夜の章

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夜の章

 夜の闇が深く混沌と。  月が紅く燃え上がる。  こんな日は血が騒ぐ。  今宵は風が(よど)んでいる。  私は着物を脱ぐと袴に着替えた。  髪を高い位置でしばる。 「行かないと」  刀を握る。 「ハッハハハハーッ!」  夜の闇に紛れて不協和音のような薄気味悪い声がかけめぐる。  黒々とした鳥のような姿の化け物が空を飛んでいく。  その姿は鳥と呼ぶにはあまりにも大きく、人を丸呑みできそうなほどの大きさである。 「人間はやはり美味いな。男より女のほうが肉が柔らかい」  化け物は下に視線を向ける。 「あそこにもうまそうなやつがいるぞ」  夜道には女が一人で歩いていた。  濡れた髪を結いもせず流して、急ぎ足で帰っている。  家に幼子かあるいは老いた親が待っているのか。 「いただきだ」  化け物が地上に降りようとしたとき声がかかった。 「妖か」  宙に浮かぶように一人の男が立っていた。  姿は人間だが妙な気配をしていた。  風になびく艶やかな長い髪は夜の闇のような黒。  細い面は白く、紅い瞳が爛々と輝いている。  まるで、獲物を狙う蛇のように。 「お前は、なんだ」 「お前などと俺に向かって軽く口をきくな。下郎が」 「なんだと」  低く鳴いた鳥はその長い鉤爪で男の首を破らんとするが、男は風のように消える。 「遅い」  翼を掴むと、紙を裂くように無造作にもぎ取った。 「ぎゃぁぁぁあ!」  世にも恐ろしい悲鳴が空に響きわたる。 「そう騒ぐなよ」 「お前、俺の翼を!俺のぉぉお!」  飛びかかってきた化け物を男は手でないだ。 「ほう」  男に首を掴まれて、鶏ほどの大きさの化鳥が身をよじっている。 「これが本体か」 「お前ッ、何者だ」  ニヤリと唇が笑む。 「お前のような下のものに名乗る名は持ち合わせてない。けれどそうだな……」  無表情に言う。 「まあ構わないか」  化鳥を見下しながら気まぐれに告げた。 「俺は玖郎(くろう)。魔王の九人目の息子だから玖郎。覚えておくんだな」 「お前が魔王の……?」 「まあお前にはもう関係ないか」  首を握りつぶす。  化鳥は(ちり)と消える。 「来るのが遅かったな」  地を見下ろして言う。 「妖斬りの椿殿?」 「玖郎……!」  日本刀を構えた私は目前に浮かぶ玖郎を見上げた。  人にはどう見えるだろう。  玖郎も人ならざる姿だったが、私の姿も普通の者には異様に映るだろう。  髪は新雪のような白。  目は血のような深紅。  歌うように玖郎は言った。 「いや、こう言ったほうがいいかな。雪華」 「その名で気安く私を呼ぶな」  低くうなるように私は言う。 「本来なら、お前のような邪なものとは口をききたくもない」 「そう言っても、会いにきたからには俺に用事があるのだろう?」  面白がるように玖郎は言う。  私は口を引き結んだ。  悔しいが、図星だ。 「お前は、梅屋敷の奥方を知っているか?」 「梅屋敷?いや、初耳だな」  玖郎は首をひねる。 「俺に話したからにはその家で変事でもあったか」 「……話では、奥方はある日を境に狂ったらしい」 「狂った?ハッ、それは俺の預かり知らぬところだな。そんなしちめんどうくさいことはしない」 「その奥方が狂ったのは、うら若い一人娘が妖に喰われてかららしい」  暗い声で私は言う。 「ひどい有様だったそうだ。胸は破られ、内臓は喰い漁られていた」 「それを俺がやったと?」  冷たい目で玖郎は言う。 「馬鹿馬鹿しい。俺なら死体を放っておくようなまねをしない。残さず平らげる」  物騒なことを玖郎は簡単に口にする。 「そうだろうな。お前は手抜かりがない悪党だ」 「野犬の仕業じゃないか?」 「屋敷の周りに野犬はいない。こんな残忍な手を使うのは妖しかいないだろう。それにあたりには瘴気(しょうき)が漂っていた」    瘴気。  魔なるものが残す空気が腐るような気配。  私はそれを敏感に感じる体質の持ち主だった。 「だから、俺にその妖を見つける手伝いを乞うと?」  私は歯ぎしりしそうになる。 「そうだな……。じゃあ一走りそれを見に行こうか」 「一走り?」  玖郎は私の膝と腰に手を回すと軽々と抱えあげる。 「ちょっとお前……。離せ!」 「このほうが早い」  そう言うやいなや、玖郎は跳んだ。  走るより跳び回るというのがしっくりくる言い方である。  木や屋敷の屋根をつたって、あっという間に玖郎は梅屋敷に到着した。 「着いたぞ」 「……お前、屋敷のことは知らないと言っていなかったか?」 「雪華の気配を追った。どうせ妖が現れないか下調べをしていたんだろう?」  本当にこの妖はなんなのだろうか。  私は不機嫌な気持ちになる。  反して玖郎は、愉しげな目で私を見ていた。 「なんだ?」 「いや、雪華はわかりやすいなと思って。それに表情がくるくる変わるから見ていて飽きない」 「私はお前の玩具(おもちゃ)じゃない」  不機嫌に鼻を鳴らすと私は屋敷に足を踏み入れた。 「大丈夫なのか?そんなに簡単に中に入って」 「人払いの結界をかけてある。それに今夜は奥方と主人以外、屋敷の中にいない」 「ほう?」  私は決意を固めた声で言う。 「今夜中にしとめる」  下駄の音を鳴らしながら、玖郎は雪華の後に続いた。 「あてはあるのか?」 「あてはない。だけど、普通の妖なら喜んで私によってくるだろう」  私は不敵に笑う。  妖斬りの椿。  それが私の夜の名だ。  言葉通り妖を討伐することを生業としている。  あるものは恐怖によって。あるものは怨嗟(えんさ)の念によって。  そんな理由で私の首を狙う妖は多いだろう。 「つまり囮か。困るんだな、そんなことをされると」 「なぜだ」 「雪華は俺のものだからだよ」  背後に近づき、吐息がかかる距離で(ささや)く。 「勝手に妖に盗られてはたまらない」  決然とした声で私は言う。 「私は誰のものでもない」  静かな声で言って、首を横に振った。 「とりわけお前のものではな」 「まあいいさ。容易に手に入らないほど俺には面白い」  愉快そうに玖郎は言う。 「それで俺にこんなことをさせるからにはなにか褒美(ほうび)があるんだろうな?」 「焦るな。対価がないとお前が動かないのは知っている」  私はピタリと足を止めた。  木陰に身を潜める。 「来たぞ」  うめき声をあげながら女が近づいてくる。 「あれが奥方か」  探るように玖郎は立っている。 「なにをしている。お前も隠れろ」 「大丈夫だ。今の俺は普通の人間の目には映らない」  玖郎と奥方の目があった。  「おま、お前は。アアアア」  奥方の首が不自然な方向に(ねじ)れていく。 「どういうことだ?お前の姿は見えないんじゃなかったのか」 「普通の人間にはな。アレは普通じゃあない」  およそ人間とは思えない速度で奥方は玖郎に襲いかかってきた。 「クッ……」  私は刀を抜く体勢を取る。  だがそれより早く、見えない壁が立ちはだかるように奥方ははね返される。 「ただで俺に触れられると思うな。この三下が」  玖郎は着物の襟に首をかけると奥方をぐいと持ち上げる。 「おい、やめろ!」 「出てこい。吐き出せ」  そう言うとともに奥方の口からなにかが飛び出した。  玖郎はそれを指で摘む。  小指ほどの大きさの(むし)がうごめいていた。 「これが今回の騒動の正体だ。中で奥方を操って娘を殺させたんだろ」  玖郎が握りこむと蟲は消える。  奥方は縁側に崩れ落ちた。 「大丈夫だ。命までは取っていない」  面白くなさそうに玖郎は言った。 「退屈だな」  ことが終わると、二人ならんで帰り道を歩く。  玖郎は歩く必要などないのだろうが、その意図は明確だった。 「さあ、約束通り対価をもらおうか」  妖艶に玖郎は言う。  私は(おく)することなく言葉を返した。 「なんでも言え」  玖郎は妖しく目を光らせる。 「じゃあ、雪華の一部を。今回は血でいい」  玖郎は私の手首を丁寧に取ると、牙を突き立てた。 「ッ……」  美味しそうに玖郎は私の血を()める。  ゾクゾクと背筋に寒気が走って私は言った。 「いい加減にしろ。もうそろそろやめないか」  私が手を引くと不満そうに、けれど大人しく玖郎は引き下がった。 「なあ、雪華は俺のことが好きなんじゃないのか」  自分の顔をつるりと撫でる。 「この顔もこの体も。心や好きなものまで、俺は何一つ変わらないのに」  私は顔を歪めて言った。 「私が好きなのは茨郎さまで、お前じゃない」  「わからないやつだな。俺も茨郎だというのに」  茨郎さまと同じ顔をしたどこまでも残忍な妖に。  ……茨郎さま自身に。  昼には茨郎さまは人間として過ごし、夜は玖郎になる。  その境目がどこにあるかわからないが、少なくとも茨郎さまは夜に何が起こっているか知らないらしい。  それはとても幸いなことだ。 「俺は妖。お前はそれを斬る者。殺し合い、()かれ合う運命。素敵だ」  酔ったように玖郎はそう言う。 「お前は本当に救いようがない」 「雪華は本当に可愛い」  高らかな笑い声が夜に溶けていく。  もうじき月は落ち、日が昇る。  また、茨郎さまに会えるのだ。  二人はどこまでもすれ違う。  例えそれが運命だとしても。  今このときは二人でいたいと思えるのだった。
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