第2話

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第2話

 日付も変わって、そろそろ寝ようかと二人で言い出した頃になって、消防車のサイレンが響いてきた。それはどんどん大きくなってマンションの窓まで震わせ始める。  気になった京哉(きょうや)は寝室から出てリビングの大きな掃き出し窓に近寄った。 「すごく近いかも。ここから見えるかな?」  エアコンの温かな空気で結露した窓ガラスを手で擦ると、京哉はメタルフレームの伊達眼鏡を指で押し上げつつ伸び上がって外を眺めた。霧島(きりしま)も背後にやって来て小柄な京哉の頭上から窓外の様子を見る。そうしているとガラス越しに冷気が沁み込んできた。  二人共お揃いの黒いシルクサテンのパジャマに着替えていたので結構寒い。  だが、ただの野次馬根性で火事見物しようとしている訳ではない。二人は警察官で霧島は県警機動捜査隊・通称機捜の隊長、京哉はその秘書という立場にあるからだ。  機捜は普通の刑事と違い二十四時間交代という過酷な勤務体制で、覆面パトカーで警邏し、殺しや強盗(タタキ)に放火その他の凶悪犯罪が起こった際に、いち早く駆けつけて初動捜査に従事するのが職務である。  隊長と副隊長と秘書に限っては内勤が主で定時出勤・定時退庁する毎日であり、土日祝日も休みだが、それも大きな事件が起こらなかったらの話だ。 「あっ、見えた! (しのぶ)さん、あそこ、二階建てアパートから煙が出てますよ!」 「ああ、見えている。消防の放水も始まったようだ」 「北風も強いし、延焼がなければいいですね」 「そうだな。あとは赤馬でないのを祈るばかりか」  赤馬とは警察の隠語で放火犯のことだ。赤犬ともいう。  しかし五階建てマンションの五階五〇一号室から眺めて得られる情報は少ない。 「僕、着替えてちょっと見てきましょうか? せいぜい五分くらいだし」 「この寒いのにか? 止めておけ、風邪を引くぞ。明日出勤すれば分かることだ」 「忍さん、何度も言うように貴方はまだ自宅療養です。出勤は許しません」 「退院して丸二日、部屋に缶詰めだぞ、ヒマで堪らん。躰がなまって醗酵しそうだ」 「醗酵しようが粘りが出ようが、本当ならまだ入院中の身なんですから、だめです」  年上の愛し人が心配で頑として首を縦に振らない鳴海(なるみ)京哉は二十四歳、巡査部長二年生だ。  機捜隊員でありながらスペシャル・アサルト・チーム、いわゆるSAT(サット)の狙撃班員でもあった。必要時のみ呼び出される非常勤である。県警本部長から直々にSAT狙撃班員に指名されたのは京哉が元々スナイパーだったからだ。  無論警察官とはいえ合法ではない。陥れられていたのだ。  高二の冬に女手ひとつで育ててくれた母を犯罪被害者として亡くし、天涯孤独の身となって大学進学は諦め、警察学校を受験し入校した。そこで抜きんでた射撃の腕に目を付けられ、警察学校を修了し配属寸前で呼び出され囁かれたのである。  顔も見たことがないままとうに亡くなった実父が強盗殺人犯だったと。  実際には冤罪どころか罪の捏造という大嘘だったが京哉は嵌められてしまった。  政府与党重鎮と警察庁(サッチョウ)上層部の一部に巨大総合商社の霧島カンパニーが組織した『暗殺肯定派』に命じられるまま、警察官の本業をする傍ら五年間も政敵や産業スパイの暗殺スナイパーをさせられてきたのである。  一度として外さなかった腕で殺害したその数、じつに三十余名という。  だが霧島に出会って決意しスナイパー引退宣言をした。『知り過ぎた男』として消される覚悟の上だった。案の定殺されかけ、そこに間一髪で霧島が機捜の部下を引き連れ飛び込んできてくれて命を存えたのだ。  そして京哉がスナイパーだった事実は警察の総力を以て隠蔽されたために、今はこうしていられるのである。  けれど京哉は自分が撃ち砕いた人々の顔を決して忘れない。忘れられなかった。  更にはある意味上層部とパイプのできた京哉は霧島とセットで便利に使われ、特別任務と称して数々の事件に放り込まれては、殺さなければ殺されるというシチュエーションを何度も経験してきている。心の中に墓標を増やし続けたお蔭で京哉の心は一部が壊れかけていた。  霧島曰くPTSDらしいが時折機械的なまでに非情になる。  だが何はどうあれ自分のしたことから目を逸らすほど弱くはなかった。何もかもを心に刻んで生きてゆく覚悟は出来ていて、一生、どんなものでも一緒に見てゆくと誓い合った相棒(バディ)でありパートナーである霧島も共に背負ってくれている。  そんな霧島が公私に渡って傍にいてくれるのでPTSDも随分と癒されてきている気が京哉自身していた。  霧島には感謝と愛が溢れているが、今は食いつく勢いでまくし立てる。 「ったく、入院もあと一週間の予定だったのに勝手に帰ってきちゃうし、お蔭で最終的な精密検査もしてないし、あと五日間は大人しくしてて貰いますからね!」 「五日はふざけすぎだぞ。自分の躰は自分で分かっている。大丈夫だ、問題ない」  信用できない口癖の『大丈夫だ、問題ない』を披露した霧島は京哉を懐柔しようと薄い肩を両腕で抱き締める。それだけでなく京哉の耳元に低く甘い声で囁いた。 「なあ。それにしても何日禁欲させる気だ? 私が欲しくはないのか?」 「ちょ、耳に息は卑怯です! それに僕だって我慢してるんですからね!」 「我慢などせずとも良かろう。素直になれ」 「あああ、もう、精密検査が終わってからって何度言えば分かるんですか!」  巻かれた腕を振り払い、京哉は肩越しに霧島を見上げて灰色の目を睨みつける。  睨まれても婀娜っぽいような視線を返す霧島忍は二十八歳で階級は警視だ。この若さで警視という階級にあり機動捜査隊長を拝命しているのは最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリア故である。更には霧島カンパニー会長御曹司でもあった。  そのため警察を辞めたら霧島カンパニー本社社長の椅子が待っているのだが、本人は現場のノンキャリア組を背負ってゆくことを何より望み、辞める気は微塵もない。  それどころか実父の霧島会長が実母を愛人としたことや、裏で悪事を働いているのが許せず、証拠さえ挙がれば逮捕も辞さないと明言し、クソ親父と罵倒している。  お蔭で霧島会長とは京哉の方が仲がいいくらいで『御前』と呼び親しんでいた。  ハーフの生みの母から受け継いだ灰色の目は涼しい切れ長で、顔立ちは非常に整い怜悧さすら感じさせる。突発的に『クソ親父』から降ってくる霧島カンパニー関連のパーティーの類に嫌々ながら参加するためのオーダーメイドスーツで職務中も百九十近い長身を包み、颯爽と往く姿は女性でなくとも目を惹くほどである。  それに着痩せして見える鍛えられた躰は見せかけではなく、あらゆる武道の全国大会で何度も優勝を飾っている猛者でもあった。  まさに眉目秀麗・文武両道を地でゆく、他人から見たら非常に恵まれた男である。  そのため『県警本部版・抱かれたい男ランキング』ではここ数期連続でトップを独走しているが、元から同性愛者であり、その事実を隠してもいないので京哉はやや安心していられる結果となっていた。  その霧島は先般、事件の犯人たちに刺されて瀕死の重傷を負ったのだ。  だが驚異的な早さで回復し、『ヒマで死ぬ』と言って勝手に退院してしまったのは一昨日の夕方だった。その前には脱走までかましていたので元気なのは皆が知っていた。  けれど精密検査だけは受けて欲しくて京哉は止めたのだが、その時は『自宅療養後に受ける』との言質を取ったから帰ってきたのだ。  それなのにあれから二日、話のネタは『出勤する』『させない』か、『する』『させない』ばかりである。  出勤しても『書類は腐らん』と言って憚らず、秘書の京哉が監視していないと副隊長共々すぐにノートパソコンでのオンライン麻雀や空戦ゲームに嵌り、または居眠りしているというのに、出勤するなというと出て行きたがるのだから不思議だ。  せっかく県警本部長の厚意で京哉まで傷病休暇を貰って霧島の相手を務めているのに、世話のし甲斐がないこと、この上ない。  二人きりでいるからこそ煮詰まって『する』『させない』問題に話が及ぶともいえるが、寝る時はダブルベッドで、これも京哉の旗色が悪くなりつつあった。何せ小柄な京哉は眠るとき霧島の抱き枕というのが定位置なのだ。  「カリカリするのは溜まっている証拠だぞ」 「何を根拠に……あっ、それは反則! だめ、離して、降ろして下さい!」  年上の男は余裕があると見せかけて痺れを切らし、京哉をすくい上げて横抱きにしたのだ。そのまま寝室に運ばれ、ダブルベッドに放り出される。そうして霧島が京哉にのしかかろうとした、まさにその時ナイトテーブル上で京哉の携帯が震えた。 「あっ、メールだ!」 「誰だ、いいところを邪魔した奴は!」  不機嫌な霧島を押し退けて京哉は携帯を手に取ると操作する。  五年間のスナイパー生活を維持するため他人との深い関わりを極力避けてきた京哉にメールしてくる人物など限られていた。悪い予感が湧いたらしく霧島も一緒に小さな画面を覗き込む。 「ええと、機捜三班長・佐々木(ささき)警部補からですね。【真城(ましろ)市内、隊長の自宅近辺にて赤馬に依ると思料される火災が発生。非常呼集にて増員態勢に移行中】ですって」 「なるほど、やられたな」  単なる報告だが消防の緊急音が鳴り響いている最中だ。この真冬の北風が吹く中で赤馬など言語道断である。それに放火犯は連続して事件を起こすことも少なくない。 「よし、現場を見に行くぞ」
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