龍の愛子

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 一時と経たずに天津は帰ってきた。予想外の早さに鳥たちが間に合ったのかと喜んだのもつかの間、天津の腕の中で生子が菓子を食べていた。菊霧媛命は菓子をよく作っているからそれだろう。もはやこれまでと樫は肩を落とす。 「樫、いかがした? 菊霧の菓子ならなれの分もあるぞ」  天津は小さな包みを差し出してきた。落胆して肩を落としたのを菓子がもらえなかったせいと勘違いされたらしい。霞を食って暮らしている天津には食というものがよくわかっていないからズレたことを言われるのは日常だ。 「そうではありません。天津様、その幼子は勘違いでここへと連れて来られたもののようです」 「さようか」  反応はひどく薄い。理解していないのか、理解する気がないのかわからない。樫は手紙を差し出す。 「これをお読みください」  天津は手紙を読み終えるとそのままぱくりと食べてしまった。 「吾に捧げられたものであることは変わらぬ。障りはない」 「人の子は親元で暮らすのが幸せというものにございましょう」 「わからぬ」  天津の声は氷雨のように冷たかった。 「この生子、吾の目付だと己で言うた。目付であるならそば近く置かねばなるまいて」  ころころと笑って生子を下ろすと懐から布団や茶碗といった人の子が生活に必要なものを出し始めた。人の暮らしに詳しい菊霧に用立ててもらったのだろう。ここを出るときは遊んだら帰すような口ぶりだったのに、まったく神というものは理解できない。どこにそれほどの大荷物が入っていたのだろうというほどの荷物を出して天津は生子の前にしゃがんだ。 「生子、吾はこれらの使い方を知らぬ。己でうまく使えよ」  生子は見るからに幼い。自分でどうにかしろなどといってどうにかできるはずがない。樫は口を開こうとしたが、生子がそれらの道具をてきぱきと並べ始めたのを見て、口を閉ざす。驚いたことに生子は天津を顎で使って重いものを動かすことまでしている。樫が戸惑っている間に生子は自分が生活するための空間を作り上げた。 「うまいものよ。ようやった生子」  天津の大きな骨ばった手で頭を撫でられ、生子は得意げに笑う。ずいぶんと賢い子供のようだ。 「樫、吾はもそっと寝る。生子にここらのことを教えよ」  やはり丸投げかと思っている間に天津は龍の姿に戻って眠ってしまった。生子は天津が龍の姿でも怯む様子はない。すでに空を飛んできたのなら今更怖がるのもおかしいとは思うが、並の神経ではなさそうだ。 「樫様、ごきょーじゅくださいませ」  舌足らずの声で言われて樫はため息をつく。放っておけるはずもない。 「生子、あなたはいくつですか?」  生子は一度五本指を立ててから、もう一本足した。 「六つでございます」  六つといえば生まれて五年ほどだろうか。まだまだ幼いのにずいぶんとしっかりしている。 「お腹は減っていますか?」 「菊霧媛様がたんと食べさせてくださったのでお腹いっぱいです」  先ほど手に持っていたのは餅菓子だった。とりあえずは問題ないだろう。しかし、生子は神の食を口にしてしまった。もう村に帰してやることはできない。天津が気まぐれに手ずから水など飲ませれば、生子がなおさら人から遠ざかるのは間違いない。天津は困ったことにあまり考えもせず力のこもった特別な水を与えてしまうことがあるから、樫やほかの精霊たちがひっそりと始末をつけてきたが、今回はそうもいかないだろう。成長が早まったり、止まったりすることもあるかもしれない。女児であることが幸運とも不運とも言い難い。天津が何を考えているかさっぱりわからないが、生子を育てるほかないだろう。 「必要なものがあれば天津様ではなく、私に言ってください。水はあちらの小さな滝のある泉のものを飲むように。あちらの淡く光っている泉の水は絶対に飲んではいけません。触れてもいけません」  この広い洞窟は水の神たる天津がねぐらにしているだけあってきれいな泉が二つある。一つは湧水が小さな滝となって流れ込む泉。樫やほかの精霊たちも飲用し、禊にも使うほど清浄だ。だが、淡く光る泉は得体が知れない。としか樫にも言えないものだった。天津の力の影響を受けているのは確かなのだが、異界に繋がっているとも、天津の力の源が沈んでいるとも言い伝えられている。 「なぜですか?」 「天津様が落とした玉が沈んでいるのです。触れただけでも吸い込まれ、飲み込めば命を落とすと聞いています」  小さく息をのむ音がした。これくらい脅かしておけば間違えて触れることはないだろう。 「わかりました」 「ほかに聞いておきたいことはありますか?」 「天津啓翔尊様をお起こしする方法は?」 「そのようなことを聞いてどうするのですか?」  予想していなかった問いに樫は思わず問いで返してしまった。 「生子は天津啓翔尊様に忘れずに雨をお降らし頂くための目付に参ったのです。お起こしできたら雨を降らせると天津啓翔尊様は仰いました」  天津の目付と言ったのは本気のことのようだ。村人たちの苦肉の策と言い換えてもいいのかもしれない。 「天津様をお起こしするのは簡単ではありませんよ。あなたならお体に乗って飛び跳ねるくらいしてちょうどでしょう」 「そのようなことをしてお怒りにならないのですか?」  当然の問いに思わず苦笑いを浮かべる。天津の長大な身体は厚い鱗で覆われており、蹴られても、乗られて飛び跳ねられても痛くはないらしい。それに生子のような幼子は軽く、乗られても気付きさえしないのではないかと思えてならない。 「天津様はおおらかな方ですから……おおらかすぎてお怒りになることはほとんどありませんし、眠られるとなかなか起きられません」 「それで雨を降らせるのもお忘れになるのですね」 「ええまぁ……誰も及びもつかないほど長く生きておられるので時間の感覚があいまいなのです」  生子は不思議そうに小首を傾げる。 「樫様はもしかして天津様よりお若いのですか?」  神や精霊は姿からは年齢がわからない。天津は比較的若い姿を取っている。だが、梳かすことのない天津の髪はたてがみそのままにもつれてもさもさと広がり、顔にもかかっているからなおさらわからない。対して樫はそば仕えにふさわしくしっかりと髪を整え、本体とする木の老いに準じた姿をしているから天津より老けて見える。それでも天津と比べれば赤子ともいうべき程に若い。 「木の精霊というものは百年で生るのです。私はまだ五百と三十四。天津様は億より長く生きておいでです」 「おく?」  生子は一生懸命指を折り始めたがわからないらしい。幼子には到底理解できない年数だろう。樫は苦笑して口を開く。 「とにかくたくさんです」  生子は赤い目をぱちくりさせながら小首を傾げる。天津の言う通り愛らしい子供だ。手のかかる子供が一人増えたが悪くないかもしれないと樫は思った。
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