書けないと悩んだひとへ

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書けないと悩んだひとへ

『自分の作品に価値がないのではないか』 書けないと悩んだひとへ  趣味で創作小説を書いているひとの場では、たびたび聞く悩みごとが3つある。それは、  ネタがない、思いつかない、書けない。  思ったように話が書けない。  書いても意味がない、価値がないのだと感じる。  これがセットでくる時もあれば、バラバラの時もある。長年書いていれば一度くらいだれでも考えたことはあるだろうし、プロだって考える。わたしは歴は長いがとびとびで創作していたし、トータルでそんなに書いているわけでもないし、マイナスループの沼思考に嵌って出られなくなったこともない。  わたしにとって「趣味は趣味なので」と浅く広く趣味を反復横跳びするのも趣味というか。なのでこれから書くことは「その思考に陥らないために」というつもりはない。そうやって悩んだひとの話を聞いて「自分はなんで話を書くんだろう」と考えた。  きっかけは、書かずにはいられないあふれるものがあるから、なのはまちがいがない。  わたしはこどもの頃から、文章を書くのが好きな子だった。ものがたりも、読書感想文も、国語のテストにある文章問題も好きだった。  特に読書感想文は、すきな話を読んだあとには書きたくなった。それは一般的な課題に出されるものとはちがうが、中学時代には色んな本を読むようになり、その感想をノートに書きなぐっていた。いわゆる黒歴史的なものでひとには見せられないが、自分では、なるほどこの頃にはもう今の思考回路ができていたんだと感心するものでもある。  そしてその頃にであった一冊のまんがの中にあることばが、三十年以上経ったいまでも、私の読書観のまんなかに根付いている。そうして、それはわたしの創作に対する考え方のまんなかでもある。  今回、あるひとの『自分の作品に価値がないのではないか』という悩みを聞いた。わたしは「自分は自分、ひとはひと」という感覚が強く、誰かをはげます、痛みによりそうことが苦手だ。  だからそういうとき、必ず自分はどうなのか、自分ならどうなのかを考える。そうして改めて、わたしの創作の位置づけというか、創作をする意味を考えてみたので、記しておこうと思う。  先ほどあげた、一冊のまんがの中にあったことばで、読書家の主人公に「本をたくさん読んでいるからあなたの中にはいろんなものが詰まっているね」と言うと「本を読むと自分の中に本の内容が詰まるのではなくて、空っぽになる」という趣旨のことばがあった。  多くを語る内容の話ではなかったし、その理由は書いてあったかなかったかはっきりとは覚えていない。けれど当時のわたしは「本を読んで他人の思考を取り入れると、自分の中にあったものが自分のものだけではなくなって、他人との共通思考なんだと気付かされる」と受け取った。  当時は思春期特有のあれで、自分の特異性なんてものを考えて、孤独だとかなんかそういうものを考えていた時期だったので、そのことばにとても感銘を受けた。  本を読めば、自分だけが特別なのではなく、少なくともこの文章をつづったひととは共通点があると思えた。今思えば単に思春期なのだが、あのときのわけもわからず抱えていた、孤独感が薄れたような気がした。  今でもやはり読むほどに、自分の中にあるものは、自分だけの特別ではないんだと思う。そうして、自分が一人じゃないことや、自分だけが人からずれているんじゃないことを確認できる気がする。  それと同時に、全く知らない世界、自分と相容れないと思われるものを読んで知ることで、単純な知識の広がりを得られるよろこびもある。  けれどそれだけでなく、わかりあえないかもしれないと思いこんでいたひとともなにかがつながっていることを知れるし、それを知ることで苦手なものだとか、わからなかったことを自分の中に取り込んで考える事もできる。  人見知りで失言が多く、生身のにんげんが苦手だと思うわたしにとって、自分が苦手な人種と関わるのはハードルが高い。適当に話を合わせたり、聞こえなかったふりで乗り切ってしまう。  だから、本当は何を思って発したことばなのか、どういう考えでいるのかまではなかなか思い至れない。けれど、苦手なひとをきらいになりたいわけではないし、なんなら興味深く思っている。自分とタイプのちがう人のことを知るのはおもしろい。  生身のにんげんと交流するのはすこしハードルが高いが、つづられた文字からなら、相手を傷つけることなく、相手に傷つけられることもなく知ることができる。そうして手に入れたパターンを自分の中で消化すれば、苦手な人のことも怖くなくなる気がする。  わたしにとっての『読む』は、知ることであり、追体験でもある。と、ここまでは『読む』ことの意味について整理してみた。そして、わたしにとっては書くことも同じなんだと思う。  書くことを通してわたしは、自分を特別なものじゃ無くしている。わたしにとっては、世界との関わり方の一つなのだ。  わたしは書くために考える。そうして考えたことをひとつひとつ感じながら書いてゆく。  それは知ったつもりのことを、もうひとつ奥深く考えて感じる『新たな追体験』であり、自分の中にあるものを整理するための時間でもある。  そうして整理しておけば、自分が読書などの仮想体験も含めた新たな体験や、過去にした体験を追体験した時に、また新しい視点ができている。  そこから新たな創作をするのも、創作物を浴びるのも、ひとと交流するのも、新しい視点が加わることで新鮮に楽しめる。  と書くとむずかしそうだけれどもそんな大仰でむずかしい話をしているわけではなくて。  わたしは、わたしの性癖だったり、萌えだったり、その中にある小さな感情の変化であったり、それを知って自分を分析しつつ探ってゆくのが楽しい。  例えばこういうキャラが好きというので本を読んでいても、そういうキャラの何が好きで、どうして好きなのかは考えないとわからないことで、更に創作すると、どうしてそれを好きだと思うのかがよりはっきりする。  これは創作をなんだかんだ言って続けてしまう理由で、その原動力は推しキャラであったり、好きなシチュエーションなのだけれど。  そして創作するうえで、いつでも肝に命じているのは『自己顕示欲のために創作を使わない。他者による承認欲求を創作に頼らない』ということ。  書けば見てほしい、感じてほしい、感想がほしいは当然出てくる。けれどそれがないことで価値がないのではない。  更に言えば、作品を評価されない・否定されることは、作者自身への評価でも否定でもない。作品は自分のこどものような存在ではあるけれど、それがわたし自身に成り代わったらいけない。  ましてや、評価がないからといって作品に価値がないなんてことはない。前に書いたようにその物語は、すでに自分が考えてかたちにした、そのことだけでもちゃんと価値があり、意味がある。  これは目に見えない効果なので、書けないとあせることもあるが、書けないのが無駄な時間なのではない。  創作する物語について以外のことを考える時間も、感じる時間も、体験する時間も、それが全て自分の中にちゃんとつまれている。ただ生きて何かを感じるだけで、ちゃんと創作の『糧』として残っている。  そうした体験をすべて無かったこととして、創作できない自分と向き合ってしまうのはもったいない。そうしてしまったら、つみあげられるのは『創作できなかった経験』だけになってしまうかもしれない。  だからわたしは、書けないということばは使わないし、使ってほしくないと思う。  作品に価値がない、自分が書く意味がないも同じだ。  これは、誰かに意見を押しつけるのではないし、こう考えると良い、というものでもない。ただわたしが創作に向き合うときに思うことである。  これに対して、わかると思うひともいれば、わからなくてもかまわないし、そういうひとも多いだろう。ただひとつ、こういうふうに思っているひともいる、バリエーションのひとつとしてとらえて欲しい。  とここまで書いておいて、ではあるけれど。  私が普段書いているのは、BL、いわゆるボーイズラブです。一次創作もありますが、二次創作も好んで書きます。はっきり言ってしまえば、過激表現の割合も高く、まあ場合によっては「えろ小説」なことも多い。  それでも言いますよ。前述みたいなことを。志しとかではなくてね、わたしのこころの支えみたいなものなので。  そして、たぶん十年後も同じことを考えるだろうし、二十年後もそうだと思います。書いているものは十年後も、二十年後も変わりないと思います。  けれど願わくば、創作の『糧』はたくさん増えていてほしいと思っています。
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