龍の愛子

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 眠ってしまった天津の変化がほとんど解けているのを見て樫はふと息をつく。泉の底で相当の無理をしてきたのは間違いなさそうだ。生子に心配かけまいと戻ってきただけで、自身の体力が戻り切っていなかったから、理由をつけて眠りたかったのだろう。  樫は生子が眠っている隙に作った傷薬を手に黒龍の長い身体に沿って歩く。やはり鱗が所々剥がれている。鱗が剥がれている場所に丁寧に薬を塗りこむ。天津の鱗が剥がれているのを見るのは初めてだが、伝え聞いた通りならこれであっているはずだ。薬をたくさん作っておいてよかった。  神といえど傷を負えば手当てがいる。腕や顔に傷がないのは生子に隠すために庇っていたのだろうか。苦しみにのたうち、打ち付けたような痕がいくつもあるが、その程度の余裕はあったらしい。そこまで心配するほどではないのだろうか。神の所業はよくわからない。  天津は結局、生子が起きても眠っていた。相当疲れているのだろう。体力の回復に専念しているのかもしれない。 「天津様、半分半分になっちゃってますね」  天津の腕の中から這い出しながら生子がぽつりと言った。いつも生子がくっついていたから気付かなかったが、顔や胸にも龍の片鱗が浮かんでいて生子の言う通り人の姿と龍の姿が半々だ。もっとも身体の大半が龍になっているから少しだけ人の姿があるといったほうが正しいのだが。 「お休みの時はいつもこんな感じですよ。天津様は変化がお得意でないのです」 「へんげ?」 「おや、知りませんでしたか?」  生子はこくりと頷いた。とうに知っているとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。 「天津様は龍のお姿が本来のもので人の形にはご自身の努力で変じておられるだけなのです。天津様は変化が特別お上手でない。角が生えたままなのも、背が異様にお高いのものそのせいです」 「そうだったのですね。私はどちらのお姿も好きです」 「生子はいい子ですね」  頭を撫でてやると生子は嬉しそうに笑った。時代の流れで幼い子供の髪形になった美豆良がいつまでも似合っているのは不憫とは思うが、こうして姿が幼子のままだからかわいがりやすいというのはあるかもしれない。生子は素直で愛らしい娘だ。天津が愛するのもわかる。  生子は不意と櫛を持って来て天津の髪を梳かし始めた。いつもぼさぼさともつれているから気になっていたのだろう。天津は時に生子の髪を梳いていることがあるから髪を梳かすということを知らないわけではないのだろうが、自身の髪を梳かしている姿はついぞ見たことがない。世話役になった当初、梳かそうとしたら拒否されたこともあるから何か理由があるのだろう。神の姿にはすべて意味があり、安易に変えていいものではない。天津は生子がすることには基本的に怒らないから放っておいてもいいだろう。  生子が起きている時間に天津が眠っているのは珍しい。生子が半分ほど梳かし終えたころには天津は完全に龍の姿に戻ってしまっていた。すっかり熟睡しているらしい。隣に生子がいないから腕のおさまりが悪かったのかもしれない。生子は天津の背に乗ってたてがみというべき姿に戻ってしまった毛をせっせと梳かしている。よく起きないものだと思ったが、龍の巨体に小さな子供など乗っていることさえわからないほど軽いのかもしれない。  しばらくして、生子が息をついて天津の背から降りてきた。振り返って見れば天津の硬い毛がきれいに梳かされた上、角と角の間に花飾りまでつけられている。樫は吹き出しそうになったが、どうにかこらえる。天津が髪を梳かしたがらなかった理由がわかった気がする。厳めしい龍にさらさらと艶やかな髪はあまりにもそぐわない。あの大きく膨れたたてがみだからこそふさわしいのだ。生子は満足そうだが、あまりにも滑稽だ。  その時、もぞりと動いた巨体がふっと消えた。 「生子、起きていたのか」  ぼんやりと呟いて体を起こした天津の頭に花飾りが乗っていた。角と角の間だ。小さく収めているだけで位置は変わっていないらしい。いつも顔にうっとうしいほどかかっている前髪がきれいに結い上げられているせいか、髪が大人しく収まっているせいか、いつもの猛々しい印象が薄れ、どこか高貴で麗しい印象を受ける。天津は思ったより整った凛々しい顔をしていた。龍の顔が厳めしいから厳めしい顔だと思い込んでいたせいだろうか。確かに他の龍神たちも人の姿はだいたいが凛々しい顔をしていた。系統自体は同じなのかもしれない。 「はい、天津様。お加減はいかがですか?」 「大事ない。髪をいじっておったか」  天津の大きな手が髪をついと流す。 「はい。いつもぼさぼさだから」  生子は手鏡を差し出す。鏡を見て、天津はぎょっとした顔をした。梳かされて、結われただけでここまで印象が変わるとは思わなかったのだろう。 「よく梳かせたの」 「丁寧に少しずつ梳かしたらできました」  天津はふと笑って生子の頭を撫でる。 「生子は頑張り屋だの。だが、これきりにせよ。いかな障りがあるとも知れぬ」 「障り?」  天津は花飾りを取って頭をばさばさと振る。髪があっという間に元通りになった。やはり、あの髪に意味があるらしい。 「髪には雷が宿っておる。それが当たらぬとも限らぬゆえな」 「いつも髪に入れてくださるのに?」 「起きていれば司れるものも、眠っておるときはわからぬ」  これまで天津が眠っている間に落雷したことはないからそれが何らかの言い訳であることに樫は気付いた。その髪型であることより、一筋交じった赤毛に理由があるのかもしれない。だが、生子はそんなことも知らず素直にうなずいた。 「わかりました」  天津はいつものように生子を抱き寄せ、膝にいれる。 「玉が重うはないか」  玉は生子の握りこぶしより一回り小さい程度で幼子の小さな体には重そうに見えないこともない。 「大丈夫です。これはどういったものなのですか?」 「吾の力を込めた護りの玉よ。吾がそばにおらぬ時もなれを護れる」  本当の意味は伏せるのかと樫は思う。あれは生子をここに繋ぎ止める楔の役割も果たすのだろう。でなければ危険を冒してまで玉を浄化することなどしなかったはずだ。天津はこれから六度、生子に力を移さなければならないと言っていた。そのたびに命の危険があるから創り出したのだろう。天津の寵は本物だ。青い髪に一筋交じった赤い髪。あれは拭いきれなかった穢なのだろう。時間をかけて浄化することにしたのかもしれない。だから、生子に触れるなと告げたのだろう。 「生子、明日は菊霧のところへ参るがなれは留守居よ。よいな」  生子は不満そうにしたが、こくりと頷いた。
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