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運命の夜
「声が素敵だと・・言われたことはありませんか」
俺に向かってそう口にした彼女とは、少し前にこのバーのカウンターで会った。
もちろん初対面だ。
だから俺が誰なのかとか、どこかの企業のエグゼクティブだとか、そういうことは一切知らないはずだし、俺自身も彼女のことは何も知らない。
たまたまお互いひとりで、ひとつ席を空けて隣になっただけで。
そんなふたりの間に、バーテンダーが誤って丸いロックアイスを滑らせてしまったから、カウンターから落ちないようにとお互いに手を伸ばし・・。
勢いで彼女の手に触れてしまったから『すみません』と言うと、彼女がハッとした表情で『・・こちらこそ』と小さく呟いた。
彼女は、俺と反対側の椅子にバッグとジャケットを置いていて、それらも、彼女の身に付けている小物類も、それなりのキャリアを積んでいるのだと思わせるものばかりで。
少しクセのある短めの髪をワックスで整えている俺とは対照に、サラリとしたストレートのロングヘアが印象的だ。
そうだな・・40歳の俺よりもいくつか歳下だろうか。
「何を・・飲んでるんですか?」
何となく、声を掛けないのも逆に気まずい気がして彼女に尋ねる。
彼女の持つグラスには、薄い色のウイスキーとロックアイス。
俺が飲んでいる濃いスコッチウイスキーとは、対照的な色合いで単純に興味が湧いたというのもあって。
そこから、10分ほど会話しただろうか。
話が途切れたところで、彼女が突然言ったのだ。
『声が素敵だと・・言われたことはありませんか』と。
「一度も無いですよ。どうして?」
彼女はグラスに視線を戻し、俺を見ずに小声で続ける。
「あなたの声を聞いていると、なんだかいい意味で気持ちがざわつくんです・・。その低音と、少しだけ甘さを含んだ声を、ずっと聞いていたくなる」
俺は、口説かれているんだろうか・・?
思わず勘違いしそうになるものの、彼女が欲しているものは俺自身ではなく俺の『声』で。
「声・・ねぇ」
苦笑しながら彼女の方を向くと、俯いた横顔から深いため息が漏れた。
「何かあった? 仕事・・かな?」
そう聞いた俺に、彼女はグッとグラスを傾けて残りのウイスキーを飲み干した。
「・・自分のしていることが、正しいのか分からなくなって。でも、いくら正しくても誰かを追い詰めてしまったら・・」
「・・そんな時もあるさ。いつもいつも、みんなが幸せになれることばかりじゃない。精一杯やったなら、あとは待つだけだよ」
「待つ・・だけ・・」
「そう。相手にも時間は必要だ。時間軸は人それぞれだろう?」
そう言った俺に向かって、彼女は頷いた。
そして潤んだ目元のまま微笑む。
「あまり思い詰めるな。大丈夫だ」
安易に慰めようと考えたわけでも、明確に根拠があったわけでもなく、ただ、彼女の微笑んだ顔を見ていたら『大丈夫』だと思えて、そう言った。
「あの、ありがとうございました。そろそろ・・・・帰らないと」
腕時計で時間を確かめた彼女が立ち上がり、バッグとジャケットを持ち上げた。
「あなたのその声で『大丈夫』って言われたら、本当にそんな気がしてきたから・・。もう少し頑張ってみます」
会釈して立ち去ろうとした彼女の手首のあたりを、俺は咄嗟に掴んでいた。
「・・え?」
「あ、いや・・。すまない」
自分の行動に理由がつかず、掴んだ手を離した。
そんな俺を見て、彼女は困った顔をした。
「声に惹かれたのは間違いじゃないけど、あなたの首筋とか鎖骨のあたり・・・・見ていると『女の血』が騒ぐんです・・。だから、これ以上は・・」
ネクタイを緩め、シャツのボタンを空けていたからだろう。
彼女に見せるために、そうしたわけじゃなかったけれど。
でも、彼女の言葉を聞きながら俺も気付いたことがある。
決して弱い存在ではないはずのに、なんだかそばにいて守ってやりたくなったのだ。
それを、どう伝えればいい・・?
俺はもう一度、今度は彼女の手を握った。
「俺がこうしてあなたの手を取ったら、あなたは大切な誰かを裏切ってしまうことになるだろうか?」
少しだけ回りくどい言い方をして、恋人や結婚相手がいないかを確かめるつもりだったのに。
「あなたには・・そういう女性はいないの?」
複雑な表情を浮かべて、彼女が俺を見上げてきた。
さっきロックアイスを滑らせたバーテンダーに、『ふたりとも素敵なのに、どうしてひとりなんです? ここで出会う運命だったとか?』と揶揄われたことを思い出す。
運命・・。
運命・・・・か。
「そんな女性はいないよ」
この人なら、と思える女性になかなか出会えず、仕事に打ち込んできた。
だから、嘘じゃない。
はっきりと答えると、彼女は俺の手を少しだけ握り返して言った。
「私にも、そういう男性はいないから・・。だから、もう少しだけ・・・・あなたの声を聞かせてもらえますか?」
「もちろん・・いくらでも」
お互いに揺れる瞳を合わせながら、彼女と俺はバーを後にした。
恋は、ある日突然始まる。
彼女と俺の運命の恋が、まさにいま始まろうとしているのだ。
いや、もう・・始まっている。
バタン。
バーの近くにあるラグジュアリーホテルに入り、部屋のドアが閉まる音を合図に、俺は彼女の後頭部をそっと抱えるようにして口づけた。
「俺の声に酔ったあなたを、朝まで見ていたい・・・・」
そう耳元で囁き、俺はルームライトの照度を落とした。
~ Fin ~
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