140人が本棚に入れています
本棚に追加
*プロローグ
「朔、ほらこのトマト赤くて美味しいよ~。ちょっとでいいからかじってごらん?」
「やだ! トマトすっぱいもん!」
俺・鹿山朔の一番古い記憶は、母親から勧められたプチトマトを断固拒否するシーンだ。
物心ついた頃から俺は大の偏食で、口にする野菜は塩もみのキュウリをひと口、と言う感じだったという。母親も父親もどんな手を尽くそうと頑なに俺は食べなかったらしく、「朔がキュウリ以外の野菜を食べてくれるんなら誰の料理でもいい」とさえ言っていた程だ。
肉と米と野菜ジュースで栄養を何とか取っているような子どもだった俺が、どうにか人並み(と言ってもキュウリだけだったのがプラス数種類増えた程度だが)に野菜を食べるようになったのは、三歳の頃のある事件のような出来事がきっかけだった。
「サッくん、望、お昼にしようか」
「はぁい!」
「はーい!」
三歳の頃、実家のすぐ隣に同い年の馬越望こと、ノンちゃん一家が引っ越してきた。
お互いひとりっ子で誕生日も近かったので俺らはすぐにお互いの家を行き来するほどの仲になって、職場復帰した母親の都合でノンちゃんの家に預けられることもあった。
預けられる時はいつも「塩もみキュウリと市販レトルトのミートボールとふりかけおにぎり」という弁当を持たされていた。
「ノンちゃん、何食べてるの?」
「おまめのごはんだよ」
「おまめ……」
「なんだよサク、おまめキライなのか?」
「んー……」
「食ってみろよ、うまいぜ、母ちゃんの」
美味いと言われて差し出された枝豆の混ぜご飯のおにぎりを、俺はおずおずと受け取って恐る恐るひと口食べてみた。
塩味の利いたご飯に、ほんのりと甘い豆の味……それまで豆なんて自分から口にもしなかったのに、俺はもらった分を夢中で食べていたのだ。
俺が食べたのが嬉しかったのか、ノンちゃんは自分の分の残りのおにぎりだけでなく、卵焼き、唐揚げも次々と分けてくれて、そしてふたりで頬張った。
どれも、きっとうちの親も作ったことがあるメニューだったと思う。豆ごはんだって卵焼きだって名前が言えるぐらいだったから。
でも――この時ノンちゃんがくれた料理はどれも特別に美味しく見えて、実際どれも最高に美味しかった。
俺はいつも弁当しか食わないはずなのに、ノンちゃんのご飯を食べているもんだからノンちゃんのお母さんはめちゃくちゃ驚いて、そして慌てて写真を撮ってウチの親に送ったらしい。「サッくん、望のご飯食べてるけど、大丈夫?」と言って。
親としてはまさか俺がキュウリとミートボール以外を食べたがるだなんて思いもしなかったらしく、驚きながらもぜひそのまま食べさせてほしいと言ったという。
「サッくん、ノンちゃん食べてるのもっと食べる!」
この事件をきっかけに、ウチの親とノンちゃんの親が話し合って、ウチの親がいない時の食事の世話をノンちゃんの親に任せることになった。
断っておくけれど、ウチの母親も父親も料理はふたりともするし、どちらも客観的に見て上手いんだと思う(ノンちゃんは上手いって言っていたし)。
それでも、小さい頃の俺がなかなか特定のもの以外食べなかったのは、そういう性分だったとしか言えない。申し訳なくは思っているけれど、しょうがないんだ。
そうやって段々とノンちゃんのお母さん以外が作る食事にも慣れていって、食べられるものも増えてはきたんだけれど、相変わらず大人になっても好き嫌いは多い。
肉は好きだけれどレバーは食べないし、魚は刺身ならいいけど煮魚は嫌い、青魚は全部ダメ、野菜は相変わらず難敵だ。
その内に、調理師免許を持っているお母さん譲りで料理上手なノンちゃんが、小学校高学年あたりから徐々にお母さんに代わって俺の食事を作ってくれるようになっていった。
初めて作ってくれたのは白出汁入りの卵焼きだったと思う。遊びの途中でお腹が減ったから、ノンちゃんが作ってくれたんだ。
「これ、ノンちゃんが焼いたの?」
「うん。母ちゃんみたいにきれいじゃないけど、食う?」
「食う!」
確かにちょっとひしゃげていたけれど、アツアツの卵焼きは出汁が効いていてふわふわですごく美味しかった。ひと口食べた途端にうまみが口の中に広がるあの感じ。いま思い出しても腹が鳴りそうだ。
「美味しい! ノンちゃんの卵焼き俺大好き! ねえ、また作ってよ」
美味しさと嬉しさで満面の笑みでそういう俺を、ノンちゃんは少し目を丸くして驚いて、そして真っ赤な顔してうなずいた。「……いいよ、べつに」とちいさな声で言って。
それからずっと、ノンちゃんはことあるごとに俺にご飯を作ってくれるようになって、それはいまでも続いている。
食べたものが人の身体を造っているという話を聞いたことがあるけれど、それならば、もう俺の身体はノンちゃんが作ってくれた料理で構成されているんだということになる気がする。
それってなんだかちょっとドキドキするエロティックな感じがして、俺はすごく好きなんだ。
ノンちゃんはどう想っているか、わからないんだけれど。
最初のコメントを投稿しよう!