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*8 欲しかった言葉より憎しみがまさった夜
ノンちゃんは照れ屋で口がちょっと悪くて、でもマメで心遣いが細やかな人だ。
心遣いが細やかということは、細かいことに気が付くということなんだろうけれど……悪く言えば細かいことにうるさい、ということにもなると思う。
だからノンちゃんは俺が野菜や魚を食べない好き嫌いの多さに小言を言うし、何なら弁当を帰ってからすぐ出してないことにも怒ったりする。
食に関すること以外でもノンちゃんは昔から何かと俺にとやかく言ってくることが多くて、いまみたいな関係になる前からもその傾向はあった。
地元の友達とかからは「馬越は鹿山のオカン」なんて言われていたりしたもんだった。
挙句、俺らの苗字の一文字ずつ取って、「馬鹿コンビ」なんて言われたりもしたもんだから、ノンちゃんは俺が余計な粗相――一番怒られやすい例で言えば、俺とノンちゃんが付き合っていることがバレそうなこと――をやらかすと、烈火のごとく怒る。
――で、いま、それでまさにガンガンに怒られている最中だ。
「……っとにお前さぁ。なんっ回言ったらわかんだよ? なあ?」
「だって、ノンちゃん最近遅くなること多いから……渡してもらった方が早いかなぁって思って」
「あぁ? 俺のせいなのか? だいたい、サクが自分で洗ってりゃいいんだろうが」
「ノンちゃん俺が洗ったの気に入らないじゃん、いつも洗い直すじゃん」
「端っこがちゃんとすすげてないからだろうが。つーか、そういう問題じゃないだろうが、これは」
問題点をすり替えようとしたのがバレてしまって、更に怒られて俺は首をすくめる。
何をそんなにノンちゃんが怒っているのか。
原因はあきらかに俺にあるので言い返すだけ火に油を注ぐ。
いま俺がノンちゃんに怒られていること。それは、「教え子に空になった弁当箱を託してノンちゃんに職場の塾で手渡しさせた」こと。
俺の職場の学校と、ノンちゃんの職場の塾には共通の生徒が何人か通っていて、その中のひとり――例の三嶋という、俺のことからかいつつ絡んでくる、ノンちゃんがあまり好意的に思っていないっぽい生徒に、空になった弁当箱を、今日ノンちゃんに届けてもらったのだ。
しかもこれが初犯じゃないから、ノンちゃんはブチギレているのだ。
「要注意人物にあえてエサを与えるようなことしてどーすんだよ、バカ」
「要注意人物って……三嶋は別にちょっとからかってくるだけで……」
「大人ナメてんだろうがよ、そいつは。って言うかな、俺が他の講師たちの前でどんだけ必死に言い訳したと思ってんだよ」
「それは……」
グラタンとか俺の大好物弁当を作ってもらった今日、俺はちょっと会議で帰りが遅くなりそうなのがわかったので、弁当箱の汚れが落ちにくいのを気にするノンちゃんのことを考えて、たまたま職員室にいた三嶋に弁当箱を託した。
べつに託したものが弁当箱であるとかいつも言わないし、彼なら俺とノンちゃんがお隣同士で食事の世話の関係も知っているから、まあ、いいかって思ってしまって、時々こういうことをやらかしてしまう。
三嶋は俺とノンちゃんの関係を面白おかしく探っていて、それは俺だけじゃなくてノンちゃんにも塾で探りを入れて絡んだりしているらしい。そして、その対応にノンちゃんも苦慮しているとは聞いていた。だから、嫌ってるっぽいのかな、とも。
でもまさかこんなに怒る程だなんて思っていなかった――というのはあまりに俺の考えが甘いということになるのだろうか。
俺としては、グラタン美味しかった~と、メッセージアプリで昼休みに送っておいて、その返事が退勤頃に届いているだろうと思っていたのに、届いていたメッセージは……
『何やってんだこのバカサク』
――だった。甘い言葉が返ってくるとばかり思い込んでいた俺としてはあまりに予想外な言葉すぎて、スマホの画面を見つめたまま数秒意味が理解できなくて固まったほどだ。
自分が何をやらかしたかに気付いた時には、もう、遅かった。
そうして、今に至る。
「いつも言ってるよな? 教え子を巻き込むな、って。どこから俺らのことがバレて、いたずらに広まるかわからないから、って。しかもああいう生徒に」
「そう、だけど……」
「なんだよ」
「いつも結局バレてないから、大丈夫なんじゃ……」
「そういう油断が命取りになりかねないつってんだよ、俺は! 人の話を聞けよこのバカサクは!」
聞いているよ、だから悪いって言っているんじゃん、さっきから……
でも、もう三嶋に弁当渡しちゃった事実は消えないし、これから気を付けるよ、しか言いようがなくない?
――と、俺は言い返したかったんだけど、あまりにバカだバカだ言われるもんだから、自分がしてしまったことへの反省よりも、一方的に頭ごなしに怒られていることに腹が立ち始めていた。
ノンちゃんは細かいことによく気が付く、心遣いができる人だ。
でもそれって、やっぱり物事に細かいっていうことなんだと思う。
弁当を、毎回じゃなくほんの時々託したくらいで、俺とノンちゃんの関係がどうのって一気に広まるわけがないじゃん、とも思う。
弁当一つで関係がバレてしまう可能性が百パーセントないわけじゃないとは俺だって思いはするけれど、だからっていちいち神経とがらせてピリピリしていたら表すら歩けないじゃないか。
細かいんだよ、ノンちゃんは、いちいち……しかも自分の方が絶対に正しいみたいな言い方ばっかりしてさ……なんだよそれ……
「……んな、バカバカ言わなくてもいいじゃん」
「馬鹿をバカって言って何が悪いんだよ、事実じゃねーか。何度も何度も……」
ノンちゃんが苛立ちを隠さない態度で大きな音を立てながら弁当箱を流しで洗い始める。その態度がまた俺をあおるのに。
俺が欲しいのは、こんな棘のある言葉じゃない。俺が欲しいのはもっとずっと甘くてやさしいキャンディみたいな言葉だ。
この前からなんでノンちゃんはワザとみたいに違うことばっかりするんだろう。
細かくて気づかいできるくせに、俺が欲しい言葉にはちっとも気付けないノンちゃんのヘンに鈍感なところにも苛立ちがふつふつと湧き始める。
「三嶋に何言われてると思う? “先生たちってホントに付き合ってないんですかぁ? あやしぃ~”って、しつこく言われるんだぞ、毎回。お前が弁当箱あいつに託すたびに」
「そんなの俺だってそうだよ」
「じゃあなんでやるんだよ! わかってんだろうが、言われることは!」
「テキトーに受け流せばいいじゃんか! 大人なんだからさぁ!」
「テキトーにしていて真に受けられても後が困るだろうが!」
「それはノンちゃんが受け流すのが下手くそなだけじゃないの? どーせ、生徒にきつく言って嫌われたくないなーなんて思ってるんでしょ。なんだよ、ええカッコしい!」
「なんだと、バカサク!」
俺がバカサクって言われて腹を立てるように、ノンちゃんにも言ったら逆鱗に触れてしまう言葉がある。
そのうちのひとつが、「ええカッコしい」、だ。
ノンちゃんは気配りができてよく気が付くから、八方美人の気があると俺は思う。それが時々鼻についてしまって、思い余って言ってしまうのが、「ええカッコしい」。
宣戦布告のように言い放った俺の言葉に、ノンちゃんが掴みかからんばかりに俺をにらんでくる。もちろん俺はひるまないし、それ以上ににらみ返す。
「サク、お前いまなんて言った?」
「ええカッコしい、だけどなにか?」
「どういう意味だよ! 俺のどこがええカッコしいなんだよ!」
「言葉のままだよ! 俺にも生徒にも嫌われたくないからどっちにも良い顔しようなんてええカッコしいの何者でもないじゃん!」
「自分のしたことの影響も考えてないバカに言われたくねえよ!」
「デートで俺の苦手なものばっかチョイスするようなやつにバカ呼ばわりされたくないね!」
「だからそれは謝っただろ! それをお前があだで返してきたんじゃねーか!」
「それは悪かったなって言ってるじゃんか!」
「言ってねーよ!」
「いま言ったもん!」
「意味ねーだろそれだと! っとにバカサクだな!」
「ええかっこしいに言われたくない!」
「んだと⁈」
ノンちゃんの泡だらけの手が、俺の襟元を掴み、俺もまたノンちゃんのネクタイを外して寛がせていた襟元を掴む。
怖いぐらいに俺を憎むようににらんでくるノンちゃんの目に映る俺の姿は、感情剥き出しのケダモノみたいで、ひどくみっともない。
でも、後に退くこともできなくて、そのまましばらくつかみ合って互いをにらみつける。
白々とした蛍光灯の明かりが、一触即発な空気に包まれたダイニングを照らしていた。
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