龍の愛子

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 大地に人が満ち、神々も未だ地上にある時代のことだった。戦も少なく平和な時代ではあったが、一つ大きな困りごとがあった。水という水を司る水の神、天津啓翔尊(あまつひらかけるのみこと)がしっかりと神の務めを果たしてくれぬことだ。  天津はこの世界が生まれたその時よりおわす尊き龍神であるがゆえか、時の流れに鈍感らしく、数ヵ月も日照りが続いたかと思えば滝のように雨を降らせて洪水を起こす。彼自身悪いとは思っているらしいが、改善の兆しはないまま、人が数十も代を重ねるほど長い年月が過ぎている。  よくいえばおおらか、悪くいえばぐうたらであるがゆえなのだろうか。今も十丈に及ぶ長い身体でとぐろを巻いて眠っている。すでに三日も眠っているのに起きる気配がない。天津の世話係である木の精霊の樫は思い切り息を吸い込んで口を開く。 「天津様! 天津様! 起きてくださいませ!」  全力で呼ばわってみたが起きる気配がない。樫には手に負えぬ事態が起きたというのに困ったことだ。黒々とした長い身体に青いたてがみ、鹿のような立派な角、その傍らにあるのが耳だったはずだが、違うのだろうかと思いかけて樫はため息をつく。三日前眠れないといって酒を五樽も空にしていた。そのせいだろう。樫は木の葉と同じ色の髪をかきあげて覚悟を決める。 「起きろ! この寝坊助尊!」  業を煮やして身体を思い切り蹴り上げながら叫ぶと天津はやっと目を開けた。大きな緑の目が眠そうに樫を見下ろす。 「樫か。いかがした。吾は眠い……」  眠り過ぎて眠いのだろうと出かけた言葉を飲み込む。 「三月も続けて日照りにしておいてよくそんなことをおっしゃれますね。耐えかねた人の子が生贄を寄こしましたよ」 「いけにえ……いけにえとはなんだったか」  のんびりした言葉に樫はつきかけたため息を飲み込む。天津は太古の神であるがゆえか、人の子の信仰や願いというものをあまり理解しない。それが仕方ないと取るべきか、理解させるべきなのかはわからない。ただ、日照りや洪水で死ぬのは人ばかりではないのは事実。畏れ知らずにも言葉や行動で天津に雨を乞える存在はありがたい。天津に意見できるほどの神々はすでに天上に去ってしまっている。 「人の子、それも幼子があなた様に捧げられたのです」  天津はゆっくりと瞬きをした。なにか思うところがあるのだろうか。 「それは困りごとよ」  天津は姿を人の身に変える。といってもこのぐうたら、もとい、おおらかな神が変化する姿は髪の毛は真っ青で目は緑、立派な角まで生えて龍の姿をずいぶんととどめているからとても人には見えない。さらにいうなら背も異様に高く、遠目から見ても神だとわかる。ほかの龍神たちはもう少しうまく人に変化するというのにどうしようもない。その長身にまとうものが黒い狩衣に黒い指貫であるからなおさら異様に見える。 「その幼子はどこにある?」 「こちらです」  天津がねぐらにしている洞窟の入り口にしめ縄で囲われた小さな白木の輿が置かれていた。輿の中で幼子がすやすやと眠っている。天津は不思議そうに赤い衵に白い汗衫を着せられた幼子の顔をちらと見る。 「愛い子よの。して、この幼子はなにゆえここにある」 「あなた様が三月も雨を降らせぬゆえ、人の子らが渇いて雨を乞うため捧げられたのでありましょう」  天津は薄い唇をゆっくりとなぞりながら小首を傾げる。もう四百年近く仕えているがこの神がなにを考えているのかさっぱりわからない。 「そだに降らせておらなんだか。行って参る」 「洪水にならない程度にですよ!」  龍の姿に戻った天津は瞬く間に空に舞い上がって行った。今の忠告が聞こえたとも思えない。また山崩れや洪水など起こさなければいいが、あの天津だからわからない。そも、あのおおらかな神には生贄など不要で、酒の十樽も持って雨を降らせてくれと叫べば済む。これまでは近在の村々が持ち回りでそうしていたのにどうして生贄など捧げられたのだろうか。  樫が輿の中をよくよく覗き込めば、その幼子は真白い髪に真白い肌をしていて白子であることがわかった。そのせいで気味悪がられてここに捨て置かれたのだろうか。あまりによく眠っていて心配になり、軽く頬に触れた。幼子にしては少し冷たいが、血色もよく、ふくふくとした頬をしている。疎まれて育った子には到底見えない。白い髪もつやつやしていて豊かな家で愛されて育った子供のように見える。衵や濃袴は生贄のものとは思えないほど上等そうだ。  なにかほかに理由があるのだろうかと考えていると雷鳴が轟き、雨が降り始めた。少々激しいような気もしたが、起き抜けの天津はいつにもましてぐうたらだからほどほどで止むだろう。雨を降らせることも重要だが、今はこの幼子の処遇を決めることも重要だ。  半時もせずに天津が戻ってきた。空はまだ厚い雲に覆われているからもうしばらく降るだろう。幼子はというと驚いたことにまだ眠っている。天津と気が合いそうだと樫はぼんやり思った。 「さてもさても、こは如何せん」  天津はころころと笑う。笑っている場合ではないだろうと樫は思う。だが、このおおらかな神のこと、この幼子に無体をすることはないだろう。ただ、時間の概念がぼけ、千年や二千年の昔を昨日のことのように思っている天津に子供が育てられるとも思えない。天津が眠っている幼子を両手で抱き上げるのを見て、樫は密かにほっと息をつく。片手で適当に持ってはならないということくらいはわかっているらしい。 「ぬくい! 樫、こはぬくいぞ!」  驚いたように叫ばれ、子供があたたかいのは当然だろうと言いかけたのを咳払いで隠す。この神は人の子というものをどこまで知らないのだろう。 「天津様、人の子はぬくいものにございます」 「そうであったかの……」  天津は幼子の顔を不思議そうにしげしげと眺めている。 「人の子は飯を食うというのはご存知でしょうか?」 「くう? 菊霧に聞いたやも知れぬな……」 「人の子のことがわからぬのであれば、このものを親元に返すが最善と心得ますが」  天津に受け取る意思がない以上、まだ返すことができる。そもそも天津は供物と引き換えに願いを聞くという感覚が希薄だから、この生贄を受け取るか否かは天津の心ひとつだ。 「すこしゅう遊びてのちでもよかろ。菊霧のところに参る」  天津は幼子を抱いたまま、瞬く間に空へと舞いあがってしまった。なにが天津の好奇心を掻き立てたのかはわからないが、これは取り返しのつかないことになりそうだと樫はため息をつく。天津は人と神の間には境があることを認識しているのか、いないのかさえわからない。天津が向かった菊霧山の女神菊霧媛命(きくきりひめのみこと)がいさめてくれることを願うばかりだが、面白がりで人の子と何度も婚姻するほど人の子が好きな菊霧はむしろ煽るかもしれないと思うと複雑だった。  樫はもう一度ため息をついて輿の中を確認する。着替えや食べ物が入れられているかもしれないと思ったからだ。輿には着替えが一揃いと酒の入った瓶子が一つ、それに手紙が入っていた。祝詞であろうかと開けばあの幼子の母からの手紙だった。予想もしていなかったことに樫は驚く。幼い我が子を贄にする悲しみはいかばかりかと読み進めればどうも様子がおかしい。  手紙によれば、あの幼子は生子というらしい。白い姿は神の使いであるから早く手元を離れてもしっかり生きてほしいとの願いを込めたのだという。本来であればもっと早く神に返すべきであったのに我が子が愛しくて遅くなってしまったとも綴られていた。どうやら生子は母親や村人たちの勘違いで生贄としてここへ連れて来られてしまったものらしい。想像もしていなかったことに樫は焦る。これはできる限り早く天津に伝えて、生子を村へと返してやらなければならない。もしも神の領域で食べ物を口にしてしまったら帰れなくなってしまう。  だが、天津は菊霧山に行ってしまった。樫の足では一時はかかる道のりを天津は小半時もかからずに行き来する。もう間に合わないかもしれない。樫は急いで外に出て指笛を鳴らす。雨の中でも集まってくれた鳥たちに天津を追わせる。間に合ってくれと祈りつつ、間に合わないと心のどこかで諦めていた。
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