*6 怠惰な日々と、突然の別れの挨拶

1/1
74人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ

*6 怠惰な日々と、突然の別れの挨拶

 夏休みを目前に控えた祝日、俺は先週受け持っている部活のチームが予選敗退してしまったので、急遽休みになった。  相変わらず、毎晩のようにコンビニフードで晩酌して、そして締めはプリン……と、それから派生する自慰行為を繰り返している日々だ。  好きなものばかり食べつつ酒を飲んで、締めにプリンを食べて、それから……という生活は、お世辞にも健康的とは言えないのは自覚がある。  普段であれば休みの日、暇であれば軽く部屋で筋トレしたり、散歩がてら近所を走りに行ったりするんだけれど、そんな不摂生な生活のせいか身体が妙の重たくて仕方ないのはそのせいだろう。  熱は一応測ったけれど特にないので、単なるサボりたい気分というだけのダルさだろう。ただただベッドに寝転がって、眠るでもなくぼんやりと天井を見上げる。  馬越が俺の部屋に来なくなって、半月近くになろうとしている。つまり、それぐらい俺は不摂生な食生活を送っていることになるのか。 「んー……さすがにちょっとヤバいかなぁ……」  仰向けに寝ころんだまま自分の腹筋の辺りに触れてみると、心なしか前よりもやわらかくて弛んでいる気がしなくもない。  それでなくとも、あの事故のあとは大事を取って筋トレを一週間近く控えたりしていたので、すっかりルーティンだったものを忘れてしまっていて、取り戻すのに二か月近くかかった。  筋肉は裏切らないって言うけれど、俺が筋肉を裏切ったようなものなので仕方ない。  最近になってようやく元通りになったかなと思っていたのに……今度は理由もなくサボり始めてしまったために元の木阿弥だ。  しかも、今回は栄養バランスを無視した食生活なので、取り戻すには時間がかかるかもしれない。  こうしてうだうだぼんやりしていても筋肉が戻るわけじゃないのはわかりきっている。でも、何かヤル気が出ない。  こんなことはきっと以前もあっただろうけれど、そういう時俺はどうしていたんだろうか。大偏食だから栄養バランスの良い食事なんて無理だったろうし。 (――ってことは、やっぱり、馬越の食事のおかげでキープできてたってのは大きいんだろうか?)  でももう彼には合わす顔もない気がする……俺が拒んでしまったんだし……   さてどうしたものか……外はちょっと暑そうだから部屋で筋トレでも軽くやるかな……そう、思って起き上がり、試しに柔軟をしてからプランクを始めていると、インターホンが鳴った。 「宅配頼んでたっけ? はーい?」  寝室にしている六畳間のベッドから降りて玄関へ行き、特に警戒することなくドアを開けて俺は思いがけない訪問者に驚いて固まってしまう。 「よぉ、久しぶり」  立っていたのは、あの決裂をした早朝よりも明らかに憔悴したように見える馬越だった。馬越は軽く手を挙げて、そして弱く微笑む。  今更に何の用だろうか。まさか、いまになってあの時はよくもあんなこと言いやがったな! とか因縁つけに来たのかな……そんなことを考えながら、俺は馬越と対峙していると、馬越は困ったように笑って吹き出す。 「だから、そんな警戒しないでくれよ」 「……べつに、そんなつもりは」 「もう、こういうことは終わりにするからさ」 「え?」  終わりにする? 思ってもいなかった言葉を差し出され、心が警戒から戸惑いへと切り替わっていく。  言葉の意味を問うように馬越を見ると、彼は湛えていた笑みを泣きそうな表情のそれに変えながら答えてくれた。 「俺、引っ越そうかと思って」 「引っ越す、って……」  なんで? って、訊いてもいいんだろうか。だってそもそも俺はこの前彼を拒んだのに。そんな俺に、彼がここを出て行く理由を訊くような権利があるようには思えない。  それなのに、なんでこんなに俺はいま目の前が暗くなるくらいにショックを受けているんだろうか。  お節介な奇妙な隣人がいなくなるんだからいいじゃん、という発想をしようとするも、それはたちまちに消えていく。「そっか、元気でね」と、ひと言何か言えればいいのに、なにも言葉が出てこない。  少し重たい沈黙が二人の間に漂う。 「あのさ、これ、よかったら」  沈黙を破るように馬越が何かを差し出してきた。それは小さめの紙袋で、差し出されたまま受け取ると、少しひんやりした気配がして、若干重たかった。ほのかに、甘い香り。 「なに、これ?」と、聞こうとして口を開きかけると、「プリンだ」と、馬越は言う。  プリン……ここ最近、というか、あの頭を打った事故以来、とり憑かれたように日々食べまくっているお菓子の名前に、俺は胸の内がキリリと痛む音を立てた。  馬越との接し方や、彼との距離感、そして彼への感情の行き場でいつも心と身体のバランスが崩れて筋トレもできないくらいにぐるぐるしてしまい、そのたびに無性にプリンが食べたくなっていた。  プリンを食べると、必ずと言っていいほど誰にも言えないのに、でも誰かとわかち合いたくなるあの恥ずかしいことをしてしまう。しかも、彼の声を脳内に響かせながら。  まさかそういう曰く付きのものを本人から持ってこられるなんて思っていなかった俺は、固まったまま動けなくなってしまった。 「サクは憶えてないかもだけど、お前とケンカしたり、お前が熱出したりした時とかにはさ、昔からプリン作って持って行ってたんだよ」 「作って、って……手作りなの? これ」 「まあな。俺の得意料理って言うのかなこれも」  料理が得意な彼だから、プリンを作れることだって十分考えられるのに、全然こういう展開になるなんて思いついていなくて、俺は内心動揺していた。  だって、彼の声を思い返しながら自慰行為するきっかけになっていた食べ物が、彼の得意料理の一つだったなんて誰が思うだろうか。  そんなの、まるで俺が彼に焦がれているみたいじゃないか。俺は、彼を拒絶するような態度を取ったのに。 「じゃ、まあ、そういうことで。受け取ってくれてありがとな」 「え、あ……」 「器は、好きに処分してもらっていいから」  じゃあ、元気でな、と言いながら背を向けていく彼の横顔が泣いているように見えた。深くふかく傷つけてしまったのが痛いほどわかる表情をしていた。  全然彼のことを思い出せないで、彼の好意をただ受け取るばかりだったことにさえ謝ることもお礼も言えないまま、あんなひどいことを言って彼を傷つけたことも謝れないまま、このまま別れ別れになるんだろうか。  ――俺、ひどすぎない? なんか、すごくイヤだ……そう、思った瞬間、俺は自分でも思いがけない行動に出ていた。 「どうした?」  俺は、反射的に去っていく馬越のTシャツのすそをつかんでいたのだ。彼を止めてその後どうするか考えていなかった俺は、彼をつかんでいない方の手に持ったままだった袋を見てとっさに思い付いたことを口にする。 「あ、あのさ! このプリン、一緒に、食べない?」 「え? 一緒に、って今からか?」  馬越がこっちに振り返りながら問うてきて、俺は先の展開を考えていない焦りで手汗もなにもびっしょりになりながらもそれにうなずいた。 「あ、や、引っ越しの準備とかあるなら……いい、んだけど……」  俺、なに言いだしているんだ? 俺がこの前彼を拒んだのに、なに招き入れようとしているんだ? こんな気まぐれなことされたって、彼も困るだろうに。  ごめん、やっぱいいや……そう、慌てて返事を口に掛けながら顔を上げたら、馬越は嬉しそうな顔をして微笑んでいた。 「や、引っ越しは再来週の予定で、全然まだ余裕だから」 「そ、そっか……じゃあ、どう、ぞ……」  拒まれなかった。それだけでも驚きなのに、馬越は本当に嬉しそうに、「ありがとな」と言ってきたんだ。  その笑顔は、きっと以前の俺なら喜んで受け止めて微笑み返しただろうなという優しい表情で、素直に受け止めていいか戸惑っている俺に向けられていいものじゃないと思えてならない。  なんだか彼をだましているような気さえしてきて、胸が痛くて仕方ない。  招き入れた彼は、とても慣れた様子で、玄関で靴を脱ぎ、俺の部屋のダイニングへ入っていった。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!