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第23話
三人が最後列のパイプ椅子に腰掛けると、すぐにスーツの男が治験の概要について話し始めた。話の内容は全て目前のノートパソコン画面に表示されるので、霧島は小声で京哉に通訳してやる。京哉も自力解読の努力にいそしんだ。
「今回皆さんにご協力頂くのは第Ⅰ相試験、いわゆるフェイズⅠというものです。健康な成人の男女を対象に、我が社が開発した薬品を摂取して頂き――」
長々と話は続いたが単に薬を飲む前と飲んだ後に血液検査をし、効き目と気分が悪くないかどうかをチェックするというだけのものらしい。
次に白衣の男が治験薬について説明する。
「このV‐501は従来の精神安定剤と作動機序は殆ど変わりませんが、より睡眠薬的作用が強いので飲まれたあとはベッドに横になって頂きます――」
「眠っていては、探るどころではないな」
「飲まなければいい」
霧島とレイフが囁き合っている間も説明が続く。
「ただ、この中の半数の方にはプラセボ、いわゆる偽薬を飲んで頂きますが事前にそれはお知らせしません――」
プラセボには本来の薬の成分は含まれていない。本物の薬の治療効果を実験的に明らかにするため、比較対照試験に利用されるものだ。プラセボを飲んでも本来の薬の成分を摂取した気になってしまい、同様の反応を見せる者もいる。
またスーツの男が演壇に立った。
「それでは只今述べました全ての条項を了承頂ける方のみ、パソコン画面の示された位置にタッチペンでサインをお願い致します。はい、どうもありがとうございます。どうも」
他の男女と同じように三人はサインした。
「ご協力ありがとうございます。それでは皆さん、こちらへどうぞ」
ぞろぞろとツアー客のように移動したのは広めの医務室のような部屋で、二人の医師らしき人物が座っている。皆が二列に並び注射器で血液採取だ。それが終わると次の部屋、そこには小さな紙コップが幾つも載ったトレイを持った白衣の女性が待ち構えていた。
並んだ列の前方を見て京哉が柳眉をひそめる。
「何だか飲まずにはいられないみたいですよ?」
「上手くプラセボに当たればいいのだがな」
参加者はナンバーの書かれた紙コップの液体を飲み、空のコップをもう一人の白衣の女性に手渡していた。白衣の女性は中身を確かめ、リストの参加者名簿と飲んだコップのナンバーを照らし合わせて確認している。
順番が回ってきて、仕方なく三人は紙コップを手にした。霧島が中身を覗き込むと少量の透明な液体が入っていた。見た目は水と変わらない。思い切って飲むと少し甘みを感じた。ブドウ糖でも入っていたのかも知れないと思う。
空のコップを手渡してナンバーの確認が終わると部屋を仕切っていたカーテンが引かれる。病院のようなベッドが七台、二列で十四台並んでいた。窓はブラインドがきっちり降ろされていて暗い。ここで寝ていろということだった。
説明では三時間から五時間、V‐501の作用は持続するとの話だった。
出入り口に一番近いベッドを三人は確保する。カーテンが閉められた。
暗い中で京哉は十分くらい、じっと横になっていた。隣のベッドの霧島が動き出す気配で起き上がる。レイフも上体を起こしていた。
トイレにでも行くようなふりをして三人はそっとベッドから滑り下り、自動ドアから廊下に出る。何気ない風を装って廊下を端まで歩いた。エレベーターでは誰かとかち合っても逃げ場がないので使うのは階段だ。
「上、下? どっちに行きますか?」
「何かを隠すなら、地下がセオリーだろう」
足早に三人は階段を下りた。途中で書類を抱えた制服の女性とすれ違ったが、不審な顔すらされずにクリアする。
「ちょっと待て。こっちだ」
二階で霧島が京哉とレイフを引き留めた。廊下の傍の部屋がひとつ開け放されており、シーツの類が積んであった。病院やホテルなどでもあるリネン室らしい。そこで見つけた白衣を霧島は羽織ってエセ研究員である。残る二人も霧島に倣った。
再び階段に戻る。一階付近ではロビーの人間の気配に京哉は少し緊張したが、ここにいて当然といった顔を作り、更に階段を下りた。
「忍さんみたいに鉄面皮だと、こういう時はいいですよね」
「だからお前は上司で夫の私を何だと思っているんだ?」
ぼそぼそと喋る二人にレイフが訊く。
「今更訊くのも気が引けるが……いったい、何を探しに行くんだ?」
「……何だろうな?」
「経験則では忍さんの行く所にはイヴェント有りですから何かは転がってますよ」
「人を棒に当たる犬のように言うんじゃない」
そのまま地下一階まで難なく辿り着く。壁に貼り付けられた案内板に依れば、地下は二階まであるらしい。それを確かめて京哉は霧島を振り返った。
「どうしますか?」
「一通り回ってから下に降りよう」
地下ではあったが蛍光灯が煌々と灯っているので、却って外よりも明るいくらいだった。リノリウム張りの廊下も広い。三人はゆっくりと辺りを見回しながら歩いた。
開放され中の様子が分かる部屋は少なかった。案外つまらない。
ドアは割と多かったが、開けてみて中の人間と出くわしたら言い訳が苦しそうである。そのうちに一回りして元の案内板まで戻ってきてしまった。
「何もありませんでしたね。ところで僕、ちょっとお手洗いに行きたいんですけど」
「ああ、行ってこい」
トイレは見えている。先程から人の出入りもなかったため、さほど心配せずに霧島はレイフと少々移動し、廊下の途中にある清涼飲料水の自動販売機の傍まで歩いた。それでも京哉の入ったトイレの出入り口からは目を離さずにレイフに訊く。
「納得できたら銃を返す、か。片がついたら出頭するつもりなのか?」
「それはどうだろうな。まだ考えていない、考えられないというのが的確か」
「捜一課長が惜しんでいたぞ」
「刑事の仕事に未練がないとは言わない。だがそれより大切なものを俺から奪った奴をこの手で地獄に送るまで俺の刻は動かないんだ」
霧島は考えてみる。一生、どんなものでも一緒に見てゆくと誓った京哉の命を誰かが奪うようなことがあれば、それはきっと途轍もない恐怖と苦しみに違いなかった。
出会ってまだ一年と経たないが今ではいつも勝手に目が姿を探している。優しいまなざしを見ると安堵する。いつの間にか、息苦しいほどに愛してしまった……京哉。
「分かる、気がするな」
そこに京哉が戻ってきて少々興奮気味に報告する。
「ねえねえ、ここ、案内図には載ってない地下三階がありますよ」
「何だ、どうして分かる?」
「だってお手洗いの掃除当番表に『地下三階トイレ』って書いてあったんですもん」
思わず三人揃って顔を見合わせた。
「でかした、さすがは私の妻だな。それで地下三階への出入り口は何処だ?」
「構造的に階段からそう離れてないと思いますけど」
なるほどと思い戻る。途中白衣の人物と二回すれ違ったが怪しまれずクリアした。
「同僚の顔も覚えていないとは署では考えられんな」
「付き合いの悪い人間が揃っているようで幸いだろう」
「忍さんの図太い態度が疑わせないんじゃないですかね?」
「どうして私をそこまで貶めたいんだ、お前は?」
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