龍の愛子

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 生子は二つになった年から知っていた、己の命が決して長くないことも、己の姿が人とは違うことも。三つになった年に父母から神の使いなのだと言われて妙に得心がいった。五つで天津のもとに行きたいと自ら告げた。もうすぐ己の命が尽きることを知っていたから生贄になって死ぬのも怖くなかった。青いたてがみの大きな黒龍の背で目を覚まして、この美しい神に食べられるなら悪くないとさえ思った。  けれど、天津は己を生かした。鋭い緑の目は思いのほか優しく、尖った爪で傷つけないように愛しんでくれる不器用な神のそばにいる日々は楽しく、死ぬのが怖くなった。  生子には神の考えていることがわからない。けれど愛しんでくれているのだけはわかった。そして失われゆく己が命を惜しんでくれていることも。生まれた時から病弱で両の親が偶然と裕福だったからぬくぬくと生きられただけの命。己でさえ心のどこかで諦めていた命を大きな黒龍は諦めなかった。  だから、生子は天津の差し出した玉が生か死か二つに一つを決めるものとわかっていても迷わず飲んだ。育つどころか生きることさえやめようとしている弱い身体で乗り越えられない可能性のほうが高いのは知っていた。だが、天津がそばにいないだけで冷えていく身体はもう限界だとわかっていた。ならば天津の賭けに乗りたかった。天津に抱きしめられて過ごした時間は苦しくも幸福な時間だった。  そして生子は賭けに勝った。これでもう、はっきりと人と遠ざかったとわかっても天津のそばにいられるならそれでよかった。菊霧が作り、天津が差し出した菓子を食べた日からわかっていたのかもしれない。  生子は天津が大好きだ。両の親や姉、弟へとも違うそれでもって天津を愛していた。その感情の名をまだ幼い生子は知らない。知ってはならないと靄がかかる。神と人は近くて遠い。天地開闢のころから生きている天津からすれば人の子の一生など瞬きをする間と同じほどしかないだろう。それでも生かされたのはその寵が自分にあると思っていいのだろうか。  眩しい気がしてゆっくりと目を開けると目の前に見慣れた広い胸があった。天津がそこにいるらしい。天津の顔が怖いと初めて見た時は思った。身の丈七尺はあろうかという大男で鹿のような立派な角まで生えている。その緑の目は鋭く、縦に長い瞳孔はくちなわのようだと思った。薄く大きな口は開くと鋭い牙が覗いた。けれど、遠雷のように低い声は不思議なほどやさしかった。一緒に暮らすうち天津がおおらかで優しい神なのを知れば何も怖くなかった。  ゆっくり視線を上げると緑の目がこちらを見ていた。その目は木漏れ日に光る泉の色にどこか似ている。天津はほっとしたように笑って生子をぎゅうと抱きしめた。 「生子や、生子、ようがんばったのう」  大きな手でかき抱くように頭を撫でられて、本当に生きているのだと実感した。 「天津様!」  生子は天津の胸にぎゅっと抱き着く。 「三日三晩も眠っておったのだ。大事ないか」 「そんなに? もうなんともないです。お腹がペコペコなだけで」 「そうか。すぐに支度させようの」  天津は樫を呼んで食事の支度をするように告げた。樫もずっと心配してくれていたらしく、泣きそうな顔で頭を撫でられた。 「目覚めてくれて安心しました。卵の粥を作ってあげましょうね」  樫は指笛を吹いて鳥を呼び、卵を分けてもらってから料理を始めた。鳥たちは時に孵ることのない卵を産む。彼らはそれを分けてくれるのだと樫に聞いた。彼は物知りでいろいろなことを教えてくれる。季節ごとに色を変える樫の髪は木の葉の色を移しているのだと知ってから、山の色が変わるのを見るのも好きになった。賢明で優しい木の精霊のことも生子は好きだ。たまに厳しいことを言うこともあるが、いつも気にかけて守ってくれる。  鍋がいい香りをさせ始めたのに気付いて生子は手を洗うために泉に向かった。手を洗おうと泉を覗き込んで目を疑った。水神である天津の膝元であるがゆえに水はいつも鏡のように澄んでいて姿が映るのだが、生子の赤い目が左だけ緑に染まっていた。それは天津の目の色とそっくり同じだ。天津に与えられた玉を飲んだせいだろうか。急いで手を洗い、天津のそばに戻る。 「天津様、左の目が天津様と同じ色になってしまいました」  天津はふと笑って左の頬に触れる。 「吾の力を受け入れたがゆえに染まったのだ。過日与えた玉は我が力。生子が生きるか死ぬかは賭けであった。なれの幼き器に納まるよう小さきものではあったがな。あと六たび繰り返さば、完全なものになろう。苦しみを受けたくなくば、今この場で食ろうてくれようほどに……」  その声は冷たかったが、その目はひどく悲しそうだった。苦しめることは天津の本意ではないのだろう。生子は天津に抱き着き、堅く青い髪に顔をうずめる。天津の髪はいつも雨のにおいがする。 「生子はどんなに苦しくても、痛くても天津様のそばにいます」 「愛し吾子……」  かすかな囁きを生子は聞き取れなかった。 「生子は吾のそばにいよ」 「はい」  ぎゅっと抱きしめられて生子は幸せだと思った。おおらかで愛深い神のわがままに永遠に振り回されることになってもそばにいたい。天津はいつものように薬を飲ませてくれた。 「粥ができましたよ、生子」  樫に呼ばれて膳の前に座る。 「いただきます」  いずれ天津のようにこうして食事をすることもなくなるのだろうか。
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