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二日ほどで生子の足は力を取り戻した。前回とは違って睡眠が増えるということもなく、あっという間に元通りだ。以前より体が軽くなったような気さえする。
「生子、雨を降らせに参る」
「はい」
そばに行くといつも通り抱き上げて肩に乗せてくれた。ふわりと浮き上がる感覚がしたかと思えば、天津はすでに龍の姿に戻っていた。空へと昇っていく間、生子は天津と共に風になったように錯覚する。生子は青いたてがみをかき分けて、角につかまり、地上を覗き見る。地上はすでに遥か彼方で、天津が通り抜けた雲はどれももくもくと大きくなっていた。どんなに小さな雲も天津が触れるだけで大きな雨雲に変わる。なにも雲がないところに天津が息をふうと吐くとそこにあっという間に雨雲が生まれた。空の大半が灰色の雲に覆われたころ、天津は不意と速度を落とした。
「生子、あの雲に触れてみよ」
生子の手が届くところに小さな千切れ雲があった。簡単に吹き散らされそうなほど朧な雲は触れるとわずかに色を濃くした。
「ふむ、それが限度か」
天津の身体がうねり、また空を進み始めた。先ほどの雲は天津の身体が触れ、大きくなった。先ほどのあれは何だったのだろう。なにか意識したわけではないのに、天津のように雲を大きくできたような気がする。
「生子、なれもいずれ吾と同じ水神となる。今はわずかな力しかないが、いずれ雲を大きくすることもできるようになろう」
「私が水神に?」
器が成れば神になるとは聞かされていたから知っていたが、水神になるとは知らなかった。
「吾が力を完全に受け入れなばそうなる。吾と共にあることでしか力を使えぬ半ツ神ではあるがな」
「そうだったのですね。私は天津様の一部になるということですか?」
「そうとも言えるな。いやか」
「いいえ、うれしいです。私は天津様のおそばにずっといます」
生子は天津の大きな身体に抱き着く。天津が喉の奥で笑ったのか、ゴロゴロという音が聞こえた。それは雷の音にもよく似ている。
「耳を塞いでおれよ」
天津の身体がぐるりと渦を巻き、高く舞い上がった。直後、あたりから雷鳴が轟き始めた。雲より上で聞く雷鳴は特別大きく、耳をつんざくようだ。耳を塞いでいても関係ない。天津は満足するまで雷を落とし、雨を降らせ始めた。雷を落とすことにもまた意味があるのだという。大地に刺激を与え、揺るがし、植物を芽吹かせる。天津はまさしく自然の一部そのものだ。
「生子よ、吾が恐ろしいか」
天津は時折確かめるようにそう聞いてくる。力を受け入れてからひと月も経っていないからなおさら思うところがあるのかもしれない。
「いいえ。ただ、ちゃんと教えて下さらないことが多いのが不満です」
「教えておらぬこととはなんだったか……」
とぼけているわけではなく、本当にわからないのだろう。天津は意図してそうしているわけではなく、本当に気づいていないことも多い。
「どうして私をそばにおいてくださると決められたのかさえ知りません」
「そうであったな」
天津はゆっくりと下降を始めた。雨雲を抜けると雨がしとしとと肌を濡らす。生子は天津のたてがみの中に隠れる。天津は水神ゆえか、雨に濡れるということがない。
天津は降り立つ直前で人に姿を変えた。大きな湖に浮かぶ小さな島には天津が龍の姿で降り立てるほど広さがない。小さな島にはこれまた小さな社が立っていた。神の住む社ではないようだ。天津は生子を下ろして扉を開けると身体を屈めてどうにか中に入る。生子も手招かれて中に入った。
社の中央にはぽっかりと穴が開き、満々と水を湛えていた。湖の水が流れ込んでいるのだろうか、魚が閃いているのも見える。だが、底は真っ暗闇で何も見えない。
「ここは?」
「ただの社よ。不思議に人の子は神を見ることがある。小さき島にぽかりと開いた深き穴。魚が住むのに底がない真っ暗闇。人の子は畏れて社を建てた。ただ深いだけでなにもないというに。人の子というのは不思議なものよ」
天津はふと息をついて腰を下ろし、生子を隣に座らせる。水中に下ろされた天津の足は龍のそれに戻っていた。
「この穴は吾の心の裡に似ているゆえ連れてきた」
水の中で天津の黒い身体が揺れる。
「四十七億ほどの昔、吾は独り神として生まれた。なれど、その時からここにずっと黒き穴が開いているような心持がするのだ。なにかが足りないことはわかるのに、なにが足りないかがわからず、ただ存在してきた。この穴を埋めるものもいずれわかるだろうと生きとし生けるものが地に満てるのを言祝いだ。なれど、穴は埋まらぬまま大きくなるばかりで、吾は倦み、疲れぐうたらになった」
天津の心に開いた黒い穴はきっと人であったらとうに飲み込まれてしまうほど、大きく暗いものなのだろう。
「生子、なれがその穴を埋めたのだ。なれがそばにあるうち、知らぬ間に穴はふさがり、吾は正しき神として立ち返った。吾はなれを失いとうない。そう強く思うようになった。ゆえに吾はなれを生かすことに決めた。生子、いずれ天上に去るとも、吾と悠久の時を生きてくれるか」
生子はふわと笑う。これほど思われて是以外の言葉があるだろうか。
「私は天津様と参ります。どこへでも、いついつまでも」
ふとほほ笑んだ天津に抱きしめられて生子は幸せだと思った。
「天津様と共にあるためならどのような苦しみも喜んで受け入れます。だから、苦しんでいるときに許せと仰るのをやめてはいただけませんか?」
「吾が弱き神であったならあれほどの苦しみを与えずに済むと知らば、どうしても、な……」
天津はひどく複雑そうに笑った。
「でしたら、許せと仰りそうになったら口移しでお水を飲ませてください。ずいぶん楽になったのです」
「そうしよう。吾と唇を重ねて昏倒せなんだはなれが初めてだな……」
天津がぼんやりと呟いたのを聞いて生子は顔を真っ赤にする。口移しは接吻とほぼ同義だということが頭から抜け落ちていた。ついねだってしまっただけで、天津も意識していないらしいが、おかしなことを言ってしまった。それよりも気になったのは天津に接吻の経験がほかにもあるらしいことだ。独り神として生まれ、ずっと一人だったと言ってはいなかっただろうか。それに檜や樫に聞いた限りでは天津が男女の関係に至った女神もいないらしい。どういうことなのだろう。
「天津様はそんなに接吻の経験がおありなんですか?」
天津はひどく気まずそうに視線をそらした。何か理由がありそうだ。ぐっと覗き込むと天津は重い口を開いた。口を滑らせただけで言う気はないことだったのだろう。
「永く在るゆえな……力を欲する女神が吾とつがいたがることがある。自ら唇を重ねたは生子だけよ。深くは聞くな……」
天津が想像以上にしどろもどろになったのを見て、生子は思わず笑う。天津は思っていた以上に不器用な神であるらしい。
「天津様、それに偽りがないなら接吻をください。あの時はなにをされているか気付いた時には離れられてしまったのでよく覚えていないのです」
天津は長い指で生子の唇をすっとなぞる。
「やらぬ。生子を愛しゅう思うてはおるが、そういった意味での情はない」
生子はむっと唇を尖らせる。わかってはいたがやはり天津にとって自分は子供でしかないのだろう。
「天津様は以前、私を嫁様にしてくれると言いました! 私はもう十四。村では結婚する者もでる歳のころです!」
わがままだとわかっている言葉が止めきれずに口からこぼれだす。ふと笑った天津に額と額を合わせられて生子は何も言えなくなる。
「もっと大きゅうなったらの。まだなれは赤子と区別がつかぬ」
想像もできないほど永い時を越えてきた天津の言うことがわからないわけではない。けれど、これから永い時を共に超えるために、まだ苦しみに耐えなければならないのに曖昧な言葉では耐えられそうにない。
「天津様の意地悪……」
目に涙が浮かぶ。困らせるだけだとわかっているのに止まれなかった。そもそも天津はそんな感情を持ち合わせていないかもしれない。それでも天津の本心がどうしても知りたかった。
「生子は、生子はまだ赤子だから、言葉にしていただかないとわからないのです……」
「ゆ、許せよ、生子。言葉が過ぎた。愛しておる。愛してはおるのだ。だが、己の感情さえなにものやもわからぬ吾を待ってはくれぬか……人であったなれにとってはすでに長い年月が過ぎたやも知れぬが、吾にとっては瞬きの間とさほど変わらぬよって……」
必死に言葉を重ねる天津に抱きしめられて生子はふわと笑う。不器用な神がちゃんと自分を愛してくれていることがひどくうれしい。今はそれで十分だ。生子は涙を拭って顔を上げる。
「わかりました。天津様が話してくださる時までお待ちいたします。約束ですよ」
天津は困ったように唇をなぞる。
「神の約束は至極重いのだ。簡単にしてよいものではない。破ればどちらかの命が無くなる。それはおそらくなれの命になる。約束はできぬ」
「天津様は約束をお破りになるおつもりなのですか?」
「そういうわけではないが、なれが吾を待ちきれぬのではないかと」
「私はちゃんと待ちますから約束してください」
天津はなかなか口を開かない。
「やっぱり嫁にできない、子供でいろって言われても泣きませんから約束をください」
天津はふと笑って生子の頭をやさしく撫でる。
「約束しよう。答えが出たら必ず話す」
「はい」
生子はふわと笑って天津に抱き着く。約束をもらえたことがうれしい。
「大好きです。天津様」
「吾も大好きよ、生子」
突然抱き上げてくれた天津が水中へと沈む。
「え?」
そのまま水中に引きずり込まれて生子は慌てる。泳いだこともなければ、潜ったこともない。水中で息ができるはずもない。
「生子、大事ない。なれは半ばとはいえ吾の眷属。息ができる」
いつもと変わらない天津の声が聞こえて、生子は落ち着いて目を開ける。息は苦しくなかった。見上げれば、先ほどまで座っていた場所が見える。水面がきらきらと輝いてひどく眩しい。
「きれい……」
「水底から見る水面はきれいであろう。吾は胸の底にある闇を恐れ過ぎていたのやも知れぬ。実はこの穴、外に通じておるのだ。吾の心の穴はなれに通じておるのやも知れぬ」
それを言うためだけに突然引きずり込まれたようだ。せめて教えてからにしてほしかった。だが、水中で見る天津は青い髪が揺らめいてなお美しく見える。狩衣をまとった仮の姿が神秘的に見えるのは気のせいではない。二度天津の力を受け入れたからこうして新しい世界を見られたのだと思うと悪くないとも思う。
天津は生子の手を引いて歩き始めた。地上にいるときと同じように天津は動く。生子はどうしても浮かんでしまうし、汗衫や髪は絡んでしまうしで、早々に自分で動くことをあきらめた。天津にとっては水中も地上も同じのようだ。底につくと天津は洞窟を通り抜け、また浮上し始めた。深さで、少しずつ水の色が違うように見える。泳いでいる魚も違うようだ。これが天津の見せたかった水の世界なのだろうか。
「吾は空を飛ぶ次にこうして水中を散歩するのも好んでおるのだ。美しかろう」
そう言って笑った天津の顔がひどく眩しく見えた。
「はい、とっても。でも、なんだか、息が苦しいです……」
「なんと、まだそれほど持たぬか」
天津は龍の姿に戻り、一気に浮上する。生子は空気を胸いっぱいに吸い込んで息をつく。
「まだ天津様とゆっくり散歩できるほどではないようです」
「そのようだな」
湖の岸辺に下ろしてくれた天津は人の姿になったが、やはりまったく濡れていない。だが、生子はずぶぬれで汗衫が重く、動ける気がしなかった。これは天津が水神だからというよりも、その姿が実体のある幻でしかないからかもしれない。
「天津様、わがままを言うようで申し訳ないのですが、すぐに着替えたいので連れ帰っていただいてもいいですか?」
いくら季節が夏とはいえ、こんなずぶ濡れでいては体が冷えてくる。天津には考えが及ばないところだったらしく、はっとした顔をしてすぐに連れ帰ってくれた。
びしょ濡れの生子を見て、天津は樫に叱られ、檜がすぐに着替えさせてくれた。十分にあたたかくしてくれたが、生子は熱を出した。天津はずっとしゅんとしたままそばにいてくれた。
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