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呼ばれている気がして生子は目を覚ました。そこは天津の腕の中だった。不思議なほどあたたかくて生子は朧に笑う。生子が広い胸に手を添えて見上げると天津はほっとしたように笑い、水を飲ませてくれた。甘い水はこれまで以上に生子の身体にすうと吸い込まれていくようだった。
「苦しいところはないか?」
「はい、もうすっかり。とても長く眠っていた気がします」
「七日ほどで眠っておった。よう、がんばったの、生子」
かき抱くように頭を撫でられて生子は幸せだと思う。苦しみを乗り越えて、天津がまた近くなったような気がする。
「天津様、私の姿はどこか変わりましたか?」
天津は生子の長い髪をさらりとすくい上げる。
「髪が一房、吾の色に染まった」
「うふふ、うれしいです。大好きな天津様とお揃いです」
「そうだな、揃いだ」
広い胸に頭を預けてほっと息をつき、空腹も感じたが、それよりも体がべたつくことに気が付いた。
「天津様、お離し下さい。私汗やらなんやらでべたべたしてます。臭くありませんか?」
「気にはならぬが、禊をした方がよかろうな」
のんびり答えた天津は下ろしてくれない。見た目は幼子のままだが、生子は年ごろの娘で、好いた相手に汚れたまま抱かれているというのは由々しき事態だった。だが、身体にうまく力が入らず、自力で腕の中を出られそうにない。
「天津様、早く離してください」
もう一度言うと天津は膝から出してくれたが、なぜだか立つことができずに崩れ落ちる。
「あれ?」
「力が馴染まぬのか、寝ていた時間が長すぎたのか……」
天津は大きな手を生子の身体に滑らせる。
「両方のようだの。時が経てば元に戻ろう」
天津は生子を抱き上げて泉に連れて行ってくれた。
「禊は手伝うものを呼んでやろうほどに」
天津が呼ばわると初めて見る木の精霊が姿を見せた。肌が浅黒く髪が木の葉と同じ色をしているのが彼らの特徴だ。冬になるというのに髪が緑色をしているところを見るに常緑樹の精霊のようだ。
「檜という。まだ若く、年のころがなれと似ておるゆえ、なれの世話役に選んだ。仲ような」
「はい」
檜は女性のように見える。樫が男というわりにずいぶんと中性的だったから木の精霊に男女はないのかと思っていたがそうでもないのかもしれない。
「よろしくお願いいたします、生子様」
様をつけて呼ばれたことに戸惑ったが、彼女からしたらそれが自然なのかもしれない。
「こちらこそお願いします、檜」
「檜、生子は足が立たぬ、禊を手伝うてやってくれ」
「承知いたしました」
天津はそのまま去って行った。急に世話役をつけてくれたのはどうしてかわからないが、今はありがたい。
「年の頃が同じというのは?」
袴を脱がせてもらいながら問うと檜は小さく笑った。
「私は精霊になってまだ数十年。人の子の成長と照らし合わせればだいたい同じくらいの年という意味です。樫が生子様は年頃なのに男所帯では心配と私が呼ばれました。本当は一年前には話が来ていたんですけど、遅くなってしまって三日前からお勤めさせていただいています」
「そうなのですね」
身近に似た年ごろの女性がいるというのは確かにありがたい。天津ではわからないだろうところを樫が気にしてくれたようだ。
「でも、私のすることは本当に少なそうですね」
檜は髪を洗いながらくすくす笑う。
「天津様の寵があれほど深いとは思いませんでした」
生子は思わず顔を赤くする。目が覚めた時、腕の中にいたということは眠っている間もずっと抱きしめてくれていたということだろう。その姿を見られたなら檜の言は妥当だとしか言えない。
「恥ずかしいです……」
「お気になさらず」
檜は生子の髪を洗い、身体も隅々まできれいにしてくれた。
「ここだけきれいな瑠璃色なのですね」
髪を丁寧に梳いていた檜が不意と言った。
「天津様のお力で染まったのです。この目も」
「天津様の寵が深いのですね」
「そうだったらいいと思います」
「そうに決まっています。そうでなくて力をお与えになるはずがない。生子様が眠っている間も本当に愛おし気に抱きしめていらっしゃいましたよ」
生子は思わず顔を赤くする。天津の愛が深いのはわかる。だが、どう思われているのかまではよくわからない。
「天津様の考えておられることがよくわからなくて」
檜はくすりと笑って化粧の道具を出した。
「天津様が誰かを大事にするのは初めてのことらしいです。樫や、楠のおばば、杉のおじじも驚いていました。一番長く生きている杉のおじじでも四千年しか生きていないので天津様の全部を知っているわけではないですけどね。でも、私たち木の精霊は必ず一人は世話役としてお仕えしてきて口伝で天津様のことを知っています。それが総じて二万年ほど。でも、天津様が気まぐれ以外でお水を飲ませたのは生子様だけなんだそうですよ」
檜はそう言いながら生子の顔に朱で化粧を施した。
「よし、できた。天津様は絶対にこれを消しますよ」
檜はまたくすくすと笑った。
「どうしてですか?」
「神々は愛する者に自分以外が化粧をするのを嫌うんです。神々が他者の化粧を嫌うのは加護の力が弱まるからというだけでなく、愛の印だからだと聞いています。だから天津様が消されないはずがないんです」
「そう、なのですね……」
消されなかったらどうしよう。わずかに不安に思ったのを感じ取られたのか、檜は優しく笑ってくれた。
「大丈夫ですよ。髪も整えてしまいましょうね」
檜は青く染まった髪がよく見えるように整えてくれたらしい。振分け髪を夾形で結った総角に青い花飾りを飾ってくれた。美豆良は年齢に照らし合わせればずいぶんと幼くなってしまっていたから生子は少しうれしくなる。そう言ったところは結局天津も樫もわかってはくれなかった。衵もこれまでの子供っぽい色ではなく少し落ち着いた雰囲気の色目だ。
「いかがでしょう?」
「素敵です。天津様はいつまでも私を幼子だと思っていらっしゃるから年相応にしてもらえてうれしいです」
檜は小さく笑う。
「天津様でなくとも、生子様はお小さいから少しは仕方がないかとは思いますけどね」
「それは諦めています」
生子はふとため息をつく。七つのころからほとんど伸びていない身長にほとんど変わらない顔なのだ。ふっくらした分むしろ幼く見えるようになったかもしれない。天津の力を受け入れ続けたらいつか大きくなるかもしれないと淡い期待を抱いてはいるが、可能性は低そうだ。
「さ、参りましょう、生子様」
檜は生子を抱き上げて、天津のところへ連れて行ってくれた。だが、生子の顔を見て、天津が表情を変えた。
「檜、勝手をするでない」
その声は氷雨のように冷たかった。檜はすぐに濡らした手拭いを差し出す。
「差し出た真似をいたしました」
「よい。二度目はないと思え」
天津は明らかに怒っていた。天津が怒っているのを見るのは初めてで、生子は腹の底が冷える思いがした。檜は生子の比ではないだろう。こうして怒りを買うとわかっていてもしてくれた檜の心遣いがうれしい。
天津は化粧を落とし、いつものように爪で化粧をしてくれた。その化粧が温厚な天津が怒るほど特別なものであると知ればなおさらうれしく、愛おしい。
「生子、吾以外に化粧をさせてはならぬ。よいな」
「はい、天津様」
「なにを笑うておる」
「いいえ、なんでもありません」
うれしくて顔に出てしまっていたらしい。
「さて、腹がすいておろう。樫がなにやらできたと言っておった」
樫は生子に気付きすぐに膳を運んできてくれた。
「生子、元気そうで安心しました。精がつくよう玉子の粥と芋の汁を作りましたから頑張って食べるのですよ」
「はい、樫様。いつもありがとうございます」
「いいんですよ」
樫はいつものように優しく頭を撫でてくれた。生子は手を合わせて粥を食べる。温かい食事で体の中からほわりとあたたかくなった。
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