赤い愛は鼓動する

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 免許合宿の先生が結婚した。名字が変わると免許証の裏にその旨を記す手続きをするらしい。学科試験範囲外の雑談として彼女はそう語った。 「先生、おめでとう」 「おめでとう、さっき授業で話してた裏面の更新欄ってやつ見せてよ」 「おめでとう。新しい名字何になったの?」  講義後、先生の元には生徒が集まり口々に先生を祝った。  教卓の周りには幸せな空気が充満していたが、俺には縁のない話だ。俺がこの先誰かと結婚して姓を変えることも変えさせることもきっとない。俺にとっての改姓は親が離婚した時にするものという認識だった。 一足早く寮に戻ろうかと思ったが、隣の席で講義を受けていた美冬に呼び止められた。 「凪君も行こうよ」 「あ、うん」  美冬に半ば強引に誘われ、先生に祝いの意を伝えにいく。教卓に置かれた実際の免許証にちらりと目をやった。免許証には裏面の備考欄に新しい名前が書かれているとともに、下部の自筆での旧姓の署名に二重線が引かれ、新姓で新たな署名があった。  ふと美冬の横顔を見ると、美冬はじっくりと先生の免許証を見ていた。次の講義時間が近づくと、先生は免許証をしまい帰ろうとする。 「私、先生のこと尊敬します」  美冬は先生の目を見て、力強い声でそう言った。 「ありがとう、美冬ちゃん」  先生は美冬に笑顔を向けると、次の講義が行われる教室に向かった。  親の愛すら知らずに育った俺からすれば、伴侶を見つけ結婚できたと言うだけでもすごいことだと思う。確かに、先生は気さくだし、みんなに好かれるタイプの人間だ。しかし、俺は美冬の方が尊敬に値する人間だと思う。  美冬は先生以上に誰からも愛されていた。先生を含め、みんなから下の名前で呼ばれている。同じ日に合宿に入寮したメンバーだけでなく、通いで来ている地元の生徒とも仲がいい。いつも笑顔で楽しそうな彼女を見ていると、こちらまで幸せな気持ちになる。  彼女は七月の免許合宿の説明会にセーラー服で現れて周囲の注目を集めた後、年上の輪に物怖じせず溶け込んでいった。送迎をしていた母親に感謝を言葉にして伝えている姿も好感が持てた。  一方俺は中学卒業後、酒浸りの母と彼氏の暴力男から逃げるように就職した。誰にも頼れなかった。去年の終わり頃、突然原因不明の凄まじい頭痛に苛まれて仕事を辞めざるを得なくなった。福祉の世話になりながら生活し、春頃に頭痛が消えたのと同時に再就職した。新しい職場で運転免許が必要になり、合宿での短期取得を命じられた。  他の合宿所がどうなのかは知らないが、この合宿の参加者は圧倒的に大学一年生が多い。俺も大学に通えていたならば一年生相当の年齢なのに、同世代のみんなに馴染めない。別に今更悲しくもないが、生き別れた双子の兄と一緒に父に引き取られていれば俺の人生はもう少し違ったものになっていたんじゃないかと時々思う。 「凪君、このあと空いてる?」  美冬だけがそんな俺に友好的な態度で話しかけてくれた。口下手を拗らせている俺といても常に笑顔だった。 ――あの子と遊んじゃいけません。あの子のお家はお母さんがおかしいから。 ――あいつ、気味が悪いんだよな。  そう言われ続けた俺にできた初めての友達。嫌われ者の俺と同じ魂の色をしているのに、美冬は誰からも愛されるのが納得できるほどの人格者だった。
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