第30話

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第30話

 触った自分の胸の鼓動は今にも止まりそうなくらいに弱々しいのに、脈打つ激しい耳鳴りと頭痛は霧島を果てしなく疲労させた。元より躰はベッドに投げ出されたままの姿勢で指先ひとつ動かすことができない。瞑った目の裏で赤い明滅が踊っていた。  自分があれから何を喋ってしまったのかは分からない。だがまだ生かされているということは、特別任務に関して肝心な部分は吐いていないということなのか。  しかしたびたび気を失いつつ不規則な浅い息を繰り返しながら、このまま放置されたら時間の問題という気もしていた。再びV‐501を注射されたら今度こそ心臓は鼓動を止めるだろう。吐こうが吐くまいが何れにせよ秘密を知った者を生かして帰す筈もない。  元々神など信じていないが、祈ることすら頭痛が阻んだ。 『通常の致死量の倍近い投与だ。V‐501はまだ研究の余地がありそうだね』  などと、医者は暢気に言っていた。 (絶対殺す。死んだら化けてでも呪い殺す、ついでに堂本一佐の野郎も道連れだ!)  殆ど思考能力を失くすまでの苦しさの片隅で霧島は誓いながら、背後の気配にどす黒い念を送った。気を失っているうちに誰かが運ぶという面倒をやらかしていなければ、ここは注射された診察室で後ろにいるのはあの医者の筈だ。  爬虫類のような某大国の軍人らしき男女は途中で呆れて出て行った。  また意識が途切れる。  すぐに我に返ったと思うが、実際にはどのくらい時間が経ったのか、腕時計を見ることすらできない。ただ、こうして意識が戻るたびにこれ以上はないと思っていた頭痛と耳鳴りが激しくなってゆく。喉も酷く渇いていた。  苦痛から努めて意識を切り離す。そして思い浮かぶのは指の間を通るさらりとした長めの髪の感触と澄んだ黒い瞳だ。この数ヶ月いつも体温が伝わるくらい傍にいた。 『……忍さん』  自分を呼ぶ柔らかなイントネーション。細く華奢な白い肢体。あの温かさが焦がれるほどに欲しかった。腕の中のしなやかな躰を思い出して苦痛から逃れようとする。 (死ぬ前には水よりも、あいつのキスが欲しいな――)  甘い唇を思い出し力を振り絞って動かせたのは僅かに瞼だけだった。  薄く開いた灰色の目に注射器を持って近づく医者が映った。 ◇◇◇◇  顔色が悪いままの京哉に『椅子が三つあれば横になれる』と言ってレイフは京哉にベッドを譲り本当に椅子で眠った。刑事を暫くやればこれくらいの芸当は訳もない。  それでも起きてみれば京哉は目を赤くしていたが、レイフは何も言わずに自販機で買ってきた温かい紅茶と冷蔵庫から出したサンドウィッチを勧めた。  腹ごしらえが済むと朝七時半に隠れ家を出る。勿論京哉も一緒だ。  外は雨こそ降っていないものの薄暗く、相変わらずどんよりとしている。湿った空気の臭いには慣れきってレイフは殆ど感じない。  京哉を引き連れて細い路地を何度も曲がり片側二車線の道路に出てからタクシーを拾った。乗り込んで目的地を告げ走り始めて五分もしないうちにタクシーは大通りを走っている。目的地は六分署管内、(ディン)資源公司(コンス)の持ちビルだ。  世界的にも霧島カンパニー並みの知名度を誇るディン資源公司は、企業トップ連続殺人の被害者でもある。日本では支社の専務が殺され、このシンハでは支社長が()られて先日専務が新支社長に就任したばかりだった。  今現在、新支社長は各方面から受ける挨拶で日々忙しいらしい。 「降らなきゃいいなあ」  空を仰いで日本語で呟いた京哉にレイフは英語ですげない一言を放った。 「これは午後には降る」  予報など見ずともこの街で暮らしていれば分かる。本格的な降りになるだろう。  大通りを走って官庁街とショッピング街を抜け、オフィス街に入った辺りでタクシーは停止した。京哉が料金を支払いレイフと共に歩道に降り立った。  気を付けなくてはならないのはここからだ。  お尋ね者のレイフが動くには細心の注意を払わなければならない。そしてそれはベルトリーノ理化学工業支社前の銃撃戦で発砲しながら、実況見分と事情聴取を蹴飛ばした京哉も同じである。二人は目立たぬよう人波に紛れて歩いた。  大通り沿いのディン資源公司ビルには、他にテナントとして様々な会社が入っていた。それらの電子看板を見上げながら京哉はビルの外周を歩くレイフに続いた。勝手知ったる元・管内でレイフはディン資源公司ビルの側面、地下駐車場が見える位置まで移動する。  そして向かいの喫茶店に何の気負いもなく入った。地下駐車場が一望できる窓際のテーブル席に座る。京哉は向かいに腰掛けた。京哉は店内を見回す。朝ということもあってか客は他に二人きりだ。カウンターの中にマスターらしい初老の男がいた。  一人で切り盛りしているらしくカウンター内には他に誰もいない。  そのマスターが出てきて何も言っていないのに二人に紅茶のカップを置いていく。紅茶のカップから香り高いブレンドティーの湯気が立っていた。片言英語で訊く。 「馴染みのお店?」 「ああ。刑事の頃から何度も来た。エメリナと一番よく使った待ち合わせの店だ。いつも紅茶を頼んで……俺がこんな身の上になったのも承知で黙っていてくれる」  携帯の翻訳を見ながら京哉は頷いた。
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