ビルの上

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 あの思い出の場所に行こう。  そう思ったのは、スランプで、なかなか描きたいものが思いつかなかったからだ。私は一応画家をしていて、絵でそれなりに収入を得ている。といっても、裕福なわけではない。何とか生活できる程度のものだ。だから、このスランプで描けない状況は何とかしなければならない。私が今の絵を描く原点になったその思い出の場所に行くことで、スランプから抜け出せないかと思ったのだ。  思い出の場所、というのは、昔、恋人とともによく出かけていた、あるビルの屋上のことだ。そこは夜景がきれいで、私たちはよくそこで夜景を眺めながら、いろんなことを語ったものだった。当時私はまだ画家として売れておらず、彼女と一緒に生きていくという勇気を持てなかった。けれどそれでも、彼女と一緒にいるのはとても幸せだったのだ。  久しぶりに訪れたそのビルは、いつの間にかさびれてしまっていた。元々きれいなビルではなかったけれど、今はもう人も住んでいないのだろうと思われる。それでも屋上に登ってみると、そこから見える景色は、記憶にあるのと同じ、きれいな夜景だった。その景色を眺めながら、僕は色んなことを思い出した。  思い出すのは、ここで彼女と語った事がほとんどだった。私に画家になるという夢があったのと同じように、彼女には、幸せな家庭を作るという夢があった。私だって、自信がなかっただけで、できることなら彼女と幸せな家庭を作りたいと思っていた。私の夢も彼女の夢も相反するものではなく、彼女が子どもたちと一緒に、画家になった私が絵を描いている様子を眺めている、というような幸せな未来を想像したりしていた。  そしてそういうふうに語り合ったことが、私が画家としての自信をつけるきっかけになった。二人で話した夢を、絵にした。それが受賞し、それを機に、私は画家として生きていくことができるようになったのだ。  けれど、その恋人とは、別れてしまった。別れを告げたのは、彼女の方からだ。辛かったけれど、私はそれを受け入れた。どちらにせよ、自信はなかったのだ。画家として生きていけるようになった、とはいえ、家庭を築いてゆけるほどの収入はなかった。だから彼女の言葉を、受け入れる事しか私にはできなかった。  彼女と別れてから、しばらくの間、私は絵を描くことができなくなった。私の描く絵は、そのほとんどが、彼女との幸せを描いたものばかりだったからだ。けれど、時間が経つにつれ、彼女がいないという苦しさが、私に絵を描かせるようになった。幸せな絵ではなく、苦しい、ときとして自分を捨てた彼女に対する恨みの絵を描いた。今の世の中にはそうした絵にも需要があったということなのだろう。私はまた絵を描き、収入を得ることができるようになった。といってもやはり何とか生活できる程度のものではあるのだけれど。  そうしてしばらく描きつづけて、最近なぜか、絵が描けなくなったのだ。彼女に対する恨みが薄れてきたからかもしれない。だから、苦しみや彼女に対する恨みが生まれた原点である、この場所に来たのだ。私は、ここで彼女に別れを告げられたのだ。  そして。
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