龍の愛子

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 ひたひたと打ち寄せる水音で生子は目を覚ました。水音に微かに衣擦れの音が混じる。それ以外は不思議なほど静かだ。 「天津様?」  眠い目をこすりながら目を開けると、天津が水面に立っていた。いつもとは違う白無垢の袍をまとった天津はわずかに浮かび上がっているようにも見える。生子は言葉をなくした。人の身に姿をやつした大きな神は手になにかを持っている。わずかに光るそれを持ったまま天津はゆっくりと水面を歩き始めた。角に光るしずくが揺れるたび、高い音がこだまする。その玉響は深い深い水の底から聞こえてくるようだ。大きな湖のように真っ青な髪が一筋、赤く染まっている。まとう空気がいつもよりずっと神々しく静謐でそこにいるのはまさしく太古の神の一柱、天津啓翔尊であった。 「生子、なれは吾が守る……」  泉の底から聞こえるような声が木霊する。天津は手に持っていたそれを生子の首にかけた。それは透き通った玉がついた優美な首飾りだった。わずかにほほ笑んだ天津は龍の姿に戻り、ゆっくりと沈んでいく。とぷり、とすっかり沈んでしまってやっと生子は声を取り戻した。 「天津様! 天津様!」  樫がすぐに生子を抱きとめた。生子はあと少しで泉に落ちるところだった。 「大丈夫、大丈夫ですからね。もう少し待ちましょう」  静かな優しい声で包み込むように言われて生子はその手を逃れようとするのをやめる。 「でも、天津様は疲れ切って沈んで行かれたように見えました」  声がどうしようもなく揺れる。天津のために何もできない自分が呪わしい。 「天津様は水の神です。水の中におられるのも自然なことなのですよ」  泉の中を覗くと天津はとぐろを巻いて眠っているように見えた。苦しんでいるようには見えない。 「本当に大丈夫なのですよね?」 「はい。たっぷりお眠りになったら戻って来られますよ。おや、これは?」  樫は生子の胸元に光る首飾りを見ていた。 「天津様が先ほどくださったのです」  透き通った玉をじっと見た樫は目を見開いた。 「特別なものなのですよね?」 「天津様に聞いてください。あなたを護るために天津様がお創りになったのは確かです」 「私のために……」  強大な力を持つ神である天津が疲れ切って眠ってしまうほどのことをしてくれたことがうれしくもあり、複雑でもあった。気高い神を地に落としてしまった。そんな思いがよぎる。あの一筋の赤毛が意味するものとは一体なんなのだろう。  樫に促されてどうにか食事を終えたころ、天津が戻ってきた。 「天津様!」  生子が駆け寄るといつものように抱き上げてくれた。だが、心なしかいつもより体が冷たい。水中にいたせいだろうか。角にはもう光るしずくは付いておらず、あの時は白い袍だった装束はいつもの黒い狩衣に戻っている。 「心配かけたの、生子」  遠雷のように低い声はいつもと変わらない。 「天津様が無事お戻りになられて生子はうれしゅうございます」 「吾が戻らぬことなどない。生子、寝が足りておらぬのではないか。顔色が悪い。添い寝してやろうの」 「はい」  天津に抱きしめられ、生子はほっと息をつく。いつも通り、いつも通りだ。生子はすぐにまどろんだ。
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