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「お、おう」  少し身体を寄せられて、ほんのり香水かなんかのいいにおいがした。俺は汗くさい自分の身体が気になってしまい、思わず一歩下がる。大沼のパリッとした白いワイシャツがまぶしい。あんまり服に興味がない俺と違って、たぶん大沼はわりといい物を着てる。 「じゃあ、仕事終わったらメシ行こうよ」  少し首をかしげて言う、とろけた目もと。長めに伸ばした前髪が揺れる。大沼の笑顔はいつだって、俺の心にじんわり染みて、俺を幸せにしてくれる。 「ああ、いいよ」  今日は金曜日。あんまり時間を気にせず、ゆっくり大沼と過ごせる。一気にうれしさが身体中に広がり、にんまりしたくなるのをこらえて、俺はなるべく平静を装ってうなずいた。 「ねえ、さっき大沼君にファイル取ってもらった時、なんかいいにおいしたのよ。さすがにドキッとしちゃった」  自席にカバンを置いて、早速汗ふきシートを手にトイレに向かう俺の耳を引っ張る、「大沼君」という単語。トイレの隣にある給湯室で、こそこそ話す声。 「女いるんじゃないの? あんな優良物件、大学の時点で誰かにがっちり確保されててもおかしくないじゃん」  応える声は、俺の斜め前の営業事務取りしきってる、アラフォー独身女子か。「優良物件」という言葉にモヤモヤする。  そりゃ、あいつは「優良物件」には違いない。誰にでも親切で、イケメンでタッパもあって、服にも金をかけてそうで。その上実家は人形町で、本人も人形町で一人暮らしだから、実家が裕福でマンションの一つ二つ持ってるってことは充分考えられる。大企業ならともかく、下町の中小企業って感じのうちにいて、そうそうこんな男に出会える機会はねえだろう。  でも給湯室の雑談でだって、人を「優良物件」とか呼ぶヤツに大沼を取られたくねえ。  俺は手に持った汗ふきシートを握りしめながら、まだ続いている給湯室のくだらねえ話に抗議するようにわざと乱暴に押戸を開けて音を立てさせ、男子トイレに入った。
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