夏の地獄

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 一体、何がどうして、こうなったんだろうか。  前にネットで読んだ気がする、仏教の何かの経典では、その罪に応じた、とてつもなく細分化された地獄があって、その中には虫けらの命を粗末に扱った者が行く地獄もあるという。俺はいつのまにか、その地獄に落ちてしまったんだろうか。ネットで見た地獄の描写は、今現在の光景とは違っているような気はするのだが、所詮は現世の人間が知れることなどわずかなことだ。  だが、それにしては腑に落ちないこともある。俺は自分がこの後、死んだというような記憶はないし、今現在の一瞬先の人生の記憶すらない。もしかしたら、一歩進んだところに死の罠、たとえば突然歩道めがけて突っ込んでくる四トントラックのようなものが待ち構えていて、そこで俺は死ぬのかもしれないが。  とすると、俺は自分の死の直前、その何分間かの記憶を繰り返していることになる。ここは走馬灯の中の世界で、壊れた走馬灯が、ある一瞬だけを何度も何度も繰り返しているということになる。あるいは走馬灯も地獄もなく、死の瞬間に人間の時間は停止し、主観の中では死の前後のわずかな時間を永遠に繰り返すのかもしれない。  あるいは、俺の死である必要もないかもしれない。これがさっき死んだ蝉の主観の世界だとすると、それが死ぬ前後の世界、その永遠の繰り返しである、そんなことだって考えられる。つまりこの『俺』とは、自分の人生を生きている人間としての俺ではなく、蝉の主観の世界にだけ存在している虚像の俺だ。  しかし、そんな馬鹿げたことがありうるだろうか?  非現実的なまでの強い陽光の中では、誰の頭もおかしくなる。  単に俺の頭がたった今誤作動を起こしていて、一回経験しただけのことを、数限りなく経験したことのように錯覚しているのかもしれない。  既視感。デジャヴ。  こういった感覚は、ある種の脳の疾患によっても起きるという話を聞いたような気がする。いや、その記憶も実際定かではないのだが。俺の主観、俺の時間感覚では、俺が俺の日常を生きていたのは、何百年前のことになるんだろうか。  ほんの数時間を何百年のように錯覚させることができる薬もあるという話だ。もちろん、俺がそういう薬を投与されたというような記憶はなく、そんなものが投与される理由も存在しないのだが。薬のような外発的な原因によってそんな錯覚を起こすことができるのなら、内発的な疾患によってそんな感覚が起きることだってあるかもしれない。  今まで挙げてきた中で一番穏当とも思えるこの可能性だが、これはつまり、俺が真夏の酷暑の道端で、何らかの脳の疾患を発症しているということになるのだが。
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