第5話

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第5話

 京哉は何げなく一瞬目を閉じただけだったが、同時に霧島の背に回されていた京哉の腕から力が抜ける。ぱたりとシーツの上に落ちた。  腕だけでなく全身の力が抜けたのを感じて、慌てて霧島は己を抜き去るとぐったりとした京哉を揺さぶる。 「おい、京哉……どうした、京哉!」  返事はなくバイタルサインを看ると正常範囲内で、何度も繰り返してきたことながら、どうやらまたも失神させてしまったらしかった。  溜息をついて京哉の長めの前髪をかき分け額に唇を押しつける。そしてベッドから滑り降りるとキッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを出してきた。  鈍く目を開けた京哉に口移しで水を飲ませてやる。  冷たさが刺激になったようで京哉は、はっきり覚醒したらしく大きく溜息をついた。 「すまん、京哉。大丈夫か?」 「あんなに良かったんです、謝らないで下さい。でも三時過ぎですよ、寝ないと」 「シャワーは明日の朝だな」  そう言いながらも霧島は寝室から消え、戻ってくると熱い湯で絞ったバスタオルを手にしていて京哉の躰を拭き始める。それが終わると自分を雑に拭いて、京哉を寝かせたまま器用にシーツまで交換した。  下着とパジャマまで京哉に着せつけ、自分も身に着けると、ようやく納得してベッドに上がる。  二枚掛けのブルーの毛布を被ると明かりをリモコンで常夜灯にした。  薄暗い中で京哉に左腕で腕枕し、自分は京哉に足まで絡めて抱き枕にする。 「おやすみなさい、忍さん」 「ああ、おやすみ、京哉」  それから二分と経たないうちに二人は揃って寝息を立てていた。 ◇◇◇◇  翌朝は二人して寝坊し、更に舌戦を繰り広げた結果三日後の朝まで出勤は延期された。そもそもあの夜の翌々日の昼まで、京哉が起きられなかったのである。 「京哉、起きろ。あと七分で朝飯ができる。お前はシャワー浴びてこい」  時間を見れば六時四十五分で、ドレスシャツとスラックスの上から黒いエプロンを着けた霧島は出勤する気も満々らしい。もう止めても無駄なのを察した京哉は溜息を洩らして起き上がった。シャワーを浴び、着替えてキッチンに出て行く。  するとテーブルには霧島お得意のバゲットのフレンチトーストに冷凍ほうれん草と京哉の好きな赤いウインナー炒めが並んでいる。カップを出した京哉は電気ポットの湯でインスタントコーヒーとカップスープを作ると着席した。 「頂きまーす。けど、そこまで出勤したがらなくてもいいじゃないですか」 「頂きます。だがそうも言ってはいられなくなった」  灰色の目で示されて京哉はリビングを振り向く。すると点けっ放しのTVがトップニュースで衆議院議員の妻が撲殺されたと報じていた。向き直り霧島に目で訊く。 「案件の衆議院議員・柾木(まさき)将道(まさみち)の自宅は白藤(しらふじ)市内だ」  白藤市はこの真城(ましろ)市の隣で二人の勤め先である県警本部も置かれている。お膝元の殺人に機捜も東奔西走していることは想像に難くない。  なるほど、これは隊長も捨て置けない状況だった。  急いでプレートのものを食してしまうと、霧島が片付けている間に京哉は換気扇の下で煙草を二本吸う。そのあと寝室で二人は警官グッズを着けて銃も吊り、ジャケットとコートを羽織った。戸締りと火元を確認し玄関を出る。ドアロックしエレベーターで一階へ。 「本当に忍さんは無理しないで下さいね」 「分かっているが、お前こそ無理するな。駐車場まで走れるか?」  本気で大丈夫か? と互いに首を捻りつつ二人は駆け出す。約三分で月極駐車場に駐めた白いセダンに辿り着き、ジャンケンで負けた霧島が運転席、京哉は助手席だ。  ここ真城市は白藤市のベッドタウンで住宅街が広がっている。街道を走って住宅街を抜け、最短でパイパスに乗ると郊外一軒型の店舗や鉄塔がポツポツと建っていた。  それらを目に映しているとやがて白藤市に入る。するともう周囲は高低様々なビルの林立だ。ビルの谷間には高速道路の高架も見える。  大通りは通勤ラッシュで車列もびっしりだった。  そんな道をまともに走っていては遅刻する。そこで霧島は裏通りに入り込み、普通なら選ばない細い小径や一方通行路を走り抜け、出発して五十分足らずで県警本部の裏門に辿り着いていた。関係者専用駐車場に駐めて二人は白いセダンを降りる。  コートは手にしたまま古めかしく重々しいレンガ張り十六階建て本部庁舎の裏口から足を踏み入れ階段を二階まで駆け上った。左側一枚目のドアを開けるとそこは機捜の詰め所である。  隊長の姿を認めて副隊長の小田切(おだぎり)警部が号令を掛けた。 「気を付け! 無事に戻られた隊長に敬礼!」  皆がザッと立って身を折る敬礼をする。霧島も気合いの入った答礼をした。 「長く留守にし心配をかけて悪かった。この通り戻ってきたので、また宜しく頼む」  それだけでいつも通りに機捜は動き出す。秘書たる京哉はまず給湯室に向かって在庁者に茶を淹れる準備だ。  議員の妻殺害事件で上番中の三班が掛かり切りになり、非常呼集で一班が呼び出された上にローテーションが繰り上がって本日上番する二班まで勢揃いだ。湯呑みを並べたトレイを持ち、三往復してやっと茶を配り終える。  そのうち副隊長が立会いの許で申し送りがなされ一班の隊員たちが帰宅し、二班の隊員たちは通常業務の警邏に出て行って詰め所内はやや喧騒から脱した。残る三班の隊員たちは霧島隊長と佐々木班長を交えて捜査の打ち合わせである。  その間に京哉は低く響く霧島の声に耳を傾けながら足に絡まるオスの三毛猫ミケに難儀しつつ、エサとトイレの当番がきちんと機能していたかチェックした。  特別任務の付録で押しつけられたミケを本当は飼いたかったのだが、マンションはペット禁止だったのだ。その点、ここなら二十四時間必ず誰かは詰めている。広くてミケも居心地良さそうだ。  チェックを終えると自分のデスクに就いて煙草を咥え、オイルライターで火を点けてからノートパソコンを起動する。キャリアで霧島の二期後輩に当たる小田切が意外にも奮戦してくれたようで、書類も思っていたほどは溜まっていなかった。 「うーん、それでも督促メールが五通か。仕方ないなあ」  茶と煙草を味わいながら、メールで副隊長に二件、隊長に一件の督促メール付き書類を送り付けた。残り二件は上司に任せておいては間に合いそうにない緊急案件で、京哉自身が代書するつもりだった。  そこで必要書類のファイルを探し出し、画面に表示して読み始める。だがふいに背後に立った霧島に肩を揺すられた。 「えっ、どうしたんですか?」 「聞いていなかったのか? 議員の妻殺害事件の現場、柾木議員の自宅に行くんだ。召集され帳場に三班が編入になった。私が事情を知らなくては話にならんからな」  帳場とは凶悪事件が起こった際に立てられる捜査本部のことだ。  けれど初動捜査専門の機捜は普通、帳場入りすることはない。珍しく機捜までが帳場入りというのは余程捜査員の手が足りないのか、それとも相手が議員というのでサッチョウ上層部から現場がハッパをかけられたか、その両方だろうと京哉は推察する。 「だからって病み上がりの隊長が自ら動かなくてもいいじゃないですか」 「私は書類仕事をすると頭痛がするんだ。それに小田切とのジャンケンに勝ってな」  小田切はムッとして煙草を吸っていた。せっかく孤独な書類地獄から抜け出せると思った矢先にこれだ。だが気の毒に思いつつ霧島が事件を前に灰色の目を煌かせているのを見て、京哉は副隊長のノートパソコンに残り三件の書類もまとめて送り直す。  問答無用で全て押しつけ、コートを手に霧島と機捜の詰め所を出た。一緒に第一回の捜査会議に出る三班の隊員らも出てくる。帳場は事件のあった所轄署に立てられるのが普通で今回は白藤署だ。白藤市駅近くにあり車で十分ほどの距離である。 「捜査会議には出るんですか?」 「いや、先に現場を見に行く」  一階に降りて裏口から出るとメタリックグリーンの覆面パトカー・機捜一号車に二人は乗り込んだ。運転はより巧みな霧島である。  早々に出発して本部庁舎前庭の駐車場を縦断し大通りに出た。緊急音やパトライトまでは出さず通勤ラッシュの終わった通りを霧島は淡々と走らせる。郊外の高級住宅地へと向かっているのは京哉も分かっていた。 「で、事件はどんな流れだったんですか?」 「マル害は柾木静香(しずか)、三十七歳。現場は自宅一階のサロン。死亡推定時刻は昨夜二十二時から零時の間。撲殺の凶器はサロンのロウテーブルにあったクリスタルの灰皿だそうだ」 「へえ、何だかサスペンスドラマみたいですね」  暢気に述べた京哉に霧島は微苦笑しながら頷く。 「ドラマと同様に灰皿にはマル被の指紋もついていなかった。殺害された夫人と灰皿を置いた使用人の指紋のみ、マル被は手袋か何かを使用していたと思われる」 「第一発見者は誰だったんですか?」 「夫人専用サロンで倒れているのを朝五時半に使用人が発見した」  現在は国会も会期の谷間で議員は在宅していたため、使用人は直ちに議員を起こし事実を知らせて議員自らが通報したという。  すぐさま県警本部に詰めていた記者クラブに事件が洩れ、上を下への大騒ぎになったという訳だ。 「ふうん。夫人が夜、見当たらないのに議員は気付かなかったんでしょうかね?」 「夫人と議員はいわゆる『すれ違い夫婦』だったらしい」  捜一の調べでは夫の議員は住み込みの秘書と共に、珍しく日付が変わる前に帰宅していたが、ベッドに入っても夫人がいない事に気も留めなかったと証言したという。  使用人らの話でも柾木将道議員はワーカホリックで、殺害された夫人と自宅で一緒にいることは稀だったようだ。  静香夫人が都内の議員宿舎に移り住むことなく自宅で暮らしていたのも理由だが、だからといって特に夫婦仲は悪くもなく、議員はなるべく自宅で過ごす努力をしていた上に、パーティーなどでは必ず夫人を同伴していた。 「けど現段階で柾木議員本人への嫌疑は仕方ないでしょうね」 「ああ。とんだゴシップネタというところだな」 「忍さん並みの有名人に昇格ですか」  暗殺されかけた京哉を助けた際、当時の県警本部長が暗殺肯定派だったこともあって、霧島は独断で機捜を動かした責任を問われ厳しい懲戒処分を食らった。  その停職中に京哉と密会しているのを某実録系週刊誌にスクープされたのを始めとして、現在の本部長に伴われた記者会見や霧島カンパニー関連でもたびたびメディアを沸かせているのである。  だが本人は生まれた時から霧島カンパニーの跡継ぎとして本社社長の椅子とセットで扱われてきたため、他人に注目されても何処吹く風の涼しい顔だ。最近は京哉まで政財界のパーティーなどに霧島と同伴で参加させられ、見られ慣れてきている。  そんなことを喋っている間に覆面は郊外に入っていた。山の手のにある閑静な高級住宅街は一軒一軒が広い土地を占有し、巨大質量を誇る建物を厳重な柵が取り囲んでいて何処か冷たく澄ましているように京哉には感じられた。 「あっ、あそこじゃないですか?」 「間違いないな。ではこの辺りに車を置いて歩くとしよう」
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