*7 黄色くやさしく甘いデザートに目覚めさせられるもの

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*7 黄色くやさしく甘いデザートに目覚めさせられるもの

 馬越を部屋に招き入れて、とりあえずダイニングテーブルの椅子に座ってもらって、たまたま買い置いていた麦茶を出すまではできた。  そうなったら次は、受け取ったプリンを取り出すことになる。  作った本人の目の前で取り出しても、彼はプリンにまつわる記憶はあっても、俺はないと言えばないから、リアクションに困ってしまう。  だからと言ってプリンを一緒に食べようって俺から誘っておきながら出さないわけにはいかないし……なんて考えていたら、馬越が俺の手からプリン入りの袋を取り上げられる。  決して強引な嫌な取り上げ方ではなかったけれど、まさか彼が手に取るなんて思っていなかったので、俺は少しポカンとしてしまった。  いつの間にか馬越は俺の家にあるスプーンを二本取り出していて、テーブルに置いてこちらを見ている。 「どうした? 食うんだろ?」 「あ、う、うん。食べようか」  改めて、彼は俺のことを本当によく知っているんだなと思った。家の中でも、遠慮した感じもないし、くつろいでさえ見える。自然にテーブルに座って、自分が持っていたプリンを取り出してテーブルに並べたりして。  すっかり準備が整って、あとは俺がテーブルにつくだけになっている。 「さて、食うか」  テーブルを挟んで向かい合う馬越は心なしか嬉しそうに微笑んでいて、そんなに俺といられるのが嬉しいんだな、と改めて思わされた。  そして同じくらい、彼の想いを素直に受け止められない自分に一層罪悪感を覚えていた。  馬越が作ってきたプリンは、よく野菜のチーズ焼きだとか小さなグラタンだとかを作る器で作られていて、彼が手作りしたというのは本当なんだと改めて知る。 「いただきます……」 「どーぞ」  程よく冷やされたそれは、卵をふんだんに使われたのがわかるやわらかな黄色で、焼き色がついていた。  ひとさじ掬うとふわりと甘い卵のにおい。コンビニとかスーパーのとかとは違う弾力に思わず頬が緩んでしまう。 「うん、上出来だな」  馬越は自分で自作のプリンを絶賛していて、俺が見ているのに気づくと、おかしそうに微笑んでいた。  俺がなかなか掬ったまま口にしないからか、苦笑しておどけたように言った。 「まあ、ごらんのとおり、毒なんて入ってねーから、最後だと思って食ってくれよ」 「ああ、うん……」  促されて恐る恐る口に運んで、舌先で味わうと――口の中いっぱいにやさしく甘い……すごく懐かしい味が広がる。  ――ああ、これだよ、これ。 そんな想いがふつふつと湧いてきて、俺はさらにふたさじ続けざまに口に運ぶ。甘くやさしい卵の味と、時々底の方から絡むほろ苦いカラメルの味。 「美味いか?」 「うん」 「そっか……」  俺が美味いと言ったのを確認できたので満足したのか、切なそうに微笑んで、馬越はそれきり話しかけても来ないし、こちらを見ることもなかった。  だからそれからは、ただ黙々と食べるしかなく、俺も彼も手許に視線を落として食べ続けていた。  三分の一ほどを食べてしまった頃、ふと、脳裏に昔の景色――たぶん、実家の景色が映し出される。  色褪せた景色の中で、俺は家の寝室の布団の上で起き上がっていて、誰かと一緒にプリンを食べているんだ。  黄色くてやさしい甘さのそれは、向かい合っている誰かの手作りなんだと俺は知っている。そしてそれが、すごく特別なものであることも。 (――そうだ、プリンは、俺にとって特別だったんだ。なんで、プリンは特別だったんだっけ……っていうか、なんで俺布団の中にいるんだろう……パジャマだし……)  ひとさじ食べるごとに「おいしい!」と、俺が言うと、隣に座る誰かが照れたように笑って、「これ食ったら元気になるよ」とも言う。 (……そうか、俺、風邪ひいてて……これはお見舞いで……)  「母ちゃんと作ったから美味いんだよ」と、その誰かが言うと、俺は、「でもこんな美味しいの作れるってすごいじゃん!」と感激したように言い、そして、こう続ける。  言葉は、記憶の中から急に現実の中に転がり落ちた。 「――こんな美味しいの作れるってすごいじゃん……さすが、ノンちゃん、だね……」 「……え?」  口をついて出た名前に、俺も、馬越も驚いて固まっていた。  いま、俺、誰を何だって言った……? 誰の名前を口にした?  手にしていたスプーンが手から零れ落ちて、プリンの破片がテーブルに散る。それにも構わず俺が彼の方を向くと、彼は――ノンちゃんは、涙をいっぱいに溜めた目で俺を見つめていた。 「俺、いま、ノンちゃん、って……」  名前を口にするごとに、脳裏には古い記憶が映画のように細切れに映し出される。そのシーンのすべてに、彼がいて、そして俺らはいつもプリンを食べていた。  卵いっぱいの甘い味にほろ苦いカラメル――これは間違いなく、俺がこの世で一番好きなノンちゃんが作るプリンの味だ。  そうだ、これは、俺が大好きなノンちゃんが作ってくれる、この世で一番美味しくて大好きなプリンだ。 「……サク?」  ノンちゃんが椅子から立ち上がって俺の方に手を伸ばしている。目から涙が溢れて頬を伝っていて、伸ばされた指先は俺に触れたそうに彷徨(さまよ)っている。  俺はその彷徨う指先をそっと取ると、つられるようにノンちゃんが近づいてきた。 「ノン、ちゃん……?」  名前を口にすると、ノンちゃんは瞬きするたびに涙をこぼしてうなずき、そして触れ合っていた手から手繰り寄せるように俺に近づいてきて、そして抱きしめる。  鼻先に、嗅ぎなれたタバコのにおいがほんのりとする……ああ、俺、ノンちゃんにハグされている……そう認識した途端、俺の眼からも涙が溢れだした。  大好きなプリンの味とほのかなタバコのにおいが俺の奥の方で眠っていた記憶を呼び起こしてくれたみたいで、音がしそうなほどノンちゃんに抱きしめられながら、俺は溢れてくる懐かしさで息が詰まりそうだった。 「ごめ、ん……ごめん、ね、ノンちゃん……ずっと、思い出せてなくて、ごめん……」 「……もう、無理なんじゃないかと思ってた。もう、サクは俺の名前を呼んでくれることも、俺が作ったメシを食ってくれることもないんだと思ってた」 「ごめん、ノンちゃん……」  なんて詫びればいいんだろう。どんな言葉をつむげばあれからしてきてしまったひどいことを許してもらえるだろう。どんなに謝っても足りない気がして、悲しくて、さっきまでとは違った意味の涙があふれて止まらない。  うわ言のようにノンちゃんの名前を呼んで謝り続ける俺に、ノンちゃんは首をゆるく振ってこう言った。 「――いいんだ、またこうしてサクが俺の作ったもの食ってくれて、美味いって言ってくれたから」  そう言って向かい合った笑顔は涙にぬれていて、そしてとてもよく知るやさしい甘い顔をして俺を見つめている。  その表情に愛しさが込み上げてきて、苦しくて、俺はそれを伝えるかのようにノンちゃんの唇に触れてこう言った。 「はっきりと思いだしたよ、ノンちゃん……俺の胃袋はノンちゃんにがっちりつかまれてること、プリン食べて思い出せた!」  俺としては最大級の愛の言葉のつもりだったのに、「っはは、そうか、サクの胃袋つかめてたから思い出してもらえたか、そりゃよかった。プリン様さまだな」ってノンちゃんは大笑いしやがった。  なんだよもう、これじゃあ俺がプリンだけ好きみたいじゃないか……と、軽く腹が立ったんだけれど、でもノンちゃんが泣きそうな顔じゃなくて、お腹のそこから心から笑っているのを見ていたら、そんなの些細なことに思えてくる。  だって、いま俺は心から愛しい人の存在と味を思い出せたんだから。  ――やっぱり、俺の心と胃袋はノンちゃんに捕まれていたんだ。決して離れてしまわないように。そんなことを改めて気づけて、俺はノンちゃんが一層愛しく思えた。  感情も涙も落ち着いたので、放りだしたプリントスプーンを拾って、また俺らはそれぞれの席についてプリンの続きを味わう。 「やっぱ美味しい、ノンちゃんのプリン。この世で一番好き」 「お前、ほんとにプリンのことは憶えてたんだな」 「え? なんのこと?」 「いや……なんでもない。じゃあ、サク。俺とプリン、どっちが好き?」  先にプリンを食べ終えたノンちゃんが、テーブルに頬杖をついてちょっと意地悪そうに笑ってそんなことを言う。  俺はプリンの最後のひと口を味わいながら、しばらく考える……ふりをする。  だって、こういう質問に対する俺の答えは決まっているからだ。  そしてそれは、きっとノンちゃんだってわかりきっているんだ。 「俺、ノンちゃんが作ったものなら何でも好きだし、ノンちゃんも好きだよ」  俺の答えを聞いたノンちゃんがそっとまた立ち上がり、俺のあごに手を宛がって上を向かせ、そして唇を重ねる。 「――じゃあ、お前は“デザート”だな」  まだプリンの名残のある唇を味わうようなキスを交わしながら、俺は身体の奥がもう一つの記憶と共に目覚めてくる衝動を感じていた。
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