つちにかえる

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 1人暮らしで、もうずーっと「ただいま」を言っていない。 「ただいまー」  でもその日は違った。私はほどよく酔っていて、それなりに気分も良かった。酔うと笑い上戸になるタイプで、狭いワンルームアパートに着いたというだけでも嬉しくなり、自然とただいまの言葉が出たのだ。 「ご主人様のお帰りですよ~、服を脱ぎましょうねー、シャワーを浴びましょうねー」  夜といえども夏は暑くて、下着が汗を吸って重たい。いちいち「てぃーしゃつを脱ぎましたー」「じーぱんを脱ぎましたー」と解説をしながら全てを脱ぎ捨てると、私は狭い3点ユニットバスで気持ちよく水のシャワーを浴びた。  そうして冷たさに身を任せて体も心もさっぱりさせると、少しずつ頭も冴えてくる。冴えてくると、余計なことを考えてしまう。  ――ガスを止められたけど夏でよかった。冬ならつらいだろうけど今は気にならない。  シャワーを止めた私は、体をぬぐうタオルを用意し忘れたことに気づく。ユニットバスを出て、少し迷って脱ぎ捨てた服の上で足踏みをしていくらかの水滴を落とすと、そのまま6畳ワンルームのリビング兼、寝室に入った。  私から落ちる水が、古い畳に染みていく。大家さんに怒られるかな? まあいいか。押入れを開けてタオルを取り出すと、念入りに体を拭く。電気がつかないので部屋は暗い。体の感覚だけで拭いていく。  そして、おそらくここだろうという場所に閉まってある下着を身に着け、古くてヨレヨレのTシャツを着た。  灯りがなくてもなんとかなるものだ。暗い中でシャワーを浴びるのも、以前は体のあちこちをぶつけていたが、今は感覚でどこに何があるのかがわかって、難なく水浴びができる。  そうして、部屋の中央に目を向ける。暗くてよく見えないなあ。 「暗くてよく見えないなあ」  気持ちがそのまま言葉に出てしまった。酔いが冷めた気がしたけれど、そんなことはないようだ。  そういえば、カーテンを閉めっぱなしにしたまま出かけたのだった。開ければ外の街頭や、隣家の明かりが差してきていくらか明るいはずだ。  私はこの部屋唯一の窓である、ベランダのカーテンを開ける。ああやっぱり。夜でも外は眩しい。  そうして、部屋の中央に目を向ける。今度はよく見える。  そこに、人が座っている。ある日突然現れて、もう何日も前からずーっと座っている。うつろな眼差しは私を見るでもなく、正座のまま、ただただ玄関の方を向いている。  私は警察に通報せずにいた。大家にも言わずにいる。だってこの人は、私とまったく同じ姿形をしている。  もう一人の【私】 「どうしたの?」 【私】に声をかけても返事はない。いつものことだ。  最初の頃は怖くてたまらなかったが、今はすっかり慣れてしまった。まあいいかと私は壁に寄せるようにして敷かれた、薄い布団に寝転がる。  テレビを見ようにも売ってしまってもうない。マンガを読もうにも売ってしまってもうない。スマホは充電ができないのでとうに売ってしまって、ネットをすることすら叶わない。冷たい飲み物がほしいが、冷蔵庫も昨日売ってしまったからもうない。電気が止まっていて使えないし、そもそも入れる食品を買えない。さらには、この部屋唯一の照明器具だって売ってしまった。この部屋に引っ越してきた時から備え付けられていたもので、まあ大家さんの物なんだけれど二束三文で売ってしまった。  だから、寝るしかない。 「【私】がここに現れたのは、ガスを止められたころだったねえ」  その時の【私】は今よりも透けていて、ぼんやりした存在だった。それが、電気が止まったころに濃くなり、家賃の支払いを滞納した時にまた濃くなった。今では透けることもなく、貧しい自分よりも存在感があるように思える。  家電を売って最後に残った少ないお金で、チェーン店の定食屋で最後の食事をしてきた。水道だって、もうそろそろ止まるだろう。  そうして帰ってきたら、昨日よりもさらに【私】の存在が確かなものになった気がする。  その時だ、 「もうすぐだよ」  なんと【私】が口をきいた。たったそれだけ。でも私には意味がわかった。  部屋の中央に座るげっそりとやつれた【私】のようになるのも、そう遠くない。  母なる大地というが、この星に産まれた私は、やがて死んで土にかえるわけだ。帰り道の途中に、今、私はいるのだ。 「ただいま」  私が言う。 「おかえり」 【私】が返してくれる。
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