龍の愛子

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 天津の力を受け入れて以降、生子の身体は完全に成長をやめてしまった。三尺六寸ほどの背丈であるがゆえに天津のそばにいるとなおさら小さく見える。生子の背丈は天津の腰に届くかどうかだ。  樫は天津がしたことに気付いていたが、何も言わなかった。意見できる立場ではない。それだけが理由ではなく、生子を失いたくないと思ったのは彼も同じだったからだ。天津は神。それも特別力の強い太古の神だ。それをする力があり、禁じられているわけではない。死んだ後の魂を無理矢理引き戻したわけでもない。ただ、生子の魂を少しずつ作りかえているだけだ。弱い身体を壊さぬように慎重に少しずつ進めるのだろうことは生子の目が片方だけ色を変えたことから察した。いずれ器が成る日、生子はどう姿を変えるのだろう。  生子は元気に過ごしてはいるが、天津の玉の力がうまく馴染まないのか、眠っている時間が増えた。天津も気にしているらしく、眠っている生子の額に手を添えているのをよく見かける。なにをしているのかはよくわからないが、天津のことだから意味があるのだろう。 「天津様、生子は人なのでしょうか、神なのでしょうか?」  眠っている生子のそばでぼんやりと座っていた天津に問うと深いため息をついてゆっくりと口を開いた。 「どちらでもない」  その返答はあまりにも意外だった。どういう意味なのだろう。 「器が成れば生子は神になる。だが、その命運は吾と共にしか在れぬ半ツ神。今の生子は人でもなければ神でもなく、穢れに染まりやすい狭間のもの。樫、生子が魅入られる姿を見ても努々触れるでないぞ。なれが触れなばともに引きずり込まれよう。吾なら引き戻せる。疾く吾を呼べ」 「承知いたしました」  神の住処であるこの洞窟に穢れが入り込むとも思えないが、天津が警告するほどなのだから、今の生子はそれほど魅力的な存在だということなのだろう。そしてこの洞窟に入れるほどの穢であるなら樫に勝ち目はない。樫は所詮木の精霊に過ぎず、わずかな穢れを退ける力はあっても祓うほどの力はない。  天津は生子を絶対に一人では外に出さない。だからこそ、時折、樫と生子が二人きりになる時間を警戒しているのだろう。 「樫よ、吾が愚かだと思うか」  それは問いとも独り言ともつかない。 「いいえ……」  天津はふと笑って淡く光る泉に消えた。天津はついに泉の底に落とした玉を拾う気になったらしい。天津が泉に玉を落としたのは千年より前だと聞いている。本当は捨てたのかもしれない。玉を沈めてから天津はぐうたらになったのだと先代の世話役に聞いた。その玉は天津にとって特別なものなのだろう。天津はすぐに戻ってきた。その手に持っている玉は黒く染まっている。中で赤いものが渦を巻いているようにも見えた。ひどく禍々しいそれが天津の手にあることが不吉に思えてならない。 「樫、吾の昔話を聞いてはくれぬか……」 「はい」  想像も及ばないほど永い年月を生きてきた天津が昔話をすることは少ない。言葉を使うことがそれほど得意でないからか、話す意味がないと思っているからかはわからない。 「千と三百ほど前のことだったか……吾にとってはまだ昨日のことのようだが、なれにははるか昔のこと。生贄が捧げられたことがある。ぐうたらをしたわけではなかったが、地を覆う穢の多い時代であったよ。その穢……戦で流れた血を雨で流してくれと人の子は願った。吾は望み通り流してやった。村々も人々もすべて……吾は腹を立てていたのだ。勝手に殺し合い、豊かな大地を、川を穢し、あまつさえこの吾に幼子を捧げて血を流せと、さらに我が身を穢せと乞うたのだ。当然の報いよ……」  天津はふと息をつく。太古の神たる天津は自ら人の営みに介入することがない。彼にとっては人も動物も木々も等しく命であり、特別に扱うという感覚が希薄だ。そんな彼にとって大地を穢した上、身勝手な要求をした人の子が許せない存在だっただろうことは想像に難くない。 「だが、それを目の当たりにした幼子は嘆き悲しみ、衰えて行った。要求を通すため、吾のもとに打ち捨てられたも同然だというのに幼子は里を、里の人々を愛しておった……健康そうなふくふくとした子であったに、吾が与えたものも、杉が与えたものも食わず、あっという間にやせ細って行った。これが人の子らの咎であり、吾の咎なのだと思い知らされるようであったよ。そうして死んだ幼子を吾は喰った。身の内に幼子の憎悪から生まれた穢を抱えて苦しんでみても、吾には人の子がわからなかった……そうして百年ほど苦しんでみたが倦み疲れて、玉に封じて吐き出し、ここに沈めた。吾は生子を護るためにもう一度知らねばならぬ。これを浄化する」 「なりません、天津様。あなた様の力が弱まれば誰が生子を護られるのですか!」  神が穢を背負うということは力が弱まるのと同義だと聞いている。 「力が弱まるようなことはせぬ。明朝まで戻らぬゆえ、結界を張って行く。外に出るでないぞ」  キンと高い音が響き、洞窟が閉ざされたのがわかった。天津は黒い玉を飲み込み、泉の中に消えて行った。泉を覗き込むと青いたてがみの黒龍が苦しみのたうっているのが見えた。力が弱まることはしないといったが、神が身のうちに穢を抱えるというのは並の苦痛ではないと聞いたことがある。大丈夫なのだろうか。だが、天津は太古の神。言ったことを覆すことはないだろう。  はたと気付くと生子が傍らに立っていた。いつの間に目を覚ましたのだろう。 「天津様はどちらに行かれたのですか?」 「さて? 天津様は自由なお方ですからね。明日には帰るとお聞きしています」  この無垢な幼子には知られたくない。そんな思いからつい嘘をついた。けれど、ぶれずに見つめてくる生子の緑の目は嘘を見抜いているかのようだった。 「なぜ、その泉を覗いていたのですか?」  生子は聡い子だ。何事か察せられてしまったようだ。 「見てはいけません!」  樫が止める間もなく、生子は泉を覗き込んだ。泉の底では大きな龍が今も苦しみにのたうっている。 「天津様! どうして天津様が苦しんでいるのですか? 私のせいですか? 教えてください、樫様!」  半狂乱で言葉を重ねる生子の肩をしっかりとつかむ。 「落ち着きなさい、生子。教えることはできません。天津様は自らお選びになったのです。ここから見えているものはここにある場所ではなく、あなたが天津様のもとに行くのは不可能です。決して飛び込もうなどと思わないように。天津様は明朝お戻りになると仰いました。待てますね?」  生子の頬をぽろぽろと涙が零れ落ちた。生子が泣くのを見るのは初めてのことで樫は戸惑う。 「待てます……」  生子にとって天津はそれほど特別なのだろう。樫は生子の頭をやさしく撫でて抱きしめる。 「大丈夫、大丈夫ですよ。天津様はどの神よりも気高くお強い太古の神です。心配はいりませんよ」 「天津様はお強いけれど、もろいと感じることがあります。ここでお待ちしてもいいですか?」  生子には樫の見えないものが見えているらしい。人の子だからだろうか。 「わかりました。付き合いましょう」  樫は毛皮を持って来て生子の肩にかけてやる。泉のそばは冷える。 「ありがとうございます、樫様」 「いいんですよ」  生子は夜になるとそこで眠ってしまった。こんなところで寝かせては天津に叱られそうだが、いつも寄り添ってくれる天津のために少しでもそばにいたいという気持ちがわからないわけではない。樫は布団を運んできてあたたかくしてやる。これで大丈夫だろう。樫も傍らで浅い眠りに落ちた。
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