第2話

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第2話

 定時の十七時半が近いことは承知していたが、負けられない一局に集中していた霧島(きりしま)は部下で秘書の京哉(きょうや)が追加で送ってきた督促メール付き報告書の存在に気付かず、オンライン麻雀の名人戦で半荘(ハンチャン)を終えて、ようやく冷たい視線に晒されていることを知った。  じっとメタルフレームの伊達眼鏡越しに見られ、意味が分からず霧島は素で訊く。 「何だ、どうした、鳴海(なるみ)。私の顔に何かついているのか?」 「どうしたじゃありません、霧島隊長。書類はどうされたんでしょうか?」 「そんなものはとっくに終わって……ああ? 何だ、これは?」 「だから何だじゃなくて、その締め切りは本来昨日です。今日中にやって下さい!」  怒鳴られて何となく右隣を見ると副隊長の小田切(おだぎり)が勝ち誇った顔をしていた。 「俺はもう割り当て分なんか、とっくに終わったぜ」 「僕も上司二名がやってしかるべき書類の本日の代書は済ませましたから」 「ならばこれはもう明日にしよう。書類は腐らんからな」  清々しく言って霧島は立ち上がろうとしたが、部下二人が背後のホワイトボードを指差す。振り返って灰色の目で見ると、そこに書かれたカレンダーの本日を示すマグネットは金曜日にくっついていて、つまり明日から連休だ。  更には霧島のデスク上の警電が鳴る。 「こちら機捜の霧島」 《捜一、剛田警視だ。昨日届いている筈の書類が一部足らん! 何をやっている!》  耳がおかしくなりそうな怒号に普段滅多に崩さない鉄面皮、もとい、涼しい顔を僅かにしかめ、霧島は警電を切ると仕方なく文書ファイルに手をつけた。ノートパソコンのキィをポチポチと押す。その間、二人の部下は暢気に煙草を吸っていた。 「ふん、スナイパーなどという輩の書類は心がこもっていないから早いのだろう」 「確かに僕らはスナイパーですけど、八つ当たりは止して下さい」  ここは首都圏下の県警本部庁舎二階にある機動捜査隊・通称機捜の詰め所だった。  機捜は普通の刑事と違い二十四時間交代という過酷な勤務体制で、覆面パトカーで密行警邏しては殺しや強盗(タタキ)に放火その他の凶悪事件が発生した際に、いち早く現場に駆け付け初動捜査に就くのが職務である。ここでは三班に分かれてローテーションを組んでいた。  だが隊長と副隊長にその秘書は定時の八時半に出勤し十七時半に退庁する毎日で、職務も内勤が主である。大事件でも起こらなければ土日祝日も休みだった。  その連休を前にして定時過ぎに書類を書くハメになっている霧島(しのぶ)は二十八歳で階級は警視だ。  この若さで警視という階級にあり機捜隊長を拝命しているのは、最難関の国家公務員総合職試験を突破したキャリアだからである。それだけでなく世界各国にあまたの支社を持つ巨大総合商社・霧島カンパニーの会長御曹司でもあった。  故に警察を辞めたら本社社長の椅子が待っているのだが、霧島本人は現場のノンキャリア組を背負うことを何よりも望み、辞める気は欠片もない。それに実父の霧島会長を毛嫌いし、裏での悪事の証拠さえ掴めたら逮捕も辞さないと明言しているほどで、却って京哉の方が会長を『御前』と呼んで親しんでいた。  そんな霧島は父の愛人だったハーフの母譲りの灰色の瞳が印象的な切れ長の目をしていて、顔立ちは怜悧さを感じさせるほど整っている。百九十近い長身でスリムに見えるが鍛え上げた身体の持ち主で、あらゆる武道の全国大会で優勝を飾っている猛者でもあった。  まさに眉目秀麗・文武両道を地でゆく、他人から見れば非常に恵まれた男である。  四肢も長く、着痩せする身をオーダーメイドスーツに包み、颯爽と翻して往く姿は当然ながら女性受けし『県警本部版・抱かれたい男ランキング』ではここ数期連続でトップを独走していた。だが同性愛者であることや、京哉とパートナー同士で同棲していることも全く隠していない。  京哉としても堂々としているのは別に構わないと思うのだが、霧島の場合は堂々とするポイントが大多数の人間とズレていて、はっきり言って奇人・変人に分類されるのだ。  四六時中一緒にいる京哉は、時折ここまでくると天然を越えて残念だとすら思ったりする。対外的には超優良物件でも、だ。  それでも許せてしまうのだから付ける薬はない。京哉は煙草を吸いながら自分の左薬指に嵌った、霧島とお揃いのプラチナのリングを眺めては緩みそうになる頬を引き締めるのに苦慮していた。出会って初めての誕生日に霧島に貰った宝物である。 「鳴海、明日の約束は守るから心配するな」 「分かってます。久々のクルージング、楽しみにしてますから」  鳴海京哉は二十四歳で巡査部長二年生だ。高卒なので限界はあるが、この歳で巡査部長二年生は決して拙くない。    更には機捜隊員でありながらスペシャル・アサルト・チーム、いわゆるSAT(サット)の非常勤狙撃班員でもある。狙撃班員に任命されたのは京哉が元々スナイパーだったからだ。無論合法ではない、陥れられていたのである。  女手ひとつで育ててくれた母を高二の冬に犯罪被害者として亡くし、天涯孤独の身になって大学進学を諦め、警察学校を受験し入校した。  だがその入校中に抜きんでた射撃の腕に目を付けられたのだ。警察学校修了で配属寸前に呼び出され、会ったこともない亡き父が強盗殺人を犯していたと告げられた。無論真っ赤な嘘で捏造だ。  しかし京哉は警察内部で陥れられるとは思っても見ずに罠に嵌った。  政府与党の重鎮や警察庁(サッチョウ)上層部の一部に霧島カンパニーが組織した、暗殺肯定派と呼ばれた者たちの手足として使われ、本業の警察官をする傍ら、五年間も政敵や産業スパイを暗殺するスナイパーに従事させられていたのである。  けれど霧島と出会って心を決め、スナイパー引退宣言をした。『知りすぎた男』として消される覚悟もできていた。案の定京哉も暗殺されかけ、あわやというところで霧島が機捜の部下たちを率いて飛び込んできてくれて命を存えたのである。  そのあと警察の総力を以て京哉がスナイパーだった事実は隠蔽されたため、今はこうしていられるのだが、京哉は自分が撃ち砕いてきた人々を決して忘れない。忘れられなかった。  お蔭で心に数多くの墓標を立ててしまった京哉は霧島曰くPTSDであり、精神的に壊れ気味な部分がある。  だが、ずっと霧島が傍にいてくれて随分と癒された気がしていた。  本当に一日二十四時間一緒にいると言っても過言ではなく、京哉同様に『知りすぎた男』となった霧島は京哉と共に、県警本部長を通して上層部から課せられる特別任務にも毎回同行し、二人揃って県警内案件だけではなく、国内外でスパイのような真似をさせられて何度も死線をかいくぐってきた。  時に某大国に上手く使われ、時に国連安保理に恩を売って国連事務総長から政府を通して謝辞を貰ったことすらあった。  だがそんなモノより二人は平和が欲しかった。平和というより普通の日々である。
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