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*5 お節介な隣人との決別からの思わぬ余波
水泳授業が始まり、梅雨の雨よりもきつい陽射しの方が増え始めた頃、馬越は俺の部屋に来なくなった。
夏休み前なので彼の職場である塾も忙しいんだろうし、俺も期末テストだ、学期末の成績付けだ、で忙しくしていたから、それもあって足が遠のいるのだろうけれど、きっとそれだけではないんだというのもちゃんとわかっている。
先週の土曜日、前日俺がたまたま同僚の教師たちと居酒屋で久々に飲んだ日があった。
事故以来久々に大酒を飲んでいい気分で帰って、着替えもろくにしないでベッドに飛び込んで眠ってしまったほどだ。
ただまあ、そうすると翌朝は最悪な二日酔いになる。久々すぎて忘れていた俺は、明け方からトイレとお友達状態だった。
一時間ぐらいトイレに籠城していただろうか、もう吐くものはないだろうという頃、玄関のドアが開く音が聞こえた。
「あーあー、大丈夫かサク。また馬鹿みたいに呑んできやがって……」
外はもう朝になってしまっていて明るく、馬越は部屋着だけれどさっぱりした顔で部屋に入ってくるのだ。
ゲロ臭い口元をゆすいでから彼の許に向かうと、彼はいつものようにテーブルに手料理を広げている。しかもこの時は片手鍋につけものみたいなものをタッパーに詰めてきていた。
「……なにそれ」
「昨夜すげーご機嫌に帰ってきてたの聞こえてたからな、念のため作っておいたんだよ、たまご粥」
「たまご粥?」
「サクの二日酔いにはこれって決まってんだよ!」
「これ食ったら一発で二日酔いなんて吹き飛ぶからな」とニコニコと笑いながら、馬越は鍋の蓋を開けてやわらかい卵色のそれをお椀によそっていく。
たしかに出汁のいい匂いのするたまご粥は二日酔いでグロッキーになっているその時の俺にぴったりな気はした。
でも、二日酔い特有の頭痛と胸やけで気分最悪な俺に構わず、吞みすぎだの、もう少し静かに夜は帰ってこいだの小言を並べてくる彼に苛立ち始めていた。小言を口にする彼の言葉が頭痛に響いていたのだ。
「……ってことだから、お前ももう少し大人って言うかさ、教師として恥ずかしくないようにし――」
「――っせーんだよ! お前は俺の母さんでもなんでもないだろ! だいたいな、早朝からいっつもいっつも押し付けがましいんだよ! 勝手に上がり込んできてさぁ!」
肩にかけていたタオルを床に叩きつけてまでいうことじゃないというのに気づいたのは、言い放った言葉の端が狭いダイニングいっぱいに響き渡ってからだった。でも、もうそれは、取り返しがつかないこともわかっていた。
それまでにこやかに俺の二日酔い用朝食を用意していてくれた馬越の手が表情とともに凍り付いて、そしてみるみる視線が下がっていった。
重たくて苦しい沈黙が頭から二人を押しつぶすように圧し掛かってきて二人の口を塞いでいた気がする。息が止まるかとさえ思えたほどだ。
謝らなきゃ……そう、瞬時に思ったはずなのに、唇が半開きになったまま言葉が出なかった。
馬越は俯いたままで、そしてその内ばたばたとよそっていたお粥も鍋に戻したりタッパーの蓋を閉じて入っていたトートバックにしまったりし始めた。俺が止める間もなく。
そうして、きれいにテーブルの上を片付けてしまった馬越は俺の方を向き直って、あの泣きそうな……いや、実際泣いていたんじゃないだろうか。そんな顔をしてこう言った。
「……悪い、もう、しないよ」
怒りで吐き捨てるようにではなく、悲しみに苛まれながら振り絞るような声だった。あまりに痛々しい声で、俺は自分がやらかしてしまったことのひどさを悔やんだけれど、その時には既に馬越はこの部屋から出て行った後だった。
それまで苛まれていたはずの頭痛すら吹き飛ぶほど衝撃的な展開に、俺はしばらくテーブルを見つめたまま動けないままだった。
それきり、馬越は俺の部屋に来ていないし、朝食も弁当もない。
奇妙なお節介を焼かれなくて、そして栄養バランスだ、カロリーだ、口うるさく言われず好きなものを好きなだけ飲んで食べたりできるようになったからいいじゃないか――そう、思いながらそれからの日々は羽目を外したかのように揚げ物だ酒だと俺が好きなものばかりを食卓に並べては食べる日々が続いた。
これこそ独身の醍醐味だよな、あんな母親みたいな口うるさいやつに心惹かれていたなんて、やっぱりあいつの思い違いなんだよ――そう、思っていたのに。
お節介な隣人との決別の余波は、思いがけない形で俺に影を落としていた。
「――ン、っは……ん……ックソ、何、で……いつも……」
今日も俺は仕事帰りに缶ビールとつまみに唐揚げとコロッケと、そしてプリンを買った。今日のプリンはコンビニで最近売れていたやつだ。
帰るなりビールを缶の半分ほど飲んで、つまみを食べて、人心地着いたところで締めにプリンを食べる、というのがこのところのお決まりの晩酌なんだけれど、妙なことはその時に起こる。起こるって言うか、俺がしてしまうんだ、その奇妙なことを。
「あ、あぁ、っは……あ、ッはぁ……」
酒を飲んで、その後プリンを食べると、何故か俺は身体の奥が熱く疼いて仕方なかった。
ただ疼くだけなら耐えればいいんだけれど、それはなかなか鎮まらない。しかもなんか半勃ちしていたりするし。
酔いも手伝ってか、俺はその勃起しかけた自分の躰に触れてしまう。触れて、もてあそびはじめるんだ。子猫が自分のしっぽにじゃれつくみたいに。
でもそれはちっとも疼きを解消するわけもなく、むしろ煽るように焚きつけられていって、どんどん熱を帯びていく。
そうして気付けば、俺はひとりダイニングで晩酌の後に自分を慰めてあえいでいるのだ。
疼きは躰を扱いていれば治まるわけではないようで、それはどんどん躰の奥に広がっていく。何かの震源のように疼きは奥で俺を呼ぶように快感を求めるんだ。
「っあ、あぁ……もっと、奥……シたい、あぁ!」
どうすればその疼きが治まるのか、俺は知っているようでいて、まるで真相が何か幕の奥にあるように見えてこない。
それでも懸命に探ろうとがむしゃらにひたすら躰を扱いていると、また、あの声がするんだ。
『――何やってんだ、バカサク。ひとりで善がってんじゃねーよ』
甘く俺の名前を囁く、低く熱い……あいつの声だ。
「あ、イク! あぁぁッ!」
それが聞こえた瞬間、俺はいつも震えながら絶頂を迎えてしまう。躰を握りしめる手の中には白濁があふれていくのを感じながら、ものすごく不本意な気分なのに妙な安心感を得てホッとしている自分もいる。その安心感がものすごく謎で仕方がない。
そしてなにより、なんで彼の声を思い出して、絶頂を迎えてしまうのかもわからなかった。
こんなのまるで俺があいつに、馬越に身も心も焦がれているみたいじゃないか……その発想が脳裏をよぎってたちまちに身体が熱くなって、慌ててしまう。
そんなことを、晩酌のたびにほぼ毎回繰り返しているんだ。これを奇妙と呼ばないで何と言えばいいんだろう。
相変わらずプリンの味にも満足していないし、なのにそれを食べることで引き起こされる奇妙な自慰行為。どんどん自分の心と身体がわからなくなっていく。
情緒不安定だとか、体調不良だとかというのとはまた違う、奇妙な不一致。そして仕事の忙しさにもかまけてほとんど筋トレもランニングもできていないのがこの頃の状態だ。
俺、頭を打ってからなんかヘンになっちゃったのかな……よぎる不安に押しつぶされそうになりながら、俺はただ粛々と後始末をしていくだけだ。
「……こんなこと、誰にも言えないよ」
奇妙すぎて、誰にも言えない。そしてこんなことをしても気持ちはすっきりしていなくて、やっぱりぐるぐるとしたままだ。
きっと俺はまたプリンを買い求めてしまうし、そして発情した十代の子どもみたいなことをしてしまうんだろう。すごく恥ずかしい……でも、誰かと分ちあいたい気もする。それが誰なのかわからないけれど。
親切にしてくれていた馬越にあんなこと言った罰で、俺はとうとうこんな性癖になってしまったんだろうか……と、自分で自分にショックを受けながら、俺はシャワーを浴びに風呂場へ向かう。
汗ばんでドロドロになった身体は熱いシャワーを浴びるとたちまちにきれいになっていく。でも、心はまだどこか汚れているような後ろめたい気分だった。
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