*10 悪夢の理由とその果ての行為と

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*10 悪夢の理由とその果ての行為と

 夢の中ノンちゃんは、今まで見た中で一番意地悪な顔をして嗤っていた。すごくイヤな顔をして、「俺がお前のこと好きだとか言うと思った?」なんて言って。  交換していた合い鍵を放り投げられて、床に落ちたそれを拾っている間にノンちゃんは出て行ってしまってそれきりになってしまう夢だ。  去っていく背中も追えない、あまりに惨めな夢のオチに俺は泣きながら目を覚ました。目覚めが最悪だったのは言うまでもない。  謝っていないから当然だけれど、今日もノンちゃんからの弁当はなかった。だから今日もコンビニ飯だ。 「あれー? 先生今日もコンビニのご飯?」  仕事の忙しさのせいで中庭に行けないまま自席でコンビニおにぎりのフィルムを向いていたら、目ざとく三嶋に見つかった。  ケンカしたの?  それともフラれた? と、明らかにネタを見つけて嬉しそうな声ですり寄ってくる彼にうんざりしつつも、生徒から話しかけられてしまったのを無視するわけにはいかないので、適当に受け流す。  事実確認ができたら退散してくれたらいいのに、三嶋はにやにやしたまままだ俺の席のそばをうろうろしている。 「まだなんか用? 体育倉庫の鍵?」  年端のいかない生徒に対して大人げない態度なのは承知の上だけれど、不機嫌を隠さず言葉をかけると、三嶋は何か言いたげにうなずく。彼は俺の何を知っているというんだか。  軽く睨んですらいるであろう俺に怖気づくことなく、三嶋はワザとらしく口許に手を添えて小声でこう言ってきた。 「馬越先生も、最近すっごい機嫌悪いのって、やっぱケンカしたの? 先生たちって」 「なんでここで馬越先生の話になるの」 「え~? べつにぃ。ただ事実を言ってるだけですよぉ」  にやにやと人の神経を逆なでするようなことを言ってくる子どもに本気でムカつきながらも、グッと堪えられるのはここが学校だからだろう。  ――って言うか……ノンちゃんも機嫌悪いって、何やってんだよあの人……人には弁当箱ごときでブチギレるくせして、自分は弁当も作らないわ、あからさまに機嫌悪くて態度に出るわってどうなんだよ。  とは言え、そんなことを三嶋に言うわけにはいかないので、平静を装って素知らぬ顔をするしかない。 「あーそうなんだ。べつに先生には関係ないからね、そういう話。それより、次の授業いいの?」 「まだ大丈夫だもん。てかさ、本当にケンカしてないの?」 「してません。その馬越先生の機嫌の悪さになんで俺が関係するの」 「だって、馬越先生が機嫌悪くなってからと、鹿山先生のコンビニご飯が始まったのが同じなんだもん。それに先生も機嫌悪いじゃん」 「悪くない。悪く見えるのは、忙しいからです」 「受験シーズンだったりするから?」 「べつに体育科は、受験はあまり関係な……」  三嶋の追求を振り払おうと答えかけて、俺は気付いた。そうだ、今は二月半ば、世間は受験シーズン真っただ中だ。  自分の担当教科が受験とあまり関係がなくて、意識することがノンちゃんの繁忙期だということぐらいでしかないせいか、どうしてノンちゃんが昨夜遅かったのかに気付いたのだ。  いや、年度によっては受験学年の成績表つけたりとか、担任だったら内申書を書いたりとかあるけれど、その忙しさの理由を、自分のプライベートのもめごとに神経が行っていてすっかり忘れていた。教師としてどうなのかというツッコミは置いといてだ。 「先生? どうしたの?」 「や、なんでもない。ほら、そろそろ教室戻りな」 「ふぅん」 「なに?」 「あやしい……」 「先生はあやしくなんてありませんッ! ほら、チャイム鳴るよ!」  繁忙期前の貴重な弁当の日に、あんなケンカをしてしまったことに今さらようやく気付いた。そりゃあ、ノンちゃんめちゃくちゃ怒るよな。当たり前だよ、あんな夢だって見て当然だ。  だってノンちゃんとしては、しばらく弁当作れなくなる上に俺を具合悪くしてしまったお詫びも兼ねていたのに、軽はずみに俺が第三者、それもノンちゃんが好ましく思っていないやつに、ふたりの関係がバレるかもしれないことをしたんだから。  そして弁当が翌日からなかったのは、単純に怒っているだけが原因でないことにも気づいた。  大人げないのはどっちだろう。相手を解っていなかったのはどっちだろう。今更に気付かされた自分の愚かさに溜め息も出ない。  チャイムが鳴り響く中、俺は罪悪感で味がしないおにぎりを無理矢理詰め込んだ。  それから何日も、なんとかノンちゃんに謝りたかったけれど、夜にどれだけ待っていようと、ノンちゃんは俺が起きている時間には仕事から帰ってこなかった。  俺も仕事があるからそんなに遅くまで待っていられないから、結局その日にノンちゃんが何時に帰ってきているのかわからない。  当然だけれど朝になってもノンちゃんから弁当が届くこともなかったし、それどころかノンちゃんが起きてくるような気配もなかったから、俺から声をかけていいのかもわからなかった。  明らかに俺が悪いから謝りたかったけれど、だからと言って疲れ果てているノンちゃんのところに押しかけて自分の気持ちを一方的にぶちまけるのは何か違う気がして、部屋で寝ているだろう彼を訪ねる気になれなかった。  何か仲直りのきっかけになるようなこと。例えば、俺が何か料理を作って差し入れするとか、気の利いたものをプレゼントするとかができたらいいのかもしれない。  でもそんなことが思い浮かぶぐらい気が利いていたら、きっとこんな事態にはなっていないだろう。  手紙とかメールとかメッセージアプリとか、伝え方はいろいろあると言えばあるけれど、俺はどうしても直接謝りたかったから、毎日待っていたけれど……結局、二月の終わりに差し掛かっても、ノンちゃんと顔を合わせられる日はなかった。  その間にもどんどん俺の食生活は乱れに乱れていって、コンビニ飯に酒も加わってさらに事態は悪化していくばかり。  自分の部屋のダイニングで缶ビールをあおって飲み干しながら、今にも背後から聞こえてきそうな、「なーにしてんだ、バカサク」って言う彼の声を想像して振り返るも、そこには誰もいない。  テレビのバカ騒ぎする声だけが響いていて、虚しくて寂しくて涙も出ない。 「いってー、口内炎出来てるっぽい」  乱れた食生活で無駄に太ってしまったのか、最近口の中を噛むことが増えて、その傷が口内炎になったみたいだ。  うっかり買ってしまった辛いラーメンのスープが沁みてろくに食べられない。  こんな時、ノンちゃんがいたらきっと、「ほら、口あけろ。バカだなー、サクは」とか言いながらも口内炎の薬を塗ってくれるのに。  呆れながら薬をチューブから出して指先に取って、俺が痛がるところに塗ってくれるんだ。ぬめぬめとした感触を刷り込むようにしながら、執拗に丁寧に。  ノンちゃんのそれを思い出しながら、俺は薬を入れているケースから取り出したチューブから薬を指先に乗せて自分で塗ってみる。ノンちゃんの指先を思い出しながら。 「ん、っふ……っう、んぅ……」  傷口に薬を塗るだけなのに、彼の動きを乗せるだけで何故こんなに興奮してしまうんだろう。  自分の指先を咥えこんでいるだけのはずなのに、どうして躰が熱く硬くなっていくんだろう。  ――もうずっと、半月以上、ノンちゃんの“デザート”になっていない。  最後に触れられたのはいつだっただろうか。ポーテランドに行く前の晩だった気がする。 (――あの晩、ノンちゃんは俺にどんなふうに触れたんだっけ……)  脳裏をよぎる考えに応じるように、俺は口に突っ込んでいない方の手で()ち上がり始めた自分に触れる。  しばらく触れていなかったそこは、ただの記憶の確認だけで薄っすら先走りを零していた。  ニ、三回、俺は躰をまさぐってみる。微かにくちゅくちゅという濡れた音がして、躰が一層熱を帯びていく。  薬を塗り終えた指先が、傷口とは反対側の口中の壁をなぞる。まるで、彼の舌先の動きをまねるように。 「んん、っふ……っは、ん」  ダイニングテーブルの椅子に座ったまま、俺は自分の口に自分の指を突っ込みながら、いつの間にかむき出しにした自分の躰を慰め始める。  虚しいほどに明るいテレビの音さえ聞こえないほどに、俺はその行為に耽っていった。
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