龍の愛子

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 最初のうちこそ慣れないこともあり、ごたごたしたが、一週間とかからずに生子がいる日々が自然になった。生子は賢く、気遣いのできる子で樫の手伝いをよくしてくれた。あと何年かして大きくなれば食事の支度も自分でできるようになるだろう。そう考えると天津よりよほど手がかからない。  それに何より一番大きく変わったのは天津だ。眠れば起きない、起きれば寝ない。朝も夜もわからないような暮らしをしていた天津が夜に眠り、朝に目覚めるようになったのだ。しかも生子と仲良く添い寝をしている。さらにいうなれば、生子をかわいがるためだけに人の姿に変化している時間が大半になった。天津にとって人の姿でいるのは窮屈なものであって、必要がなければ龍の巨体をいつでもうねらせていたというのに信じがたい。  そのかわいがり方が人の子と同じかはさておいても尋常な扱いではないのは事実だった。雨を降らせてほしいと頼まれれば生子を背に乗せて空に行って、雨を降らせ、雨を降らせるでなくても背に乗せて空を飛ぶ。ねぐらにいる時間も膝に入れて何やら教えている。それはまるで我が子をかわいがる父親のようでもあった。  最初のうちは人の子が珍しいだけかと思っていたが、二年過ぎても大切にしているあたり、気に入っているらしい。生子のおかげでぐうたらだった神がきっちりと仕事をするようになったから日照りや洪水も起きなくなった。生子が天津の目付と言うのは大げさでもないのかもしれない。  ただ、もとより小柄な生子の成長が遅いらしいことを樫は心配していた。白子であるがゆえに根が弱いのかもしれない。だが、天津はまったく気にしていないようだった。太古の神である天津には見えるものがあるのかもしれない。 「生子、菊霧の祠に参る」 「私もお連れください」  生子はいつものようにぱたぱたと走って行ってぴょんと跳ねる。天津は生子をひょいと抱き上げると肩に乗せ、長い髪で包み込んだ。 「樫、夕刻には帰る」  樫の返事を聞く間もなく、天津は龍の姿に戻り、空へと舞いあがって行った。  天津の背で生子が楽しそうにきゃらきゃらと笑った。 「しっかとつかまっておれよ」 「はい、天津様」  生子がたてがみをしっかりつかんだのを感じて風よりも速く飛ぶ。川のほとりにある天津の住まう洞窟から菊霧の住まう菊霧山はそれほど遠くない。だが、菊霧山の周囲には人里が多くあり、かの女神が人の子に愛される女神であることを如実に物語る。  天津の洞窟の周囲には当然ながら人の子は住まっていない。いつ洪水で流されるかわからぬ土地に住まわぬのも当然ではあるのだが、天津が特別畏れられる神であるというのは揺るがしがたい事実だった。そんな天津に純粋に懐き、無垢な目で真っすぐ見つめてくる生子は珍しく、愛おしかった。  菊霧媛命の祠の前に降りながら人の姿に変化する。天津は身の丈十丈を越える大層大きな龍であるから、空やねぐら以外では邪魔にならないように人の姿を取るようにしている。けれど、その変化が下手なことは並ぶものがない。 「菊霧、おらぬか!」  雷鳴のように轟く低い声で呼ばわれば、ため息が聞こえてきた。 「天津よ、大声を出す前に下を見るということを覚えてくれんか」  なじられて天津は視線を落とす。花萌黄の小袿をまとった菊霧媛命がそこに立っていた。小柄で可憐な姫神は困ったものだというようにため息をつく。背の丈が二尺以上違うせいか、天津はいつも菊霧を見失ってしまう。生子のことは踏んでしまわないように気を付けているから見失わないのだが、なぜだか彼女はどうしても見失ってしまう。 「許せ、菊霧」 「よい。そなたが静かに訪ねてくることこそ恐ろしい。生子は一緒かや?」 「菊霧媛様、生子はここにいます」  生子が天津の髪の中から顔を出した。 「元気そうじゃの」 「はい、菊霧媛様が下さったお薬のおかげです」  元気に答えた生子を下ろしてやると、いつものように菊霧のそばに行く。 「今日も菓子があるゆえな」  彼女はいつものように生子を祠の中に連れて行き菓子を与えた。生子は菊霧の菓子が大好きだ。 「生子はいくつになったのじゃ?」 「八つになりました」  指を八本立てた生子の頭を菊霧は優しく撫でる。幾多の子を産んだ女神は幼子が愛しくて仕方がないというような優しい視線を生子に送っている。 「天津に水をもろうてはおるまいな?」  生子はわからないというように小首を傾げる。 「与えておらぬ。与えるなと言うたはなれであろう」 「与えておらぬならよい。生子が愛しければ努々与えるでないぞ」 「わかっておる。樫にもよう言われるゆえな」  ここに来るたび同じ忠告を聞く。しつこくて耳にタコができてしまいそうなほどだ。けれど、それほど言われるということは破れば惨事が起こるのだということだけはわかる。人の子のことはよくわからない。菊霧の忠告は聞くようにしていた。 「二年……ぐうたらなそなたにしてはずいぶんと続いておるな」 「生子は愛い」 「そなたがかような心を持っておるとは思いもせなんだ」  菊霧はころころと笑う。 「吾が人の子を愛でるはそれほどおかしいか」 「そなたはぐうたらで人の子を星の数ほども殺めたではないか」  天津は何も言い返せずに押し黙る。日照りや洪水で失われた命は少なくない。天津に傅く木の精霊が少ないのも相応の働きをせず、木が育つ前に枯らしてしまうせいだ。 「天津様はおやさしいですよ、菊霧媛様」  菊霧はくと笑って天津の膝にちょこんと座っている生子の頭を撫でる。身の丈七尺を越える天津の膝にいると生子はますます小さく見える。 「そなたにはそうじゃろうて」 「私はおやさしい天津様しか知らないのでわかりません」  菊霧はころころ笑って菓子をもう一つ与える。生子はすでに一つ目を食べ終わっていた。 「天津が愛でる気持ちはわからんではないがのう」 「生子、あまり菓子を食うては夕餉が入らなくなる」 「なら、これは樫様にお土産にします」 「包んでやろ」  菊霧は菓子を筍の葉で包み、生子に持たせる。ぐうたらで神の務めさえろくろく果たさずにいた天津が親のように生子を育てているのは自身にとっても意外なことだったが、このまま続けばよい神に立ち返れるだろう。しかし、人の子の命は短い。特に生子は弱いように感じる。周囲の者らはいずれ生子の時を止め、つがいとして迎え入れるべきだと言ってくる。だが、天津にはそうしたくない、そうできない事情があった。力の強い天津にだけ見えている悲しい現実がそこにある。失いたくないと思う気持ちはあれど、あまたの命をあたら無駄にした己が我を通してよいものかわからずにいた。 「菊霧、薬を分けてくれぬか」 「用意してある。ちゃんと毎日飲ませておるようじゃな」  菊霧はいつも七日分しか薬を分けてくれない。時間の感覚が曖昧な天津が飲ませ忘れたらわかるようにという気遣いだった。菊霧の作る薬は身弱な生子を病から守り、元気に過ごせるようにするためのものだ。幼い生子に天津が加護を与えられたらいいのだが、いまだ弱い器では受け止めきれずに壊れてしまう。 「菊霧媛様のお薬を飲むようになってからお熱が出ることが少なくなりました。ありがとうございます、菊霧媛様」 「よいよい、そなたが息災であるなら、わらわもうれしい」 「菊霧媛様、大好きです」  生子に微笑みかけられた菊霧が相好を崩す。 「わらわも大好きじゃぞ」  天津は思わず生子をぎゅうと抱きしめる。 「生子、吾には言わぬのに菊霧に言うのはなぜだ」  思ったよりも声に不満が漏れ、菊霧がころころと笑う。生子は顔を真っ赤にした。 「天津様は大好きよりもっとずっとずーっと大好きなのです。大きくなったら嫁様にしてくれますか?」  天津はふと笑って生子の頭をやさしく撫でる。 「吾も生子が大好きよ。大きゅうなったら嫁にしてやろうの」 「天津、嫁にするという意味をわかって言っておるのか?」 「わかっておる。つがいにするという意味であろう」  菊霧に驚いた顔をされ、天津はふと息をつく。独り神であり、人の子のことをよく知らぬがゆえ言葉の意味を知らないと思われたのだろう。いくら何でもそこまで知らぬわけではない。天津は菊霧の橙色の目をまっすぐに見つめる。 「菊霧、あまり吾を見くびるでない」  小柄な姫神が息をつめたのを感じて、目を伏せる。ほとんどの神は天津に真っすぐ見つめられただけで動けなくなってしまう。少しばかり大人げないふるまいだった。 「生子の願いは吾が叶えると決めておるだけのこと。深く問うな」  天津は生子をぎゅっと抱きしめて頭を撫でる。 「子煩悩やら、なにやらわからぬものじゃ……」  菊霧はふと息をついた。生子に険悪な状況だったと気取らせないためにそう言ってくれたらしい。彼女の気遣いがありがたく、申し訳なくも思う。生子が不意と天津の手を叩いた。 「いかがした」 「生子は眠いです」 「もうかような時間であったか。帰って昼寝をしようの」  生子は体が弱いからかよく眠る。天津は生子を肩に乗せて髪を軽く結び覆い隠す。 「邪魔したの、菊霧」 「かまわぬ。生子と会うわ、わらわも楽しみゆえな。薬がのうならんくとも遊びに来よ」 「考えておく」 「またお会いしましょうね、菊霧媛様」  天津の真っ青な髪の隙間で白い手が揺れる。菊霧の返事も聞かずに龍神は空へと飛び立った。  天津にとって人の姿でいることはひどく窮屈なことだった。だが、身体の大きさゆえにねぐらや空でなければ本来の姿ではいられない。生子がそばにいるようになってねぐらでも起きているときは押しつぶしてしまわないように人の姿をしているから、本来の姿でいる時間は格段に減った。だからこそ、空を舞う時間は思い切り身体を伸ばせて心地いい時間だった。生子は髪で結び付けたから眠ってしまっても落とす心配はない。もちろん落としたことは一度もないのだが。  少し遠回りをして帰ろうと決め、長い身体を大きくくねらせる。ここ数日雨を降らせていなかったと思い出し、小さな雲を大きくしては雨を降らせる。生子がそばにいるようになってからはこうしてこまめに雨を降らせるようになり、人の子らから感謝の供物が度々届くようになった。そのことに別段感慨はないが、生子の食事を労せず用意してやれることに樫が喜んでいるから悪くないと思う。  時折、生子の新しい装束が届く。それはおそらく遠くへ行った幼子を思う母の手で仕立てられたもので、樫は生子が帰りたがるのではないかと心配していた。だが、生子にそんな素振りはまったくない。生子はもう帰れないことをわかっているのだろう。あの日、神が手ずから作った菓子を食べて悟ったのかもしれない。  天津は心行くまで空を舞ってからねぐらに帰った。肩から抱き下ろすと生子はすっかり眠ってしまっていた。天津はふと笑って生子を布団に寝かせ、傍らに横たわる。この幼子の幸せそうな寝顔を守るためなら何でもしてやろうと思ってしまうのだから不思議なものだ。天津も生子と一緒にまどろんだ。
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