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*1 降って湧いた災難は誰のものなのか
「……ごめん、悪いけどもう一度言ってくれる?」
「だからさ、俺はお前の幼馴染で、彼氏なんだよ」
――わからない。どうしても俺は目の前のメガネであご髭のある彼、馬越望とやらが言う言葉の意味が解らない。
彼曰く、俺と彼は三歳からの幼馴染で、実家もいまの家も隣同士で、彼は俺の食事の世話をしてくれるほどの仲だというんだ。
「サク、お前……俺のこと、忘れたのか?」
「そう……なるのかな……?」
「そんなはずねーだろ! 俺だぞ? お前とずっと一緒のノンちゃんだぞ⁈」
「あー……ごめん、全然、わかんないんだ……」
俺が思ったことをそのまま言うと、さっきまで半狂乱だった馬越は呆然とした顔をして、「……マジか」と、呟いた。そして、頭を抱えてその場にうずくまってしまった。
なんで俺が幼馴染らしい彼をこんなに悩ませているのかというと、そもそもの発端は今日の昼過ぎに遡る――
俺は私立茄子ヶ丘中学で体育教師をしている(それは憶えていた)。
梅雨時の今日は雨で廊下や階段が滑りやすくて、生徒たちに走るなよーとか、気をつけろよーとか声をかけていたんだけれど……まさか、自分が階段から落っこちて頭打つなんて思ってもいなかった。
体育教師の端くれなので一応受け身を取ろうとしたけれど、失敗してうっかり頭は打ってしまったし、抱えていた保健の授業の資料も散らばった。
だから俺が落っこちた現場は一時騒然として、一応意識はあったんだけれど打ったところが打った所なので、即病院へ連れて行かれた。救急車でなくて副校長の車で、だけど。
CTやらなんやら色々検査して安静にして、夜の十時過ぎになってようやく異常なしだって言われて帰ることができた。
さすがに今日は筋トレも酒もダメだろうなー、晩ごはんどうしようかなーとか思いながら帰ってみたら……彼がいたのだ。
「サク! ケガはないか? 痛むところは? お前筋肉あるからって過信するなってあれほど……」
顔を合わせるなりそんなことをまくしたててきた彼に、俺はぽかんとするしかなかった。
最初俺は実家の親でも来ているのかと思ったんだけれど、病院とかから誰かに連絡してもらった憶えもなかったから、すごくびっくりした。しかもなんかいきなりすごく話しかけてくるし。
だから、素で、「……あんた誰?」って訊いたら……幼馴染で、恋人だって言うんだ。しかもそいつは、お前の冗談面白くないぞ、って顔しているし。
合い鍵も交換しているじゃないかって言われて、鍵をよく見てみたら確かに似たような部屋の鍵が、自分の部屋のものともう一つついていた。
でもだからってそれだけで、「ああ、恋人なんだね」って納得できるわけがない。居直り強盗じゃないか? とさえ思ってしまったほどだ。
そしたら馬越はちゃんと身分証である免許証とか職場だという塾の講師の名札とか見せてくれたけれど、それは彼の証明であって、俺と彼の関係の証明ではない。
「じゃあ、お前のリュック見てみろよ。ネイビーブルーのトートと、その中に弁当箱入ってるはずだから」
そう言われてリュックを見てみたら……たしかに、あった。ネイビーブルーの小さなトートと、空っぽの弁当箱が。
まるで預言者みたいなことを言う彼に俺が心底ドン引きしていたら、「……まだ思い出せない?」と、悲しそうに彼は訊いてきた。
「偏食なサクの筋肉維持のメニュー考えてたとか言っても?」
「悪いけど、全然……」
「……そうか」
いくつかそれからも馬越は俺に質問――親の名前は憶えているか、とか、仕事は何なのか憶えているか、とか――してきたし、俺の質問――何歳から俺らは付き合っていることになっているんだ、とか、どこまで関係もっているんだ、とか――に彼は答えてくれたけれど、なんだか雲をつかむようで実感がわかないのが正直なところだ。
その時点でもう夜の十二時近くで、俺は事故の後でもあったのですごく疲れていたから、「悪いけど、また今度にしてくれる?」と言って、馬越には帰ってもらった。
馬越はまだ何か言いたげな、すごく悲しそうな顔で渋々とうなずいてくれたけれど、その表情がなんだか気の毒に見えて、俺が悪いことしたみたいで、胸が痛んだ。
べつに意地悪したわけじゃないのに、彼は深く傷ついた顔をしていて、それがなんだか俺の胸を痛めてざわつかせた。
だけど、彼の言うことをそのまま信じてしまうにはあまりに彼は距離感が近すぎて……俺は、なんだか怖くなってしまったんだ。
それでなくても、関りが記憶にない相手が俺のことを深く知っているっていうだけも充分恐怖だから。
結局この夜は事故関係の肉体的な疲れと、帰ってきてからの精神的な衝撃と疲れで、ベッドに潜ったら秒で眠ってしまったほどだ。
――そして夢を見たんだけれど、誰が出てきてどうなったとかどうしただとかは全然思い出せない。
ただ一つ言えるのは、起きたら無性にプリンが食べたくなっていたことだ。
翌日は大事をとったのと、もう一度診察を受けるために病院に行かなきゃいけなかったので、仕事は休むことにした。
車で行くのは念のためにやめとくかなー……と、思いながら遅い朝ご飯を食べるためにコーヒーの準備をしていたら、誰かがインターホンを鳴らした。
ウチのアパートは旧式のモニターのないタイプな上にマイクが壊れ気味らしいので、結局ドア越しに応答しなくてはいけないようだ。
「はーい?」
「あ、俺。ノンだけど」
「えーっと……ああ……」
ノン、と言われて一瞬誰だかわからなかったけれど、声で昨日の馬越だとわかった。
ドアを開けると、馬越が目の下にクマをこさえた顔で立っていた。
「おう、おはよう」と言ってきたから、「……おはよう」とは返すけれど、なんでまた来たのかがわからなくて、ツーブロックの刈り上げたところを掻きながら、どうしたものかと佇んで途方に暮れてしまう。
感情が面に出ていたのか、馬越は困ったような顔をして苦笑して、「そう警戒するなよ」、と言う。
いやいや、昨日の今日勝手に家に入っていたやつがまた家に来たら警戒するだろ……と、俺が言おうとしたら、馬越は何か大きめなタッパーを二つほど差し出してきた。
「……なにこれ?」
「サク、昨日もなんも食ってないかなと思ってさ。お前が好きなおかず作ってきたから」
「え、俺の好きなおかず? なんで?」
「言っただろ、俺はサクのメシの世話してきた、って」
「あー……」
そういうこと、たしかに昨夜言っていた気がする。俺は野菜ぎらいで魚もろくに食わない大偏食な記憶はちゃんとあるので、そのために食事はちゃんととれよって親に口うるさく言われてきたのも憶えている。
でもそこに、彼が関わっているかどうかなんて憶えていない。
彼はこれまで俺の食事の世話をしてきたらしいから、いつものつもりでいまこうしておかずを作って差し入れに来たんだろうけれど……それを、何の疑いもなく受け取っていいかが俺にはわからなかった。
だって俺、親が作ったもの以外口にできたことってほとんどないと思うのに、そういうことを他人である彼に任せていたというのがちょっと怖く思えた。そんなことあるのか? って。
相変わらずどう対応したものかとためらっている俺に構わず、馬越はタッパーを開いておかずの説明を始めている。
「サクが好きなハンバーグのトマト煮。チーズ入りのもあるからな。あと、ナスと豚肉のみそ炒め。お前これならナス食うからさー……」
おかずの解説をしながら心なしか昨夜より彼は嬉しそうにしている。そんなに俺に何か作れたのが嬉しいもんなのかな?
でも俺は、ちゃんと俺好みのおかずを作っていることに驚きを隠せなかった。彼が俺の好みを把握しているという嬉しさよりも、恐怖に近い驚きの方が強かったからだ。だって、お隣りとは言え、幼馴染とは言え、他人なのに。
「ってことで、これなら今日明日は大丈夫かなと思って。あれだったら後で豚汁作っといてやるから届けに――」
「……ご、ごめん、その……」
「ああ、まだそんな食欲ないか? じゃあ、とりあえずこれだけ渡しとくな」
断ろうともたもたしているうちに、タッパーを押し付けられるように渡して、馬越は帰って行った。
手元に押し付けられるように渡された手料理は、重量抜きで重たく感じられる……ほんのりとまだあたたかいから、きっと今朝早起きでもして作ったんだろう。
(だからクマができてたのかな……? って言うか、昨日よりは穏やかだったような気がするな)
そう考えつつ、とりあえず部屋の中に入り、ダイニングテーブルにタッパーを並べて、改めてふたを開けて中を見てみる。
「おお……?」
さっき馬越の説明を聞いている時にちゃんと見ていなかったけれど、やっぱり彼が作って来た者は俺の好みドンピシャだ。
恐る恐る、箸を取り出してひと口ナスのやつを口にしてみる。甘辛味噌の味が、俺の嫌いなナスの妙な味を掻き消して口の中に広がる。
「……ウマッ」
想像以上に、彼が作って来たおかずは、味まで俺好み。本当に彼は俺の食事の世話をしてきたっていうことなんだろうか? 筋肉維持のために、なんてことも言っていた気がするけど、それならば彼が色々カロリー計算とかして献立考えてたというんだろうか? たかが幼馴染のために?
「……いやいや偶然だろ。たまたま美味しかっただけだよ」
そう声にしてみたけれど、実際俺は箸が停まっていない。単純に起き抜けで腹が減っているだけなのかもしれないけれど、でも、これは美味しいのはたしかだ。俺は、ナスなんて嫌いなはずなのに。
単純に彼が幼馴染だから俺の好みを知っているのか、それとも彼氏だからなのか……わからないけれど、いま頬張っているおかずが美味しいのはたしかだった。
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