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*4 戻ってきたようで違う日常の景色
事故から一ヶ月もすれば体調はもう完全に元通りで、筋トレもランニングも復活して習慣もほぼ以前と変わりない生活に戻りつつある。
ただ、一つを除いて。
「おー、おはよう」
「……おは、よう?」
なんで疑問形なんだよ、と彼は苦笑しながら、俺の部屋の台所のダイニングテーブルでごく当たり前の顔をしてタッパーを広げて何やらおかずを取り分けている。
そりゃランニングから帰ってきて家に隣人が勝手にいたらここが自分の家なのかどうかわからなくなるだろう。そのせいの疑問形だ。すぐシャワー浴びたいし面倒くさいからわざわざ口にはしないけれど。
俺は大体朝は六時半ごろに起きてそれから走りに行くんだけれど、馬越はその少し後に合い鍵で俺の部屋に入って来て、こうして朝食の準備をするようになった。
今朝はおにぎりとねぎ入りの卵焼き、こんがり焼いたウィンナーにスープジャーに入った味噌汁のようだ。
「おい、シャワー浴びて来いよ。今日の味噌汁はお揚げと小松菜だからな」
「……うん」
あのドライブからかれこれ一週間くらい、彼は早朝に俺の部屋に来て朝食の用意をするようになった。
たぶんだけれど、俺がこの前パーキングエリアのチャーシュー丼に反応したからだろう。食べ物絡みなら、俺は何かを思い出すんじゃないかって言う一縷の望みを掴もうとしているのだ。
シャワー浴びて汗を流して着替えて食卓に着くと、いつもながら見事な朝食が整えられている。
独身男には至れり尽くせりで有難くはあるんだけれど……やっぱり素直に喜んでいいのかわからない。
「ほら、弁当。今日はサクの好きな枝豆の混ぜご飯だからな」
あと、ちーちくと唐揚げ、と言いながら、馬越は俺に礼のネイビーブルーのトートバッグを手渡してくる。
「……どうも」と言いながら受け取るそれは、今日もずっしりと重い想いが詰まっている気がする。
馬越は俺がもそもそと食べ出すと、満足そうに笑うんだ。
「んじゃ、気をつけて仕事行けよ。あと、仕事中も気をつけろよ」
「ああ、うん……」
だけど、じゃあな、と言って、馬越は本当に朝食の準備をして、弁当を手渡すと帰って行く。一緒に食べることも、俺を見守るようなこともしない。
もちろん最初からしなかったわけじゃなくて、初日とか二日目とか一緒に食べて、思い出話を一方的されていた。馬越は良くしゃべるやつで、塾で講師をしているとあって話は面白いなとは思う。
だから、俺がたしかに過去に彼と体験したであろう話であるはずなのに、初めて聞く誰かの話みたいで面白くて、時々不用意に笑ってしまうことがあった。
それはいいんだ。面白い話に面白いっていう反応をしただけなんだから。
問題は、それを見た馬越の反応だ。
「そうだよな! そう、あれウケたよなー。お前あれ憶えてる? お前がトレーニングでプロテイン買った時にさぁー……」
彼が話してくれた思い出話を純粋にトークとして楽しんで笑っただけなのに、記憶を取り戻して笑ったと勘違いして話をどんどん深堀してきたりするんだ。
俺にはその時の記憶がほぼないから、面白さで反応した以外にどう対応していいかわからなくなる。俯いて、折角それまで楽しかったはずの瞬間が消えてしまう。
そうして、彼と俺が楽しんでいたひと時が消えてしまうんだ。お互いの勘違いからくる食違いで。
馬越はそんな俺に気づくと、たちまちに悲しそうな顔になる。きっと俺の反応にすがるような思いだったんだろうに、俺が、全然ピンと来てない顔をしていたりするから。
でも馬越はいいやつだから、俺が反応鈍くなったりしても怒り出したりしない。ただ少し、やっぱり悲しそうな顔をして笑うだけで。
「……悪い、テンション上がりすぎたな」
こういう時、俺がそんなことないよ、とか気の利いた事を言えれば良かったんだろうけれど……俺、バカだからそういうのがすぐ出て来なくて。
そんな気まずい感じのことが数日続いて、その内に馬越は朝食を作って弁当を渡したら帰るようになったんだ。
その後ろ姿はこれまで――と言ってもあの事故の夜以来になるんだけれど――見たこともないほどしょ気ているのがわかるもので、見るたびに胸が痛くなって、さすがに悪いことしたなとは俺でも思う。
でもだからって、彼を呼び止めて一緒に朝食取ろうとか、思い出話をもっと聞かせてくれとか言うのはなんか違うと思うんだ。
そんなことしたって、俺が元の俺に戻るかわからないし、馬越が嬉しいと思うかわからない。寧ろ、彼をみじめにさせてしまう気がする。
表面上だけ通じ合ったような、記憶を取り戻したようなふりをしたって、きっと長い付き合いがあったであろう彼には嘘だと見透かされてしまうだろうから、意味はないだろう。
メガネの奥で柔和に微笑んで見える彼の目は、そうしているようできっと俺がどれだけ“サク”であるかを見定めようとしているんだ。
筋肉がそれなりについていて体格がいい方な俺を、まるで愛らしい何かのように見つめてくる視線は、まるで俺を丸裸にしてくるようで、ちょっと怖い。
『――仕方ねーじゃん、サクは嘘が下手なんだから』
スープジャーからお椀に注ぎ分けてもらった味噌汁をすすりながら、不意にそんな言葉が脳裏に響いた。
びっくりして俺は思わずダイニングを見渡したけれど、もちろん誰もいない。でもいまのはたしかに……彼の声だった。
隣同士に住んでいて、俺に彼の記憶がないと言ってもあれ以来毎日のように朝とか夜に顔を合わせているから、声を覚えているのはあるんだろうけれど、そういうのじゃなくて、言われた言葉がなんかいつもと違ったんだ。
馬越は距離感が近いやつだと常々思っていて戸惑うんだけれど、それよりもはるかにいま俺の傍らにいるような言い方だった。
まるで、彼の腕の中にいるような感覚、とでも言うのだろうか。そんな包まれているようなあたたかさを感じたんだ。
彼の腕の中……その表現に自分でも戸惑いが拭えない。なんだってそんな、まるで彼にすべてを許しているようなことを連想してしまうんだろう。
(――すべてを許すって、例えば恋人のように、とか?)
続いて浮かんだ言葉に、俺は肌が赤く染まって熱くなっていくのが止まらない。何だってこんなことに……?
空になった皿とお椀を前に、俺は溜め息をついて頭を抱える。
彼が俺に対して抱いているであろう想いと、俺がいま抱いている想いは、きっと違う。対極にあるのではないかとさえ思える。
自分で自分の身体と心の反応がわからなくて混乱する。俺は、彼とどうなりたいんだろう。どうありたいんだろう。
わからない、わからない……ただただ頭が心がぐるぐるする。
「あ、やべ。仕事行かなきゃ」
随分と考えこんでしまっていたみたいで、気付けば出勤しなくてはいけない時間になっていた。
俺は慌てて食器を下げて、ざっと洗って、バタバタと着替えたりして身支度を整えていく。ちゃんと、馬越からの弁当もリュックに入れて。
(このままでいいわけないよね、俺も、彼も……)
部屋の鍵を閉めてふと隣の部屋のドアを見ると、それは静かに同じ色と形をしてそこにある。その向こうにはかつて見馴れていたはずの風景が広がっているのかと思うと、不思議な気分だった。
俺は、もうそれを見ることも思い出すことすらもしないんだろうか。それを、彼は考えたことがあるんだろうか。
考えたことがあるとしたら、そんなことを思いながらいつも俺に朝食を作って来たり弁当を作ってきたりしているんだろうか。
彼からもらう手料理には、そんな重たい想いがつまっているのだろうか。
でもおかしなもので、こんなぐるぐるした思いの時ほど、俺は酒でパーッとするというよりも、甘いプリンが恋しくなるのだ。卵たっぷりの、いかにも手作り、っていうやつを。
「あー……帰りにまたプリン探しに行くかぁ」
プリンはこういうぐるぐるした気分の時ほど欲しくなって買って食べるんだけれど、どれもなんか今一つ違うんだ。
今日こそは心の琴線に引っ掛かるやつを見つけ出すぞ、と心に決めながら、俺は溜め息交じりに愛車に乗り込んで職場へ向かった。
外は梅雨明け間近な青空が眩しく広がっていた。
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