76人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ
1
「あんたが神ノ木翔弥さん?」
「ーーあ……え、っと、あ、あの……」
目の前の男は、俺が部屋に入ってきたのに気がつくと、慌てた様子でペンを起き、椅子に座ったままこちらを振り向いた。
ーーこれが神ノ木グループの御曹司?
まだ17歳の男子を眺めながら、俺はふ、と唇を緩ませた。
「新見麗です。来週から週に5日、翔弥さんの家庭教師をします。よろしく」
「……あ、は、はい。よろしく、お願い、します………」
「…………」
ーー手先は小刻みに震えている。顔は赤いというか青いというか……さっきから視線は一度も合わない。
俺はゆっくり彼に近づき、見下ろすのではなく腰を落として視線を合わせた。
「そんなに緊張しなくて大丈夫。俺、一応そこそこの大学院を出た社会人。29歳。専門は社会心理学。今はフリーの臨床心理士……簡単にいうとカウンセラーをしてる」
「………か、カウンセラー?」
「あんたの……翔弥さんの、付き人がいるだろ。あー、百瀬さんだっけ?」
「百瀬が………な、なにか?」
この春で高校3年生になったばかりの彼は、まだあどけなさの残る瞳を泳がせながら俺を見た。
長い前髪から覗くその目は、光るように美しい。
「百瀬さんが俺に家庭教師として依頼したことはふたつ。ひとつは当然、学力の底上げ。もうひとつは、あんたのソレを治すこと」
「………え?」
俺は指を伸ばして、彼の顎をくいっと持ち上げた。その瞬間、こちらが驚くほど、ビクリと彼の身体が震えた。
「ーー神ノ木グループ御曹司のあんたの、その対人恐怖症をできる限り改善させて、高校卒業……大学卒業までに、人前に普通に出られるようにする。それが俺の仕事だ」
「………っ、っ!?」
翔弥は驚いた様子で声も出ない。
ーーどうやら対人恐怖症はガチみたいだな。
神ノ木グループといえば、俺でも知ってる全国展開する一流ホテルを経営する会社で、規模も資産力も業界に与える影響もハンパない……。
現グループ統率者である神ノ木社長、つまり翔弥の父親はメディアにもよく出るやり手だが、その息子の話はほとんどニュースになることも、噂になることすらなかった。俺が知らないだけか?と思ってネットを調べてみたが、情報はほとんど出てこなかった。
ーーが、そういうことか。
次期社長も視野にある息子が、こんな状態で学校にも行けなくなったと世間が知れば……
まあ、どう頑張ってもいい結果にはならない。
少しでも社会に出るときに『マシ』にしときたい親の気持ちは理解できる。
「………百瀬が、あ、あなたに、それ、を?」
「正式な依頼者はあんたの父親だな。翔弥さんも、将来は父親みたいにテレビやネットにバンバン出なきゃいけなくなるかもしれないんだろ?」
そういうと、翔弥は顔をうつ向かせ、また小さく震え出す。
「………ぼ、僕が人が苦手なのは、わ、わかっています」
「そうですね。俺とサシでそんな感じなら、複数人での会話ではアガリ、壇上で人前に立ったら卒倒ですね」
「……っ、父と、僕は違うんです。好きで、神ノ木グループに生まれたわけじゃ、な、ないし………!」
「ーーなるほど」
自分での自覚は強いんだな。
だけど、今さらどうすればいいかわからない、といった感じか。
ま、100%治るわけじゃないしな。性格や心の問題もある。
「翔弥さん」
「………」
「いきなりごめんなさい。知らない男にとやかく言われたくないよな」
「………」
「でも俺は味方だから。とりあえず、あんたの敵ではないってこと。今日はそれだけ覚えておいて」
そう言ったところで、部屋のノックがした。
翔弥が答える前に、俺が答えた。
「はい、どうぞ」
「失礼します。……新見先生、どうですか。翔弥さまの様子は」
「百瀬、な、なん、なんで、俺にこんなーー!」
「見た通りですよ。俺に嫌なこと言われて拗ねてます。かわいいこどもです」
にこ、と俺は翔弥と百瀬に微笑んでみせた。
翔弥は眉をひそめ、百瀬は無表情のまま俺をみている。
「………わかりました。新見先生、あなたは社長自らお選びになった家庭教師です。私がとやかくできるものではありませんので、今後とも翔弥さまをよろしくお願い致します」
付き人の百瀬は丁寧な口調でそう言う。
言い方は丁寧だが、心はまったくこもっていないな。
俺は内心小さく笑った。
「本日はひとまずご挨拶にきました。本格的な家庭教師は来週から行いますので、よろしくお願いします」
「わかりました」
俺は百瀬とそう会話したあと、翔弥を見た。
「ーーというわけで、よろしくな、お坊っちゃん」
「………、っ、あ、あ」
「新見麗。名前くらい覚えとけよ」
ぽん、と翔弥の頭に手をやって俺はその場を離れた。
パタン、と扉を閉め百瀬とともに部屋を出る。
「ーー新見先生」
「はい?」
「……申し訳ないが、私はあなたを信用しておりません」
翔弥が見えなくなると同時に、付き人の百瀬は鋭い視線を俺に向けてくる。
「………初対面で、なかなかなこと言ってくれますね」
「ですから申し訳ありません。あなた自身というより、カウンセラーというご職業がです。今までも、あなた以外の専門家にも依頼しましたが一向に良くなる兆しがなかったので」
「あー……なるほど」
百瀬は少し視線をずらして、話し出す。
「……ご存じかと思いますが、翔弥さまは中学2年生から対人恐怖症が悪化しました」
「聞いてますよ、社長から」
「……悪化です。人と話すことはもっと小さい頃から苦手でありました」
「まあそりゃ、誰でも得意不得意はありますからね。最近じゃ、陰キャ、陽キャとか言いますよね、性格的に明るい、暗い、は普通にあります」
「……………そうですね」
ーーあ、そういう話じゃなかったか?
俺はつい余計なことを言ってしまったかと思い、反射的に謝った。
「すみません」
「いえ……」
「……まあ、突然俺みたいなのが来てびっくりしますよね。大丈夫です。守秘義務は必ず守ります」
「……そうですか」
百瀬は半分ほど疑うような視線を最後までやめずに、俺を玄関先まで見送った。
ーー付き人も大変そうだな。あのボンボンのガキひとりにどんだけ金かけてんだ。
豪邸を出て少し歩いたところで、俺はスーツの首もとに手をやりネクタイを緩めた。
「あー、早まったかなぁ。教授の頼みだったとはいえ………」
あのガキ、結構重症そうだったな。
パッと見、キレイな顔してたけどーー。
「………いや、ないないない」
神ノ木グループの御曹司。
高校生。
厄介な付き人つき。
……俺の、クライアント。
「深入りはよくねぇな……」
ーー週5でほぼ毎日会わなきゃいけないけど。
割りきるか。……そうしよう。
俺は神ノ木翔弥の家庭教師だ。
最初のコメントを投稿しよう!