこうして来訪するだけでも土地の力が強まり、神としての力が強まるという事実もあり、天津は礼をするという感覚さえない。どの神にとっても天津の来訪のみならず、彼に会うというだけでも有り難い特別なことだった。
「生子は五十年の間、不安定な存在になる。穢を寄せやすい美味な魂よ。ここに連れてくるにはより強固な結界が必要になる。こは吾の都合であり、与えるのではなく、貸すのだ。これがあればなれはより強い結界を簡単に張れよう」
「しかし、そなたがわらわを特別に扱い、障りはないのか?」
「ない。そもこれは吾が創ったわけではない。泉の底にあるうち吾の力を吸うただけに過ぎぬ」
天津の強い力は時として意図せず人の子の作ったものに宿ることがある。勾玉もその一つだった。記憶にある限りでは二千年ほど転がしていたが、ついに使う時が来た。
「それでも畏れるか。吾をものにしようとした菊霧媛命も大人しくなったものよ」
菊霧は四千年ほど昔の若い頃、天津の強い力に憧れ、篭絡して子種を搾り取ろうとしたことがある。天津はもとより男女の営みというものを理解しないから未遂に終わったが、新しい神が太古の神に手を出すなど尋常なことではない。だからこそ、菊霧は天津に遠慮なくものを言うし、天津も気安いと思っているのだった。
「む、昔のことを言うでない! 畏れなどせぬわ!」
菊霧は天津の手から勾玉を取りながら、胸元に入り込む。
「まだ抱かれたいと思っているのだがな」
顎を誘うようについと撫でられて天津はふと息をつく。
「吾の陽物が飾りであることを知っておろうに。それとも接吻で気絶させられたいか」
ぐいと顎を引き上げると菊霧は挑発するように笑った。
「それも一興。そなたと接吻すると気絶はするが力が強まるゆえな」
天津の力は強大であるがゆえに常にわずかずつ漏れ出している。接吻で舌を絡めれば、その力が一気に流れ込むことになり、意識を保てたものがない。ゆえに天津は女神たちに迫られてもなすがままなところがある。穏やかな気性も相まって天津は数多くの女神たちに唇を奪われてきたが、それで話が終わってしまうから天津は結局独りだった。
「なれを気絶させると覚めるまで帰れぬゆえやめておこう。生子が寂しがる」
「興覚めじゃのう。以前にもまして色気がのうなった」
菊霧は天津の首筋をつぅとなぞる。それが誘惑であるのはわかるが、なにも感じない以上どうしようもない。
「独り神ゆえ、色事がわからぬのだ。菊霧、今はつがいがおらぬのか」
菊霧のような新しい神は自由につがうことが多く、数百年に一度相手を変えたり、ずっと同じだったりする。菊霧は何度も相手を変えていて、その相手が人の子であることも多い。だが、この百年ほどは相手がいる気配がない。
「天津が本命ゆえな」
菊霧はころころと笑う。
「戯れ言はよい」
菊霧が神の子や人の子を何度も孕んでいるのを知っていて、どうしてそれが本気だと思えるだろうか。
「愛したいときに愛したいものを愛し、産みたいと思ったおのこの子を産むがわらわの幸いじゃ。人の子の命は儚いゆえな」
菊霧は度々人の子に恋をする。人として人里に暮らし、子を産み、育て、夫とした人の子が死ぬと山に戻って一年ほど泣き暮らす。子も人の子と同じで短命であるがゆえに子が死ぬまで見届けることは耐えられないらしい。
「なれも難儀よの」
「もう慣れた……だが、子を失うのだけは慣れぬのじゃ。前回産んだ子が死産での。つろうて、つろうて、もう子を産めぬと思った。以来、山を下りておらぬ。産み落とした子は百ではすまぬというのにな」
菊霧も齢五千年を超える神であるがゆえに産んだ子は多い。菊霧は神より人の子を多く生んでいる。彼らはみな、寿命をまっとうして死んでいった。血脈は残っても我が子の死は耐えがたいものらしい。特に産声を聞くことさえできなかったというのはどれほどの哀しみだろう。
生子を失ったら耐えられるだろうかと天津は考え、思わず唇を噛む。耐えられる気がしない。辛くて自ら穢を産んでしまうかもしれない。
「なれは強いの」
ぽつりと言葉が漏れだした。
「わらわが多情すぎるだけのことじゃ」
菊霧は深いため息をついて、天津の胸に触れる。
「天津よ、生子に母が欲しゅうなったらいつでも待っておるでな」
天津はくつくつと笑う。相変わらずめげない女神だ。結局また人の子に恋慕して赤子を産む日も遠くないのかもしれない。
「生子が欲しがったら考えておこう。だが、生子はあれでいて本気で吾の嫁になるつもりらしい」
「なんと、小さいながらも恋敵であったか」
菊霧はころころ笑って、天津の膝を出る。ふわりと花の香りがした。もう季節は春になる。菊霧山にも花が咲いているのだろう。
「あまり引き留めて生子に泣かれては困るゆえな」
菊霧は包んだ菓子を天津の大きな手に押し付ける。小柄で可憐な姫神の手は相変わらず小さくきれいだ。
「そうだな。感謝する」
菊霧にひらりと手を振られて天津は祠を出る。どの神も永く在るがゆえにそれぞれ複雑なものを抱えている。近頃神が増えずに消えていくように、神を見られる人の子が減ったといずれかの神が嘆いていた。神と人とがわかたれようとしているのだろうか。その時こそ、己も地上を離れるべきなのだろう。天上へ生子を連れて行きたいと思ってしまうのはわがままなのだろうか。
洞窟に帰り着くと生子がいつものように駆け寄ってきた。抱き上げると心なしか体が熱い。頬も上気していて、目がぽやんとしていた。
「生子、加減がようないのか?」
「ご心配頂くほどではありません」
そうは言ったが、預けてきた身体にいつもより力がない。具合が悪いのは確かなのだろう。けれど、生子は健気にも隠そうとすることがある。天津はそれが不憫でならなかった。生子をやさしく抱きしめて、盃を取る。軽く息を吹きかけると朱塗りの盃はきらきらと光る水で満たされた。
「飲め」
受け取ろうとした生子の手を止める。この手で飲ませてやらなければ意味がない。盃を満たす水は天津の手を離れると消えてしまうものだ。
「飲ませてやろう程に。こは特別な水。すぐにようなる」
生子の唇に盃を添え、ゆっくりと傾ける。生子は静かに水を飲む。なかなか重くなってくれない愛し子がこれで少しでも元気に過ごしてくれたらと天津は願わずにいられなかった。生子がふわと笑った。
「天津様、もうどこも苦しくありません」
「よき、よき」
天津は大きな手で生子の頭を撫でる。菊霧が言った通り、力が馴染んでいる。毎日繰り返せば完全に馴染み、次の玉を与えられるだろう。急いてはいけないことはわかってはいるが、できるだけ早く生子を神にしてしまいたかった。このままではいつ儚くなるかわかったものではない。
「天津様が大好きです」
きゅっと抱き着かれて天津はふと笑う。
「吾も大好きぞ」
生子は嬉しそうに笑った。これほど誰かを愛しめると己でも思っていなかった。
「菊霧から菓子をもろうた」
「うれしいです」
包みを渡して下ろしてやると、生子は菓子を棚に置いて手を洗いに行った。
「樫、生子は加減がようないようだったが、吾の気のせいか」
「天津様がお帰りになるまで頭が痛いと言って横になっていました。飛んでいる姿が見えたので起きて待っていたのです」
「そうであったか」
やはり無理をしていたのかと思うと複雑だった。ぱたぱたと戻ってきた生子は嬉しそうに包みを開けている。今日は餅菓子のようだ。天津は霞を食って暮らしているから、生子が甘い菓子を喜ぶ気持ちというものがよくわからない。けれど、菊霧が与えるそれを喜んで食べる生子はかわいく、これが甘露なのかとも思う。
これまで天津にとって酒以外の供物はどうでもいいものだった。酒以外は世話役に処分するように言いつけていた。世話役たちがそれをどうしていたのかは知らないが、今は生子に食わせるために置いている。時に樫が用立てるのを見て、不思議にも思った。
天津が酒を好んだのは、うまい不味いではなく、眠れるからというのが理由だった。天津の眠りは浅く、短いものだった。特にこの千年ほどはぐうたらで眠っているふりをしているばかりで酒を飲まない日は眠れなかった。樫に呆れられても、ため息をつかれても酒が手放せなかった。
だが、生子を愛しむようになってからはよく眠れるようになった。結局己は寂しかっただけなのかもしれない。
「生子は吾のもの……」
思わずつぶやいて唇をなぞる。うっかりと言霊で生子を縛ってしまうところだった。天津が使う言霊は一度で絶対的な力を持っている。高位の神でさえ断ち切れぬそれを生子にかければ本人の意思とは関係なく、永遠に縛ることになるだろう。天津はそんなものは望んでいなかった。天津が欲しいのは偽らざる心だ。
「天津様、どうかされたのですか?」
生子に見上げられて天津はふと笑う。
「なんでもない。菓子はうまいか?」
「はい、とっても」
「そうか」
生子の頭を大きな手で優しく撫でる。嬉しそうに笑ったその顔が愛おしい。
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